02
☆
涼しい音。
カラン。カラン。カラン。……カラ……。
酒の香が、鼻先をくすぐった。
「……やっとお目覚めですか」
「……ん……っ」
体を起こす。薄暗い部屋の中央に置かれた円卓に椅子を寄せて、腰を下ろしていた背広姿の青年が、ゆるりと微笑んだ。照明は揺れる蝋燭の明りのみ。
夕方、館のこの部屋に入ったときに自分で点した蝋燭は、だいぶん短くなっていた。
「柚真人君?」
「……ああ。うん……優麻か……」
前髪を掻き上げると、額が寝汗で少し湿っていた。おおきくはだけた制服の胸元をつかんで、深く、嘆息する。酒の匂いは、円卓から漂ってくるのだということが判った。琥珀色のとろりとした液体に満たされた硝子杯を、彼が手にしている。涼しい音は氷。円卓には、瓶。
「首尾は?」
「上々。そのうち買い手も付くんじゃないかな」
立上がり、軽く伸びをする。小さな欠伸が出た。
「ご苦労さまでした」
この洋館は、一件の競売物件だった。
土地、建物、双方併せて時価2億ほどの物件である。
抵当のため、差押えられて競売にかけられたものだ。しかし、かつて殺人事件のあった洋館ということで、なかなか買い手が付かなかった。やれ幽霊が出るだの、祟りがあるだのと、まことしやかに噂になるほどの曰く付きとあって、訴訟を担当している弁護士の優麻も管財人として難儀していた次第である。なにせ抵当妨害の短期賃貸借さえただの一件も成立しないほどの物件だったのだから。
だが、物件の敷地面積は広く造りも豪奢で不動産としては申し分なく、破産状態にある債務者の唯一の責任財産である以上、どうあっても競売によって処分する必要があった。
そこで物件のお祓いとお清めなるものを、この少年神主に委託していたのである。
「被担保債権額の三パーセントでよろしいですか?」
宮司は、代償の交渉に軽く頷いた。
「包括競売だったよな?」
「……抜け目がないですねえ」
肩を竦めた優麻が、ふと怪訝そうに柚真人を見た。
「……おや……柚真人君。首筋、どうしたんです?」
「……何か?」
「ええ。新しい傷がありますよ。刃物を少しあてがったような、細い……」
「ふうん。……彼女の爪かな?」
「彼女?」
「件の噂の主だよ。現れた時、おれの首に爪で触れた」
そのほっそりとした頸に、優麻は指で触れる。
少年の肌は、何故かどきりとするほど滑らかで、冷たかった。
「司さんが何と言うでしょう、かわいそうに。君もたいがい懲りない人だ」
少年神主の妹――司は、神社に生まれながら怪奇現象・超常現象恐怖症で、その手のモノに極端に臆病なくせに敏感で、兄柚真人の怪しい神主業をこの上なく毛嫌いしている。
「……知ったことか。おれには関係ない」
円卓に手をついて、椅子に足を組み座る青年を見下ろしながら、柚真人は吐き捨てた。
「またまた。そうやって冷たいことを……」
「それは……何か? 祝杯か?」
「いやですねえ。お清めに持参したんですよ」
「ばかか? それなら洋酒は違うだろ」
「いいでしょう。結局、アルコールですから」
「……アルコールってな……消毒薬じゃないっての。清めに酒を使うのにはそれなりの理由がある。アルコールでいいってならそれこそ消毒薬をぶちまけりゃいいって話になるだろう。お前も一から勉強しなおすか?」
気楽なもんだな、と柚真人は言った。差し出されたグラスを手にして、琥珀の液体を口に含む。強い酒精が鼻孔をつきぬけた。
そして――眉をしかめる。
「……おもうによ。この、氷どうしたよ? ここ、電気も水道もきてないはずだぞ」
「坂の下のコンビニで」
「……はっ……。聞くんじゃなかったな。お前、完全に祝杯のつもりだったろう。そおだろ? だいたい残った氷はどうすんだよ」
「仕事料、いらないんですか?」
目を丸くして、いかにもわざとらしく青年が言った。
「……わかったよ」
柚真人はいささかばかり肩を落として黙った。
再び、グラスを傾けて、銘柄も種類も何だかよく判らない酒を舐める。優麻の趣味を鑑みて己の感覚を信用するなら、これはウィスキーだろう。
何が『お清め』だか。
あと、仮にも弁護士がこういうものを未成年にすすめるな。まあ――自分はすでに、普通に違法という程度には酒は嗜んでいるけれども。
「何を、考えています?」
優麻が不意にそう言った。
「……何って?」
「いまの君の瞳は、危ない色を映していますよ。何かいけないことを考えているでしょう?」
そう続けられて柚真人は肩を揺らした。くく、と喉を鳴らす。
「いけないこと……ねえ」
「よからぬこと、とでも言い換えましょうか」
「そうだな……物騒なこと、だな。強いて言えば」
恋人――想う人を殺してしまうことで、彼女が自分のものになるとは思えない。そんなことは思わない。
だが、誰か他の者の手に渡ることはなくなるのだ――永遠に。
それは、細やかな誘惑ではある。
それもまた、ひとつの選択。完璧な完結。
鋭い刃物で喉を引き裂き、噴水のように吹き上がる血を頭から浴びて、恋人の永遠を得る。何も彼もを、この手で終わらせる。
それもまた、ひとつの選択。綺麗な完結。背徳の恋にはどのような完結がふさわしいだろう。
何を以て成就といえるのか。
そんなことがありえるのか?
