01
――大丈夫。
少女は、自分に言い聞かせた。
――絶対大丈夫。
何に縋っているのだろうと、祈りながら考える。
神様なんて、信じてない。
別に、信仰があるわけじゃない。
それでも、少女は何かに祈らずにはいられなかった。
心に抱えた不安は、あまりに大きすぎて、とても耐えられない。
誰かに、縋らずにはいられない。
そんな気持ちだったのだ。
――ばかげてる。
そう思った。
人間の心というのは、こんなにもくだらなくて、柔くて、脆いものだったのだろうか、と思い知る。だけれど、今の自分が平静を保ち続けることがとても苦痛であることもまた、事実。疑いようのない事実だった。
ふと気を抜けば、泣きそうになっているし、手足が震えるのを感じた。
――こんなことをして、何になるっていうの? 誰かがたすけてくれるの?
――誰かが絶対を約束してくれるの?
――そんなことあるわけないじゃない。
それでも。
そうせずには、いられなかったのだ。
☆
「ねえ、貴女。何か困ったことでもあるの?」
そう声を掛けられたのは、その神社に足を運ぶようになってから、5日目のことだった。
見れば、すらりとした背の高い巫女装束の女性だ。
「ここのところ毎日、同じ時間に来てるでしょう?」
長い髪をいかにもそれらしく肩の辺りで束ねた巫女は、軽く笑ってそういった。その笑顔を見て、随分と華やかな美人だと、思う。
「……」
聖子が返答に困っていると、巫女はすっと聖子の胸元を指差して、
「それ。栄女――栄楼女学館の制服でしょ? アタシ、そこの出身なの。だから気になっちゃって。気に触ったらごめんね?」
「ここの……、巫女さんですよね?」
聖子が尋ねると、彼女はにこやかに頷いた。
「そー。でも、アタシはバイト。毎日、神社に願掛けにくるなんて、貴女みたいな女子高生、珍しいよね……だから……何かあったのかなって」
「……」
「よかったら、サヤカって呼んで? 貴女は?」
「あ。……あたし……真宮……といいます。真宮聖子」
「そう」
巫女は、柔らかく微笑んだ。
聖子は、ごく普通の女子高校生だった。神様なんて全然信じてなかったし、神社なんて初詣でぐらいしか訪れたこともなかった。
毎日の心配事といえば、勉強や成績のことで親がうるさいことと、友達のことと、ちょっとあこがれているバイト先の先輩のことと、あと、溜まったメールにする返信のことぐらいだった。
そんな日常に変化が訪れたのは、丁度一週間前のことになる。
中学二年生の妹が、家に帰らなくなった。
否、正確にいえば、帰ってこなかった。これなくなったのだ――と、思う。
妹の優美は、俗にいう典型的な優等生で、聖子とは何も彼もが正反対だった。
利発で、可愛くて、優しい子だった。誰でも知っている指折りの超難関私立中学に通い、その中でも常に主の成績をおさめ、両親の絶大な期待を一身に背負っていた。
そんな娘が唐突に行方不明になったのだ。
両親は、真っ青になり、その日のうちに警察に捜索願を出した。
そして警察は、事故と犯罪の両方の可能性を含めて、翌日から捜査を開始した。普通、誘拐などの人為的な事件に巻き込まれた場合、何らかの連絡があっても良い。
しかし、三日経っても、四日経っても、犯行声明や身の代金要求の類いの動きはなかった。
そこで、真宮優美は事故にあったか、人為的なものならば犯人の目的が真宮優美自身だったのではないか、ということになった。
事件はその性質から世間に後悔されないままに、警察の捜査は続いていたが、一週間という時間が経った今でも、事態に進展はない。
「それで、……妹が無事だといいと思って……」
かいつまんであたりさわりのない事情を説明したあと、聖子は言った。
「ふうん……」
サヤカと名乗った巫女は、聖子の話を聞き終ると真率な顔で相槌をうった。
話している間、少女の手は小さく震えていて、時々声もか細くなったりして、そんな少女の姿が悲痛に見えた。 夕暮れが近付いて、空には藍色の雲が漂い、風が冷たくなってきている。
「本当に、可愛い妹なんです。あたしなんかと違って、出来が良くて、両親もとても可愛がっていて、あの子がいないと夜も日も明けないぐらい……。あたし……そんな父と母をなんだか見ていられなくて……」
「……仲、良いんだ?」
そういうと、聖子ははにかんだように笑って、こくんと頷いた。
「自慢の妹ですから……」
