03
☆
その日の夕方、柚真人は、和泉と、都心部を巡る環状線のある駅にいた。
「ちょっと出かけてくるから」
と、社務所にいた司に告げると、今日も体調がすぐれないはずの妹は別段不信を抱いた様子もなく、「晩御飯までには帰ってくるよね?」などと言っていた。
こと料理に関しては絶対的無能力な妹に食事を用意しなくてはならないから柚真人は頷いて、そして神職の装束を解いて着替え、和泉と電車に乗ったのである。
そうして新宿から環状線に乗り込むと、柚真人はじっと車窓を見つめ、駅を通過する度にかすかに嘆息を繰り返していたが、やがてあるひとつの駅で、和泉を促し電車を降りた。
その後、プラットホームの端の方で、二人は駅と人込みを眺めている。
日曜日の夕方、行楽帰りの乗客で込み合うホームを。
和泉は、駅構内は終日禁煙です、というアナウンスを聞くともなしに煙草を吹かし、静かにたたずむ少年神主を見守っていた。
少年は、鋭い瞳で、夕暮れ人込みでごった返す休日のプラットホームを見つめている。
「……御当主。どうよ?」
「うん……」
柚真人は、肩越しに和泉を振り返ると、少し首を傾げた。
「和泉には霊視えないんだよな」
「……何が見える?」
「嬰児」
端的に、柚真人はそう言った。
「はっ?」
「嬰児。子供だよ。赤ん坊。……必死にホームの上を這っているんだけど……」
「…………えええ?」
咄嗟には、その光景は想像できるものではない。
それでも視えると、少年は言う。
「って。霊? ねえ、霊?」
「……。和泉さあ? そう言う基本的なことだけでも、もう少し……」
「んあ? 何?」
「……ま、いいや。……そう……言いたければ、それでもいいけど……」
「けども……なんでまた? いや……その、君の目に見えるその赤ん坊が、その……まっさか俺が担当している事件の『犯人』だっていうわけかいね?」
少年は、躊躇なく頷く。
「うん」
「はえ!?」
和泉の相槌は奇妙な感嘆符になってしまう。
「うん……。事件の『犯人』、というなら……そうなんだろうよ。だけど、そのモノに明確な意思はない」
「意思、がない?」
「そう。ただああやって、懸命に這いずり回ってる。幽霊……念、かな。でもそれだけだよ。ただそれが、ああやってホームの上に在るわけだから、ま、ちょっとあれな人とは衝突してしまう。だから衝突した人は物理的な衝撃を感るだろ。まあ人によっては突き飛ばされたと思う。自分で躓いただけなんだけどね? だからそこには誰もいない。……在るけど、まあ視えないよね」
「へえっ。……そういうわけ。そおういうことがあるわけえ?」
ゆっくり、柚真人は頷いた。
まだ瞳を細めている。
「遺体は……駅のコインロッカー……かな……うん」
静かに言葉を紡ぐ柚真人の横顔を、和泉は横目でうかがった。
すでに、少年はその意思で某かの想念の残滓を祓い昇華させようとしているのか、冷ややかで、それでいて穏やかに凪いだなまなざしを注いでいる。
死者を――祓う。
皇流神道における柚真人のその行為を、『祓う』と云うが――それは実のところ『示す』ことを意味する。皇の巫は、死せる魂に、逝くべき黄泉路を示すのだ。それを皇神社の裏神事に『死者祓』という。
この歳若い当主はどうするのであろうかと、和泉はそんなことを思った。
思いながら、訊く。
「……駅のコインロッカー? そりゃまた唐突だねえ?」
「なぁに。ありがちな話だろう?」
「そりゃあそうだけど。でもさあ、あれは……」
「普通、定期点検する、ってんだろ。だがまあ、在るはずなんだ、遺体の入っているロッカーが」
「……君、そんなハッキリキッパリと」
「理屈を聞かれると説明の仕様がないんだが、……そういうのはわかるんだ」
「……言い切るかい?」
「そいつは愚問だな、和泉」
皇の『巫』としての言葉で断言して、少年神主は続けた。
「うん。やっぱりあの子供……『そのもの』は駅のロッカー、じゃないかな。暗くて……狭い……。あの嬰児の幽霊は、環状線を回る人の環に混ざり込んで、駅と駅を巡っているみたいだけど……」
「ふうん。捨てられた赤子ね……」