この恋は、どこへ行き着く?
否、それ以前に自分は何を望むのか。
「まあ結局のところ、どうにもならないんだよ」
琥珀の酒を舌先で嘗めて、少年は呟いた。
「何が、です?」
「……ま。……いろいろだ」
「君は、臆病だからね」
青年が言う。
「まあ……それでなくても怯むことはあるでしょうが」
「……お前ってさ。妙に人の心を読んでる発言するんだよな……」
「おや。そうですか?」
「……イヤだな。そんなに判りやすいのか、おれは?」
「ことこの件に関してはね」
「だからそう、読むなっての」
唇を引き結んで歯ぎしりする。
優麻が可笑しそうに、肩を揺らした。
「またしても何かそれらしいことを言ってしまったようですねえ?」
何も考えていなかったのか、優麻の声は脳天気なくらいのんびりしていた。
「……まあいい。気にするな」
「そうはいきません。私はいつも貴方たち兄妹のことを気に掛けてますよ。未成年者後見人ですからね」
「そいつはどうも」
臆病だから――。
そう、自分が傷つくことを恐れている。そんなことはわかっている。
いわれるまでもないことだった。
柚真人は苦しくなって、唇を噛む。
「だから代わりに傷つけてしまうのでしょう。……司さんを」
片手を挙げて、言葉の先の制止を訴えた。
青年の言葉は正確に真実を指摘するから痛い。
「でも本当は君の方が……とても――」
「優麻。止めてくれ」
「柚真人君。何度も言いますが……人を想う心には別に正義も悪もない。それは、私たちの評価の中にこそある。そうでしょう? 評価は他人がする、それはやはりどこか無責任なもの。それが倫理と云う名の社会的秩序って奴なんですよ?」
「言うだけなら……なんとでも言えるよ……」
少年は一瞬言葉に詰まり、苦い顔で肩を竦め、青年は微笑む。
幻覚に見た、血に濡れた円卓。
滴り落ちる真紅。
床を埋め尽くす緋赤。
その円卓の上の硝子杯の中に揺れる琥珀。
「なんとでも……いえる……」
妹にとって、兄は――。
だから柚真人は、自分の枷で自分を拘束することを選んだ。
自分の中で終わらせることが、望むべき完璧な完結だと。たとえばどこまで傷ついたって、何も望まない。未来を選ばない。
それが背徳の代償だから。
幻影に見た、鮮血の残像――それは、自分の心が刻む痛みだ。血まみれの姿で、鏡の向こうに佇んでいるのは自分自身に他ならない。
本当は、言葉やしぐさで妹を傷つける度に傷ついているのは、自分自身なのだろう。自分で自分を切り刻み、傷め付け、その痛みが辛うじて自分を正気に繋ぎとめている。
だが――一体何を望めると言うのだろう。
彼女に、何を?