神社の鳥居をくぐった時、臙脂のブレザーにグレイのスカート、という制服に身を包んだ女の子と擦れ違った。 擦れ違いざま、ほんの少しだけ目が合ったかもしれない。
確か、ここから程近いところにある女子校の制服だったように、記憶している。
すっかり葉桜並木になった参道を抜け、拝殿の前までやってくると、そこにいた巫女が、軽く手を上げた。
「宮司さん。おかえりなさあい」
宮司さん――そう呼ばれた少年、皇柚真人は、柔らかい笑みでそれに応える。
「サヤカさん。まだいたんだ?」
「もう社務所閉めて帰ろうと思ってたところです」
「ナナミさんとユカさんは先に帰ったの?」
「ええ」
皇神社には何人かのバイト巫女がいた。土日を除く平日は3人が常駐で、それを基本にしたシフトの中で、何人かが入れ替わりに社務所や売店で働いている。
これは、神社の宮司たる柚真人が、まだ学生であるためだ。柚真人が呼んだ名前は、今日の担当の巫女たちの名前だった。
「おそくまでご苦労様です。いつもすみません」
そういって、社務所に向かう彼女の背を見送り、自分は神社から裏の邸宅に続く道へ、敷地を隔てる格子の引き戸に手を掛けようとした――時だった。
「ねえ。……宮司さんて、時々、依頼を受けて占いとか、人捜しとか……探偵さんみたいなこと、してるんですよね?」
サヤカが不意に、そう言った。
柚真人は首を傾げ、
「んー……。『探偵』とは少し違うよ。神職だから、依頼を受けてする仕事はだいたい『お祓い』が中心だけど?」
促す口振りで先を預けると、サヤカは少し深刻な様子で突飛なことを訊いてきた。
「……行方不明になった子供の居場所とか、状態とかって、わかったりするんですか?」
「……どうしたの、急に?」
「あ、別に、どうってことはないの。ちょっと思っただけ」
柚真人は肩越しに振り返って、困ったように唇を歪めた。
「……そうだな。そういうのは、時と場合によるんだ。なにか、気になることが?」
尋ね返すと、サヤカはぷるんと横に首を振った。
「いえ、なんでも。なんでもないです。気にしないで」
「そう?」
「ええ」
「……じゃあ。……おれはこれで」
「また明日」
彼女が緋袴を翻して小走りに駆け出してゆく。
サヤカの言葉の意味が、気にならないわけではなかった。けれど彼女が自分の言葉を必要としているようには見えなかったので――柚真人もそのままその場を離れた。
☆
「ただいま……」
自宅のドアを開けても、返答はなかった。
妹がいなくなると、家はこんなに静かだったのかな、と思う。
真宮聖子の自宅は、世田谷にあった。父はいわゆる一流商社の重役で、母は良家の御令嬢。子供は聖子と優美の二人きり。
つい先日までは、絵に描いた様に穏やかな雰囲気の家だった。
問題は何もなかった。
そう、何も。
「お母さん……?」
居間には明かりもなく、暗い部屋の隅のソファに、母がぽつんと座っていた。
聖子が呼んでも、顔を上げようともしない。
居間の扉を閉め、聖子は嘆息した。
そのまま、階段を上がって部屋に入る。
近くのコンビニまで、晩御飯を買いに行かなければならないか、とぼんやり考えた。
けれど不思議なもので、おなかはあまり空かない。空腹感という感覚を、体も脳も、忘れてしまったかのようだ。
――少し休もう。
そう思って、ベッドに体を横たえる。
天井を見上げる。
妹のことを考えた。
あの、可愛らしい笑顔。
頭が良くて、優しくて、誰からも好かれていた、あの子。
優美がいなくなって、この家はすっかり淋しくなってしまった。
たった一週間――。
たった七日。
七日前――。
ふっと意識が浮上した時、ぼそぼそという話し声が聞こえた。
父と母の声だった。
どうやら、父が帰宅したらしい。
聖子は、のろのろと体を起こして、そっと部屋のドアを開けた。そして、階下の方をのぞきこみながら耳をそばだてる。
警察は、なにをやってるんだ。
父の苛立たしい声が聞こえた。
優美が何処にいるか、まだわからないのか。無能なやつらめ。
――あなた……。
自分以外のすべての人間は無能で使いようがないと思っている、傲慢な父らしい言葉だった。優美は、そんな父が唯一、目の中に入れてもいたくないほど可愛がっている存在だったのだ。父にとって、優美は、母や聖子とは明らかに違う存在だった。
動転している父の狼狽振りは、どこか哀れだ。
――あなた。……もしかしたら、優美は……もう……。
――なに、馬鹿なことをいってるんだ!