「そのようだね。だけど子供が捨てられた場所がどこの、どの場所かまでは……。この環状線はその手のロッカーが多すぎて、雑多な想いが混ざって特定できないけど……駅員に聞けば判ると思うんだよ」
和泉は、はあっ、と肩を落として溜め息をついた。
「うひゃ、めんどくさっ。それって何。探すならひと駅ひと駅あたるしかないよねえ?」
「まあな」
即答。
和泉はさらに肩を落とした。
そういう作業は好きじゃない。もちろん、好き嫌いの問題じゃないし、別に和泉が直截しなければならない仕事でもない。だが面倒だった。
この男、公僕という自覚に著しく欠ける、不謹慎極まりない駄目刑事なのである。
「そりゃあ面倒だなあ。場所、特定できないの?」
「おれは千里眼じゃない」
指摘されて、和泉はしぶしぶ頷いた。
「……ああ……。屍体かあ……」
「当たり前だよ」
柚真人は頷いた。
「生後、……八、九か月だろうか……。でも、彼……もしくは彼女は、言葉も教わって無いよ。生きることがやっとの食餌をあてがわれていただけで、光を知らず、言語を知らず、この世に在る何一つのことを知らない。その心の中には何もない。ただの虚ろだね……」
静かに呟き、少年神主は目を伏せた。
「そして捨てられたんだ」
感情の乏しい声音だった。
柚真人はしばらくの間、色の宿らぬ瞳でそれを、じっと見ていた。
和泉には、彼の見ているものはわからない。
傍目には、混雑するホームで行き交う人を、夕方の景色を、ぼんやりと眺めているようにしか、見えない。
だが、透明なまなざしで、少年神主はそれを凝視する。
路を示すために。
けれども――それからしばしの沈黙の後。
ふっと、少年の肩から力が抜け――落ちる。
「ああ……まいったな。駄目だ」
そう、柚真人は呻いたのだ。
「祓うにしてはあまりに空だ、あれは。……放っておいてもそのうち、消えてしまうとは思うが……」
「そうなの?」
「ああ。なんていうか……本当に、なにも無い。ただの生命欲の滓みたいだよ……。死に逝く躯からそれだけが洩れて凝ったみたいな」
面白いことをいう、と和泉は思った。
そういうのって、身体から染み出て洩れたりするものなんだろうか。魂が? それは巨大なアメーバみたいなんだろうか、と、和泉はそんな想像をした。
少し顎を仰のかせて、柚真人が深く深呼吸する。
呟きはどこか苦しげだった。
柚真人の目には見えて和泉には見えないものは、――赤子の魂の凝り。
ホームを行き交う人の波の中に、蠢くものは、この世に生まれ出で儚く費えていった命。
喧騒の中、電車がプラットホームに滑り込み、乗客を吐き出し、回収して、またプラットホームを出て行く。
その喧騒の中を、魂が漂っているという。
彷徨っていると。
意思も無く、自身の存在を知ることもなく。
「となると。やっぱり遺骸を直接弔うしかなさそうだな……」
和泉の口許から、かすかに煙草の灰が、零れて落ちた。
「……ああ、嫌な予感。大至急、とかいわないよねえ?」
「何か言ったかな、公僕殿?」
「うわあ、嫌な感じ」
和泉がいうと、少年は――苦笑して、小さく肩を揺らしたのだった。
「それ、わかってたでしょう、ご当主? 本当のところは遺体の始末、させたかったんでしょう?」
「勘ぐるねえ」
「……それで、『待ってた』んだ。どっかから依頼が来るのを。探させるのが目的で。『渡りに船』ね、よっく言うよお」
「なるべく丁重にたのむよ」
はうっ、と奇妙な気合いを吐いて姿勢を正し、和泉は大きく伸びをする。
電車が、また、ホームに入ってきた。 時間は流れている。生活も流れている。止まること無く。
「じゃ、行こうか。飯の支度、しないとな」
「ああ、可愛い妹ちゃんのね」
「……別段、カワイくはない」
柚真人は踵を返した。
何も引きずらないように。
あとを振り返らずに。
冷淡であり、そして潔くもある、態度だった。
彼は、決して振り向かない。
振り向いて、引きずられるわけにはいかないのだ。感情や意思を、乱すことは許されない。それは尋常なことでは無いはずだったが、皇の巫である以上耐えねばならないことなのだ。
和泉にとっては所詮他人事だが――。
ふうん。だんだんらしくなって
きてるじゃん?