絶対的に、原始的に不能。
永遠に不能。摂理は変わらない。
「……蕾のまま太陽に灼かれて、咲くこともできずに枯れる向日葵のようですね。君は」
柚真人は自嘲った。力なく。
「いってくれるねえ。じゃあ、いつかは……きっと腐って果てるんだろう」
本当は彼女のまっさらな笑顔を――背徳の罪を裁かれることでなく、きっと赦しを待っているのに。
それは叶えられることがないのだ。
永遠に。
それを、知っている。
「さて――帰ろう。やっぱり司に外出がばれないうちに、部屋に戻りたいから」
「……結局、なんだかんだいっても司ちゃんなんですよね。柚真人君って」
「ほっとけ」
☆
それもいいだろう。
こんなふうにしか、おれにはできない。
柚真人は嘆息する。
そして――蝋燭の炎が揺らめき消えた。
☆
涼しい音。
カラン。カラン。カラン。……カラ……。
酒の香が、鼻先をくすぐった。
「……やっとお目覚めですか」
「……ん……っ」
体を起こす。薄暗い部屋の中央に置かれた円卓に椅子を寄せて、腰を下ろしていた背広姿の青年が、ゆるりと微笑んだ。照明は揺れる蝋燭の明りのみ。
夕方、館のこの部屋に入ったときに自分で点した蝋燭は、だいぶん短くなっていた。
「柚真人君?」
「……ああ。うん……優麻か……」
前髪を掻き上げると、額が寝汗で少し湿っていた。おおきくはだけた制服の胸元をつかんで、深く、嘆息する。酒の匂いは、円卓から漂ってくるのだということが判った。琥珀色のとろりとした液体に満たされた硝子杯を、彼が手にしている。涼しい音は氷。円卓には、瓶。
「首尾は?」
「上々。そのうち買い手も付くんじゃないかな」
立上がり、軽く伸びをする。小さな欠伸が出た。
「ご苦労さまでした」
この洋館は、一件の競売物件だった。
土地、建物、双方併せて時価2億ほどの物件である。
抵当のため、差押えられて競売にかけられたものだ。しかし、かつて殺人事件のあった洋館ということで、なかなか買い手が付かなかった。やれ幽霊が出るだの、祟りがあるだのと、まことしやかに噂になるほどの曰く付きとあって、訴訟を担当している弁護士の優麻も管財人として難儀していた次第である。なにせ抵当妨害の短期賃貸借さえただの一件も成立しないほどの物件だったのだから。
だが、物件の敷地面積は広く造りも豪奢で不動産としては申し分なく、破産状態にある債務者の唯一の責任財産である以上、どうあっても競売によって処分する必要があった。
そこで物件のお祓いとお清めなるものを、この少年神主に委託していたのである。
「被担保債権額の三パーセントでよろしいですか?」
宮司は、代償の交渉に軽く頷いた。
「包括競売だったよな?」
「……抜け目がないですねえ」
肩を竦めた優麻が、ふと怪訝そうに柚真人を見た。
「……おや……柚真人君。首筋、どうしたんです?」
「……何か?」
「ええ。新しい傷がありますよ。刃物を少しあてがったような、細い……」
「ふうん。……彼女の爪かな?」
「彼女?」
「件の噂の主だよ。現れた時、おれの首に爪で触れた」
そのほっそりとした頸に、優麻は指で触れる。
少年の肌は、何故かどきりとするほど滑らかで、冷たかった。
「司さんが何と言うでしょう、かわいそうに。君もたいがい懲りない人だ」
少年神主の妹――司は、神社に生まれながら怪奇現象・超常現象恐怖症で、その手のモノに極端に臆病なくせに敏感で、兄柚真人の怪しい神主業をこの上なく毛嫌いしている。
「……知ったことか。おれには関係ない」
円卓に手をついて、椅子に足を組み座る青年を見下ろしながら、柚真人は吐き捨てた。
「またまた。そうやって冷たいことを……」
「それは……何か? 祝杯か?」
「いやですねえ。お清めに持参したんですよ」
「ばかか? それなら洋酒は違うだろ」
「いいでしょう。結局、アルコールですから」
「……アルコールってな……消毒薬じゃないっての。清めに酒を使うのにはそれなりの理由がある。アルコールでいいってならそれこそ消毒薬をぶちまけりゃいいって話になるだろう。お前も一から勉強しなおすか?」
気楽なもんだな、と柚真人は言った。差し出されたグラスを手にして、琥珀の液体を口に含む。強い酒精が鼻孔をつきぬけた。
そして――眉をしかめる。
「……おもうによ。この、氷どうしたよ? ここ、電気も水道もきてないはずだぞ」
「坂の下のコンビニで」
「……はっ……。聞くんじゃなかったな。お前、完全に祝杯のつもりだったろう。そおだろ? だいたい残った氷はどうすんだよ」
「仕事料、いらないんですか?」
目を丸くして、いかにもわざとらしく青年が言った。
「……わかったよ」
柚真人はいささかばかり肩を落として黙った。
再び、グラスを傾けて、銘柄も種類も何だかよく判らない酒を舐める。優麻の趣味を鑑みて己の感覚を信用するなら、これはウィスキーだろう。
何が『お清め』だか。
あと、仮にも弁護士がこういうものを未成年にすすめるな。まあ――自分はすでに、普通に違法という程度には酒は嗜んでいるけれども。
「何を、考えています?」
優麻が不意にそう言った。
「……何って?」
「いまの君の瞳は、危ない色を映していますよ。何かいけないことを考えているでしょう?」
そう続けられて柚真人は肩を揺らした。くく、と喉を鳴らす。
「いけないこと……ねえ」
「よからぬこと、とでも言い換えましょうか」
「そうだな……物騒なこと、だな。強いて言えば」
恋人――想う人を殺してしまうことで、彼女が自分のものになるとは思えない。そんなことは思わない。
だが、誰か他の者の手に渡ることはなくなるのだ――永遠に。
それは、細やかな誘惑ではある。
それもまた、ひとつの選択。完璧な完結。
鋭い刃物で喉を引き裂き、噴水のように吹き上がる血を頭から浴びて、恋人の永遠を得る。何も彼もを、この手で終わらせる。
それもまた、ひとつの選択。綺麗な完結。背徳の恋にはどのような完結がふさわしいだろう。
何を以て成就といえるのか。
そんなことがありえるのか?
