勾玉遊戯:過去編1990-2000

01
 
 
 
 夏の空気は碧い硝子瓶の色をしている。

      ☆

 梅雨が上がると、毎日毎日、空は刷毛で絵の具を塗ったように晴れ上がり、暑い夏がはじまった。
 七月も中盤を過ぎ、学期末試験が終わって、やっと夏季休暇らしくなってきた、ある日のことである。
「せっかくだからさー。夏祭りにでも行きたいよなあ? なあ? 柚真人君」
 そんなことを言い出した企画者は、当然の如く橘飛鳥氏だった。
「あたし行く。夕方、花火大会あるし、お祭りも行きたいわ」
「そうですわね……。柚真人さま次第ですけど、そういうのもたまにはいいですわね」
「嫌だよ。欝陶しい。おれは行かないよ。行かないったら行かないからな」
 飛鳥の目論見をにべもなくつっぱねた柚真人ではあったが、
「ええーっ。なんでだよー、行こうよー、行こ行こ。なあー?」
「あー、うるさいっ。いやだっての。絶対いやだからな」
「そおんなあ。いやん、司ちゃん、お兄ちゃんが冷たいっ」
「お前、な……」
「まあ。飛鳥さんたら」
「強気ね……」
 七月の終わりの週末、そんなことから彼らは夏祭りに繰り出した。
 嫌がる少年神主を無理やり拉致するように車に詰め込み、都会を離れた大きな神社の例大祭に向かったのだ。
 そこまではよかったのだけれど――真夏の夕立は案の定、突然だった。