――でも!
――そんなこと、思っていても口に出すもんじゃないだろう!
少しの沈黙のあと、今度はくぐもった嗚咽が聞こえた。
母が、堪えきれずに泣き出したようだ。
――泣いてどうなるっていうんだ!
父が怒鳴る。
――だいたいお前だって、なにかできることがあるだろう! 一日家にいて、何をやってるんだ。
無茶苦茶な理屈だった。喚く声が、聞き苦しい。
親の期待を一身に受けていた妹だからいたしかたないこととは言えようが、両親は、この家に――否、自分達にもう一人の娘がいることなどすっかり忘れてしまっているようだ。
聖子は、ふたりの会話を聞いているのがいやになって、部屋の扉を閉めた。
晩御飯をどうしようかな、と思ったが、おなかも空いていないし、階下に降りていく気もしなかったので、どうでも良くなった。
両親が寝静まったら、何か探して食べて、それからシャワーを浴びよう。洗濯もしなくてはならない。
柔らかく暖かかった、家が嘘のようだと思う。あれは、本当に存在した、自分の家だったろうか。幻ではなかったか。
夢ではなかったか。
優美がすべてだったのだ。
そう、思う。
あの聡明で利発な妹が、この家のすべてだった。
自分は、親の期待には応えられなかった。良い子供じゃなかった。有名私立中学にも高校にも入れず、優秀な成績を上げられなかった。勉強は嫌いで、親に逆らってばかりで、隠れてバイトをして、溜まったお金で遊んでばかりいた。
それが悪いことだとは思わない。
自分の生き方だ、と思う。
世の中にエリートだけがいるわけじゃない。それだけで社会が成り立っているわけじゃない。勉強だけが人のすべきことのすべてではないし、有名な学校に行ったかどうかで人間の価値や将来が決まるはずがない。
けれど、それは自分の両親の考えとはそぐわないものだった。
両親には到底認められるものではなかった。
だからこそ。
この家に必要なのは、優美なのだ。優美だけなのだ。
――優美……。
聖子の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
――優美……。
――大丈夫。
少女は、自分に言い聞かせた。
――絶対大丈夫。
何に縋っているのだろうと、祈りながら考える。
神様なんて、信じてない。
別に、信仰があるわけじゃない。
それでも、少女は何かに祈らずにはいられなかった。
心に抱えた不安は、あまりに大きすぎて、とても耐えられない。
誰かに、縋らずにはいられない。
そんな気持ちだったのだ。
――ばかげてる。
そう思った。
人間の心というのは、こんなにもくだらなくて、柔くて、脆いものだったのだろうか、と思い知る。だけれど、今の自分が平静を保ち続けることがとても苦痛であることもまた、事実。疑いようのない事実だった。
ふと気を抜けば、泣きそうになっているし、手足が震えるのを感じた。
――こんなことをして、何になるっていうの? 誰かがたすけてくれるの?
――誰かが絶対を約束してくれるの?
――そんなことあるわけないじゃない。
それでも。
そうせずには、いられなかったのだ。
☆
「ねえ、貴女。何か困ったことでもあるの?」
そう声を掛けられたのは、その神社に足を運ぶようになってから、5日目のことだった。
見れば、すらりとした背の高い巫女装束の女性だ。
「ここのところ毎日、同じ時間に来てるでしょう?」
長い髪をいかにもそれらしく肩の辺りで束ねた巫女は、軽く笑ってそういった。その笑顔を見て、随分と華やかな美人だと、思う。
「……」
聖子が返答に困っていると、巫女はすっと聖子の胸元を指差して、
「それ。栄女――栄楼女学館の制服でしょ? アタシ、そこの出身なの。だから気になっちゃって。気に触ったらごめんね?」
「ここの……、巫女さんですよね?」
聖子が尋ねると、彼女はにこやかに頷いた。
「そー。でも、アタシはバイト。毎日、神社に願掛けにくるなんて、貴女みたいな女子高生、珍しいよね……だから……何かあったのかなって」
「……」
「よかったら、サヤカって呼んで? 貴女は?」
「あ。……あたし……真宮……といいます。真宮聖子」
「そう」
巫女は、柔らかく微笑んだ。
聖子は、ごく普通の女子高校生だった。神様なんて全然信じてなかったし、神社なんて初詣でぐらいしか訪れたこともなかった。