この恋は、どこへ行き着く?
否、それ以前に自分は何を望むのか。
「まあ結局のところ、どうにもならないんだよ」
琥珀の酒を舌先で嘗めて、少年は呟いた。
「何が、です?」
「……ま。……いろいろだ」
「君は、臆病だからね」
青年が言う。
「まあ……それでなくても怯むことはあるでしょうが」
「……お前ってさ。妙に人の心を読んでる発言するんだよな……」
「おや。そうですか?」
「……イヤだな。そんなに判りやすいのか、おれは?」
「ことこの件に関してはね」
「だからそう、読むなっての」
唇を引き結んで歯ぎしりする。
優麻が可笑しそうに、肩を揺らした。
「またしても何かそれらしいことを言ってしまったようですねえ?」
何も考えていなかったのか、優麻の声は脳天気なくらいのんびりしていた。
「……まあいい。気にするな」
「そうはいきません。私はいつも貴方たち兄妹のことを気に掛けてますよ。未成年者後見人ですからね」
「そいつはどうも」
臆病だから――。
そう、自分が傷つくことを恐れている。そんなことはわかっている。
いわれるまでもないことだった。
柚真人は苦しくなって、唇を噛む。
「だから代わりに傷つけてしまうのでしょう。……司さんを」
片手を挙げて、言葉の先の制止を訴えた。
青年の言葉は正確に真実を指摘するから痛い。
「でも本当は君の方が……とても――」
「優麻。止めてくれ」
「柚真人君。何度も言いますが……人を想う心には別に正義も悪もない。それは、私たちの評価の中にこそある。そうでしょう? 評価は他人がする、それはやはりどこか無責任なもの。それが倫理と云う名の社会的秩序って奴なんですよ?」
「言うだけなら……なんとでも言えるよ……」
少年は一瞬言葉に詰まり、苦い顔で肩を竦め、青年は微笑む。
幻覚に見た、血に濡れた円卓。
滴り落ちる真紅。
床を埋め尽くす緋赤。
その円卓の上の硝子杯の中に揺れる琥珀。
「なんとでも……いえる……」
妹にとって、兄は――。
だから柚真人は、自分の枷で自分を拘束することを選んだ。
自分の中で終わらせることが、望むべき完璧な完結だと。たとえばどこまで傷ついたって、何も望まない。未来を選ばない。
それが背徳の代償だから。
幻影に見た、鮮血の残像――それは、自分の心が刻む痛みだ。血まみれの姿で、鏡の向こうに佇んでいるのは自分自身に他ならない。
本当は、言葉やしぐさで妹を傷つける度に傷ついているのは、自分自身なのだろう。自分で自分を切り刻み、傷め付け、その痛みが辛うじて自分を正気に繋ぎとめている。
だが――一体何を望めると言うのだろう。
彼女に、何を?
絶対的に、原始的に不能。
永遠に不能。摂理は変わらない。
「……蕾のまま太陽に灼かれて、咲くこともできずに枯れる向日葵のようですね。君は」
柚真人は自嘲った。力なく。
「いってくれるねえ。じゃあ、いつかは……きっと腐って果てるんだろう」
本当は彼女のまっさらな笑顔を――背徳の罪を裁かれることでなく、きっと赦しを待っているのに。
それは叶えられることがないのだ。
永遠に。
それを、知っている。
「さて――帰ろう。やっぱり司に外出がばれないうちに、部屋に戻りたいから」
「……結局、なんだかんだいっても司ちゃんなんですよね。柚真人君って」
「ほっとけ」
☆
それもいいだろう。
こんなふうにしか、おれにはできない。
柚真人は嘆息する。
そして――蝋燭の炎が揺らめき消えた。