      ☆

「うわ、すごい雷!」
「ほらこっちだ。来い!」
 その声も、天空を割って轟く雷鳴にかき消される。
 水浸しの参道を走り抜け、二人はその奥の社の軒下に駆け込んだ。
 まだ陽の沈む時間までにはだいぶ間があったが、あたりは雷雲の下に入ってひどく薄暗い。夜とも昼ともつかぬ薄い闇の中に、時折眩しい閃光が走る。
 その眼を灼くような光と、それに続く轟音に、司は小さく肩を竦めた。
 そうして、おずおずと辺りを見渡してみる。
 小さな、そして寂れた神社だった。
 もう、社の主もいなくなって久しいことがひと目で見て取れるほどに荒れ、雑草が辺りに生い茂り、木々も伸び放題に枝を生やし、放り出されたままのような様相だ。
 雑木林に囲まれた社殿はひっそりとしており、いまは空から叩き付けてくる凄まじいまでの雨の音が、ただうるさい。
 境内にも人気が無かった。
 それでも、どうやらこれで、この雷雨をやり過ごせそうだ。
柚真(ゆま)(にい)。……ここ、神社だよね?」
 社殿の軒下から紫電輝く空を見遣り、湿ってしまった藍色の浴衣の襟を何となくかき寄せつつ、司は呟いた。
「でも廃屋みたい……? 本殿と違う神社かな」
「いや、例大祭の神社と同じ神社だろうけど……古い社殿か……分社なんじゃないかな」
 と答えるのは司の一歳年上の兄――柚真人である。
 こちらもすっかり濡れてしまった髪の水気を、申し訳程度に払い除けながら、続いて忌々しげに言う。
「ああ、ったく飛鳥のやつ……」
 真夏でも長袖の服しか着ない彼だから、服が肌に張り付いて、いささか暑苦しそうだ。
 司は、階に軽く腰を下ろして不満げにごちる兄を見上げた。
「……天気は飛鳥君のせいじゃないよ」
「わかってるよ……。でも、それにしたって大した例大祭じゃないか。さんざんだ」
「別にいいじゃない。夏だし、雷も」
「……こうやってずぶぬれるのも、真夏の風物詩だとでも?」
 確かに、夏祭りに行こう、などと言い出したのは従兄の橘飛鳥だった。それで、こんな片田舎くんだりまでやってきたのだ。夕方には花火大会もあって、帰りは皇の一番上の兄・卓史(たくみ)が車で迎えに来てくれる予定だったし、それはそれでよかった。
 だが、さすがにこうまでひどい夕立に襲われるとはついていないというべきだろう。それもいきなりだったから、人込みの中でどうにも動きが取れないまま、あっと言う間に全身濡れ鼠になってしまった。おまけに、そのごった返す人込みの中で、一緒に来た飛鳥や、もうひとりの従妹――緋月とはぐれてしまったのだ。
「だから……おれは嫌だといったんだよまったく……」
 とは、無理やり強引に引きずりだされた少年にしてみれば致し方ない言い分ではあるかもしれない。けれど妹の司はにべもなく、肩をすくめてみせたりする。
「お前たち、三人で行きゃよかったんだ。だいたい、例大祭なら毎年うちの神社でもやってるだろ。あれで充分じゃないか。こっちはただでさえ忙しいのに……。引っ張りまわさないでほしいんだよな……」
「ほんっと呆れた根性だよね。ここまで来ておいて何いってんの、往生際悪い。協調性とか皆無?」
 確かに言っても詮なきことではあった。柚真人もそれは承知している。
 再び、辺りが真っ白になり、直後に轟音がとどろいた。びりびりと、あたりの空気が震えているのが伝わってくる。
「……こりゃ、真上だな。しばらくは動けないぞ」
 呆れたように、柚真人が言う。
 司も、それに頷いた。
 さすがに、こうも雷が近いと、少し不安だ。
「飛鳥君と緋月ちゃん、大丈夫かなあ……」
「ま、同じようにどっかでやり過ごすだろ。いくら飛鳥でもこの雨の中走り回ったりはしないよ」
「うん……」
「ところでお前……。こういうのは、怖くないわけだ」
「こういうって……雷? うん。別に、雷は怖くない」
「普通さ、ちょっと怖がってみたりしない? お前、つくづくかわいくないね」
「何? だって普通の天気だよ。太陽が昇るのと一緒でしょうが。危険はあるかもしんないけどさあ、理解はできる。怖くはないでしょ」
「お前、理屈が無いと物事受け入れられないってわけだ」
 司は軽く肩をすくめた。
「当たり前」
「言い切るね、きっぱりと。理屈っていうのが、そんなに大事?」
「そんなの訊くまでもないと思わない?」
「なんで?」
「正体のわからないものには対処のしようがないでしょ? だからいやなの」
「ふうん」
「何よ」
「じゃあ、物理的にとか、科学的にとか、説明がつけばいいんだ? 神様をいちばん信じているのは科学者だっていうけどな」
「あたりまえ。説明出来ないものが気持ち悪いから学者なんでしょ?」
「循環論法」
「うるさいなあ、屁理屈だよ、それ」
「とかなんとかいいつつ無条件に怖がる辺りが、現実主義者のようでいて、そうじゃないよな、お前」
 柚真人が笑ったようだった。
「なによ、それ?」
「怖い、の理屈が、違うんじゃないかってことだよ。お前のは、……言い訳」
 激しい雨脚は少しも衰える様子がなかった。
 降りしきる驟雨の音がが響けば響き渡るほど、辺りの静けさが妙に際立つものである。
 ふたりとも、おかげでびしょ濡れではあったが、さすがに真夏、寒くはない。
 かえって湿気が増し、蒸し暑さも倍増といった感じでさえあった。
 遠く、近く、空を渡る雷鳴を聞きながら、柚真人と司は空を仰ぐ。