毎日の心配事といえば、勉強や成績のことで親がうるさいことと、友達のことと、ちょっとあこがれているバイト先の先輩のことと、あと、溜まったメールにする返信のことぐらいだった。
そんな日常に変化が訪れたのは、丁度一週間前のことになる。
中学二年生の妹が、家に帰らなくなった。
否、正確にいえば、帰ってこなかった。これなくなったのだ――と、思う。
妹の優美は、俗にいう典型的な優等生で、聖子とは何も彼もが正反対だった。
利発で、可愛くて、優しい子だった。誰でも知っている指折りの超難関私立中学に通い、その中でも常に主の成績をおさめ、両親の絶大な期待を一身に背負っていた。
そんな娘が唐突に行方不明になったのだ。
両親は、真っ青になり、その日のうちに警察に捜索願を出した。
そして警察は、事故と犯罪の両方の可能性を含めて、翌日から捜査を開始した。普通、誘拐などの人為的な事件に巻き込まれた場合、何らかの連絡があっても良い。
しかし、三日経っても、四日経っても、犯行声明や身の代金要求の類いの動きはなかった。
そこで、真宮優美は事故にあったか、人為的なものならば犯人の目的が真宮優美自身だったのではないか、ということになった。
事件はその性質から世間に後悔されないままに、警察の捜査は続いていたが、一週間という時間が経った今でも、事態に進展はない。
「それで、……妹が無事だといいと思って……」
かいつまんであたりさわりのない事情を説明したあと、聖子は言った。
「ふうん……」
サヤカと名乗った巫女は、聖子の話を聞き終ると真率な顔で相槌をうった。
話している間、少女の手は小さく震えていて、時々声もか細くなったりして、そんな少女の姿が悲痛に見えた。 夕暮れが近付いて、空には藍色の雲が漂い、風が冷たくなってきている。
「本当に、可愛い妹なんです。あたしなんかと違って、出来が良くて、両親もとても可愛がっていて、あの子がいないと夜も日も明けないぐらい……。あたし……そんな父と母をなんだか見ていられなくて……」
「……仲、良いんだ?」
そういうと、聖子ははにかんだように笑って、こくんと頷いた。
「自慢の妹ですから……」
神社の鳥居をくぐった時、臙脂のブレザーにグレイのスカート、という制服に身を包んだ女の子と擦れ違った。 擦れ違いざま、ほんの少しだけ目が合ったかもしれない。
確か、ここから程近いところにある女子校の制服だったように、記憶している。
すっかり葉桜並木になった参道を抜け、拝殿の前までやってくると、そこにいた巫女が、軽く手を上げた。
「宮司さん。おかえりなさあい」
宮司さん――そう呼ばれた少年、皇柚真人は、柔らかい笑みでそれに応える。
「サヤカさん。まだいたんだ?」
「もう社務所閉めて帰ろうと思ってたところです」
「ナナミさんとユカさんは先に帰ったの?」
「ええ」
皇神社には何人かのバイト巫女がいた。土日を除く平日は3人が常駐で、それを基本にしたシフトの中で、何人かが入れ替わりに社務所や売店で働いている。
これは、神社の宮司たる柚真人が、まだ学生であるためだ。柚真人が呼んだ名前は、今日の担当の巫女たちの名前だった。
「おそくまでご苦労様です。いつもすみません」
そういって、社務所に向かう彼女の背を見送り、自分は神社から裏の邸宅に続く道へ、敷地を隔てる格子の引き戸に手を掛けようとした――時だった。
「ねえ。……宮司さんて、時々、依頼を受けて占いとか、人捜しとか……探偵さんみたいなこと、してるんですよね?」
サヤカが不意に、そう言った。
柚真人は首を傾げ、
「んー……。『探偵』とは少し違うよ。神職だから、依頼を受けてする仕事はだいたい『お祓い』が中心だけど?」
促す口振りで先を預けると、サヤカは少し深刻な様子で突飛なことを訊いてきた。
「……行方不明になった子供の居場所とか、状態とかって、わかったりするんですか?」
「……どうしたの、急に?」
「あ、別に、どうってことはないの。ちょっと思っただけ」
柚真人は肩越しに振り返って、困ったように唇を歪めた。
「……そうだな。そういうのは、時と場合によるんだ。なにか、気になることが?」
尋ね返すと、サヤカはぷるんと横に首を振った。
「いえ、なんでも。なんでもないです。気にしないで」
「そう?」
「ええ」
「……じゃあ。……おれはこれで」
「また明日」
彼女が緋袴を翻して小走りに駆け出してゆく。