怜悧な横顔を眺めつつ、和泉は心中にやりとほくそ笑む。
――ねえ? 御当主様。
そう、声に出さずに呟いた。
☆
「でもさあ? 屍体ってことはよ。死体遺棄じゃん……」
唐突に、ぼそりと陵和泉がごちったので、松永刑事は肩を揺らして彼を見返った。
「何か、おっしゃいましたか?」
本庁から捜査本部設置の命を受けてきたはずの刑事は、窓の外を眺めながら、ぼうっと煙草を吹かしていた。そのだらしないさまといったらない。この人は、顔を合わせてからいまのいままでで煙草をくわえていないときがない、と松永は思った。
返事がないので、それ以上は声を掛けないことにする。
捜査本部、などという物々しい看板を立ててはみたものの、この本庁の刑事は、まったく仕事をする気配を見せなかった。月曜日の今日も、出てきたと思ったら駅売りのスポーツ新聞をばっさと広げ、缶コーヒーを啜りながら煙草を吹かし、だらだらだらだらしているだけなのだ。
一体、何を考えているのだろう――というよりそれは、松永が想像していたのとはだいぶん違う、いわゆる『上級国家公務員』の姿であった。
他方の和泉はといえば、その頭の中では、まったくもってろくでもない思考がそれはもうぐるぐると凄まじい勢いで渦を巻いていたのだ。
――死体遺棄っつったらよ。まず検死っしょ。ね。それから容疑者を探す。聞き込みで歩き回る。そして令状請求。逮捕。事情聴取に供述録取。そおいう事件になると上も他も首突っ込んでくるよねえ。これでよ? 被疑者が中学生とか、高校生とかだとまた洒落になんないしよう。書類書き、書類書き、書類書き。マスコミ対策。うわっ、うっざあ……。
はうっ、と煙を吐きだす。
表面上は何も考えてないようにしか見えない表情で、ふむ、と唸る。
――そいういう怪しげなコインロッカーなんてさ、わざわざ俺が関わらなくてもよ? そのうち噂になって。どっかの馬鹿がこじ開けるって。そしたら所轄に話がいって、そっから本店に話がいって、有能な誰かが将来のために御指名を受けるってことになるよねん?
日差しがほんのりと暖かい。
こういう日に、勤勉に仕事に勤しむのは、陵和泉の生活信条に著しく合致しない。
――だいたい、誰も期待しないよねえ。俺がまじめに仕事するなんてねえ。
期待されてもイヤだけどもよ。逆によけえなことすんなとかいわれちゃったりして。ひゃあ、やだやだ。
夏と春との境目の、柔らかくも力強くもある日を浴びながら、和泉はそうして答えを出した。
「……いっか」
それが、結論。
「いいよね。いいわ。もお、やめやめ。やめた!」
「……はい?」
「撤収撤収!」
「え? ちょっと、あの、陵さん――」
自分の中で勝手に決定を下した和泉は、もはや松永刑事の声など聞く気すらないようだった。
ばさっと新聞を放り投げて、やおら立ち上がる。
「俺、帰るわ。捜査本部、解散ね?」
「かっ、……帰るって……」
「後片付け、よろしく頼むわ。じゃ」
「じゃ……って……ちょっと……えええ!?」
取り残された刑事が、ただ呆然と、口を開けてその後ろ姿を見送るしかなかったのは、いうまでもないことである。
☆
――月曜日。
部活を終えて帰宅すると、妹が居間でテレビを見ていた。夕方のニュース番組だった。
「……ただいま」
制服のまま、廊下から居間を覗き込む。
司は、というと、ちらりと柚真人を見やって、うん、などと言った。
少しだけ、柚真人はその顔色をうかがい見た。
昨日の夕方までは、食欲が無いだの、体がだるいだのといっていた司だけれど、具合はすっかりいいようだ。
ちょっとばかり安堵した気持ちで、それと悟られぬよう、嘆息。
「……今日は、大丈夫そうか?」
司は、また、軽くうん、と頷いた。
「そっか」
彼女の身体を侵す障りが正真正銘の『巫女』としての資質によるものだということを、彼女は強行に拒否して、受け入れようとしない。
だから、柚真人は何も言わなかった。
――病弱なわけではないが、多少風邪をひいたり熱を出したりはしやすい体質なのだ――と、本人は納得しようとしている。だから、そういうことにしておいている。