      ☆
 
 降りしきる雨の音と、雷鳴。
 他に音はなく、二人の他に何の気配もなく、いっそ閑寂をさえ感じる。
 茂る葉を叩く雨。
 視界を遮る水。
 軒先から滴る雨の滴を見つめながら、司は呟く。
「……なかなか止まないね」
「そうだな」
「お祭りも花火も中止になりそうな勢いだよ……」
「……子供……。そっくりだな、お前と飛鳥」
「どうせね。子供よね。大人で出来のよろしいお兄様とは違いますから」
 司が言う。
 柚真人は、彼女の拗ねたような呟きにほんの少し肩を落した。
 どう――答えてやればよいのやらわからない。けれど結局、口から出るのは意地の悪い憎まれ口だったりするのだ。だから、彼は黙っていた。
 それでなくてもこの状況では、あまり喋りたくはなかった。
 びしょ濡れで人気のない場所に二人きりという状況で、実はひどく動揺しているのだ。けれどもそれを隠そうとして口から迸る言葉は、心とは裏腹で、妹を無意味に傷つけてしまうに決まっている。
 だいたいこんな降って湧いたようなおあつらえの状況で、どうしろというのだ。
 彼女の顔を見ないように、視線を合わせないように、離れてそっぽを向くしかないではないか。
「柚真兄って。……本当、思えば子供のときから老成してたよね」
 一方の司は、ささやかな意趣返し、とでもいうような口調で唇を尖らせる。
「……老成?」
「そう。わかる? 大人っていうんじゃなくてさ。練れてる? ……少し違うか。人を喰ってる。達観? あっ、老獪かな?」
「おいおい、老獪はないだろ。それほど経験値は高くない」
 ふいに振り返った柚真人が珍しく、嫌そうな、それでいて困ったような苦笑を浮かべていたので司は少しはっとした。
 はっと――?
 違う。たぶん、そう、どきりとしたのだ、その表情に。
 兄の顔の造作はそういう、少し刺のある表情がよく似合う。
 司は密かにそう思っている。
 柔らかい表情や、優しいという表情を、この少年があまりしないせいかもしれなかったが、それでも確かに――斜め上から見下ろす目、そして歪めた唇が彼には似合っていた。
 他方の柚真人はというと、いささか不満顔である。
「だいたい、ぴっちぴちの青少年様に向かってそうことを言うかね?」
 柚真人は司に向き直ると、無造作に濡れた前髪を掻き上げて、それから小さく嘆息した。
 細められた瞳が階に座る司を見下ろすので、司は――ふっと目を逸らした。
「だって昔からいつもおとなしくてさ。子供のくせに、人生何が楽しいのかって感じだったし。だから……いいじゃない、こういうお祭りぐらい、つきあったって」
「あのね司。おれだって人並みに楽しいことは楽しいですよ。だから付き合ってるんだろ、飛鳥に」
 目を合わせられないまま、司も溜め息をつく。
「飛鳥君には弱いんだよね、兄貴。結局大抵、付き合っちゃうよね」
「うっ……」
「でも感心だな。飛鳥君だけだから、兄貴引きずりまわしてこんなことさせられるの。ま、飛鳥君も根っからお祭り体質だけど……」
「まったくな。なんとかならないものかねあれは」
「まったくってね。兄貴もちょっとは見習うといいのよ。ほんと、飛鳥君と柚真人って昔から――」
 轟音が天空を裂いたのは、その瞬間。


 辺りが一瞬真っ白に照らし出されて直ぐだった。
 すべてを灼く天上の光。


「……っ」
 残響が消えてゆく。
 その空が砕け散るような音。
 目も眩む閃光。
 光の――瞬き。
 司の中で、その脳裏で、何かが乱れた。
 そう思った。
 交錯する――記憶? 憶い出?
 柚真人と、飛鳥と、緋月と、そして司。
 光の残像の中に見える赤い色が、記憶と混ざり合って。
 ――この色、どこかで……どこかで……。
 ――子供の頃――?
 ――この色、なにかと……維がって……。
 ――昔――?
 ずきん、と頭の奥が痛んだ。
 ぎしり、と頭の隅が軋んだ。
 何か。何かがそこに。
 ――なに?
 ふいに。
 ぞくり、と何かが背中を駆け上った。
 じわり、と何かが頭蓋から染み出す。
 ――あれ……? 前にも、こんなことがあったよね? これ、……何……?
「……司?」
 柚真人の声がした。
 兄の――兄の、声だ。
 一瞬、それがひどく遠くから聞こえたもののように感じた。物理的な距離ではなくて、だけど何処か遠く。
 そう――記憶の片隅から。
 それは現在じゃない。過去だ。
 そう、過去に。ずっと前に、聞いた気がして。
 いつか、どこかで。
 懐かしい――。
 なぜかそう感じた。だから少し、胸が痛んだ。
 ――懐か……しい?