サヤカの言葉の意味が、気にならないわけではなかった。けれど彼女が自分の言葉を必要としているようには見えなかったので――柚真人もそのままその場を離れた。
☆
「ただいま……」
自宅のドアを開けても、返答はなかった。
妹がいなくなると、家はこんなに静かだったのかな、と思う。
真宮聖子の自宅は、世田谷にあった。父はいわゆる一流商社の重役で、母は良家の御令嬢。子供は聖子と優美の二人きり。
つい先日までは、絵に描いた様に穏やかな雰囲気の家だった。
問題は何もなかった。
そう、何も。
「お母さん……?」
居間には明かりもなく、暗い部屋の隅のソファに、母がぽつんと座っていた。
聖子が呼んでも、顔を上げようともしない。
居間の扉を閉め、聖子は嘆息した。
そのまま、階段を上がって部屋に入る。
近くのコンビニまで、晩御飯を買いに行かなければならないか、とぼんやり考えた。
けれど不思議なもので、おなかはあまり空かない。空腹感という感覚を、体も脳も、忘れてしまったかのようだ。
――少し休もう。
そう思って、ベッドに体を横たえる。
天井を見上げる。
妹のことを考えた。
あの、可愛らしい笑顔。
頭が良くて、優しくて、誰からも好かれていた、あの子。
優美がいなくなって、この家はすっかり淋しくなってしまった。
たった一週間――。
たった七日。
七日前――。
ふっと意識が浮上した時、ぼそぼそという話し声が聞こえた。
父と母の声だった。
どうやら、父が帰宅したらしい。
聖子は、のろのろと体を起こして、そっと部屋のドアを開けた。そして、階下の方をのぞきこみながら耳をそばだてる。
警察は、なにをやってるんだ。
父の苛立たしい声が聞こえた。
優美が何処にいるか、まだわからないのか。無能なやつらめ。
――あなた……。
自分以外のすべての人間は無能で使いようがないと思っている、傲慢な父らしい言葉だった。優美は、そんな父が唯一、目の中に入れてもいたくないほど可愛がっている存在だったのだ。父にとって、優美は、母や聖子とは明らかに違う存在だった。
動転している父の狼狽振りは、どこか哀れだ。
――あなた。……もしかしたら、優美は……もう……。
――なに、馬鹿なことをいってるんだ!
――でも!
――そんなこと、思っていても口に出すもんじゃないだろう!
少しの沈黙のあと、今度はくぐもった嗚咽が聞こえた。
母が、堪えきれずに泣き出したようだ。
――泣いてどうなるっていうんだ!
父が怒鳴る。
――だいたいお前だって、なにかできることがあるだろう! 一日家にいて、何をやってるんだ。
無茶苦茶な理屈だった。喚く声が、聞き苦しい。
親の期待を一身に受けていた妹だからいたしかたないこととは言えようが、両親は、この家に――否、自分達にもう一人の娘がいることなどすっかり忘れてしまっているようだ。
聖子は、ふたりの会話を聞いているのがいやになって、部屋の扉を閉めた。
晩御飯をどうしようかな、と思ったが、おなかも空いていないし、階下に降りていく気もしなかったので、どうでも良くなった。
両親が寝静まったら、何か探して食べて、それからシャワーを浴びよう。洗濯もしなくてはならない。
柔らかく暖かかった、家が嘘のようだと思う。あれは、本当に存在した、自分の家だったろうか。幻ではなかったか。
夢ではなかったか。
優美がすべてだったのだ。
そう、思う。
あの聡明で利発な妹が、この家のすべてだった。
自分は、親の期待には応えられなかった。良い子供じゃなかった。有名私立中学にも高校にも入れず、優秀な成績を上げられなかった。勉強は嫌いで、親に逆らってばかりで、隠れてバイトをして、溜まったお金で遊んでばかりいた。
それが悪いことだとは思わない。
自分の生き方だ、と思う。
世の中にエリートだけがいるわけじゃない。それだけで社会が成り立っているわけじゃない。勉強だけが人のすべきことのすべてではないし、有名な学校に行ったかどうかで人間の価値や将来が決まるはずがない。
けれど、それは自分の両親の考えとはそぐわないものだった。
両親には到底認められるものではなかった。
だからこそ。
この家に必要なのは、優美なのだ。優美だけなのだ。
――優美……。
聖子の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
――優美……。