それは、自己欺瞞や現実逃避との謗りを受ける行為かもしれない。皇家にその血を受け継ぎ生まれた以上、自ら認めねばならないことかもしれない。けれど、司が拒むなら、それを強要するつもりはない。強いれば精神の負担になる。いらぬ苦痛と恐怖を強いる。
柚真人にとっては、そちらのほうがよほど問題だ。
今回のことだって、大した障りにはならないだろうと思わなければ、放っておいたりはしなかった。その見極めは、しているつもりだ。もし司に深刻な状況が想定されたなら、商売金銭云々以前の問題で躊躇なく障害を片付けただろう。
この皇の社は、自分が守ればすむこと。
そう、心得ている。
とはいえ和泉が生真面目に仕事をするであろう何てことを、柚真人は微塵も期待していなかったので、昨夜のうちに、幾許か簡単な処理を施した。
――何のことはない。
いささかばかりの塩と神符を、司の通学鞄に仕込んだのだ。
柚真人は何も訊かなかったし、妹も何も言わなかったけれど、様子で効果が確認できた。
あの嬰児が発見されて、弔いを受け、魂の残滓が空気になってしまう頃合を見計らって、護符を処分することにしよう。もちろん、妹には内緒の話。
「……何。そんなとこに突っ立って?」
怪訝そうに、妹が言う。
「なんでも。……なんでもないよ」
柚真人は、困ったように、小さく笑った。
「別に、なんでも」
☆
その日の夕方、柚真人は、和泉と、都心部を巡る環状線のある駅にいた。
「ちょっと出かけてくるから」
と、社務所にいた司に告げると、今日も体調がすぐれないはずの妹は別段不信を抱いた様子もなく、「晩御飯までには帰ってくるよね?」などと言っていた。
こと料理に関しては絶対的無能力な妹に食事を用意しなくてはならないから柚真人は頷いて、そして神職の装束を解いて着替え、和泉と電車に乗ったのである。
そうして新宿から環状線に乗り込むと、柚真人はじっと車窓を見つめ、駅を通過する度にかすかに嘆息を繰り返していたが、やがてあるひとつの駅で、和泉を促し電車を降りた。
その後、プラットホームの端の方で、二人は駅と人込みを眺めている。
日曜日の夕方、行楽帰りの乗客で込み合うホームを。
和泉は、駅構内は終日禁煙です、というアナウンスを聞くともなしに煙草を吹かし、静かにたたずむ少年神主を見守っていた。
少年は、鋭い瞳で、夕暮れ人込みでごった返す休日のプラットホームを見つめている。
「……御当主。どうよ?」
「うん……」
柚真人は、肩越しに和泉を振り返ると、少し首を傾げた。
「和泉には霊視えないんだよな」
「……何が見える?」
「嬰児」
端的に、柚真人はそう言った。
「はっ?」
「嬰児。子供だよ。赤ん坊。……必死にホームの上を這っているんだけど……」
「…………えええ?」
咄嗟には、その光景は想像できるものではない。
それでも視えると、少年は言う。
「って。霊? ねえ、霊?」
「……。和泉さあ? そう言う基本的なことだけでも、もう少し……」
「んあ? 何?」
「……ま、いいや。……そう……言いたければ、それでもいいけど……」
「けども……なんでまた? いや……その、君の目に見えるその赤ん坊が、その……まっさか俺が担当している事件の『犯人』だっていうわけかいね?」
少年は、躊躇なく頷く。
「うん」
「はえ!?」
和泉の相槌は奇妙な感嘆符になってしまう。
「うん……。事件の『犯人』、というなら……そうなんだろうよ。だけど、そのモノに明確な意思はない」
「意思、がない?」
「そう。ただああやって、懸命に這いずり回ってる。幽霊……念、かな。でもそれだけだよ。ただそれが、ああやってホームの上に在るわけだから、ま、ちょっとあれな人とは衝突してしまう。だから衝突した人は物理的な衝撃を感るだろ。まあ人によっては突き飛ばされたと思う。自分で躓いただけなんだけどね? だからそこには誰もいない。……在るけど、まあ視えないよね」
「へえっ。……そういうわけ。そおういうことがあるわけえ?」
ゆっくり、柚真人は頷いた。
まだ瞳を細めている。
「遺体は……駅のコインロッカー……かな……うん」
静かに言葉を紡ぐ柚真人の横顔を、和泉は横目でうかがった。
すでに、少年はその意思で某かの想念の残滓を祓い昇華させようとしているのか、冷ややかで、それでいて穏やかに凪いだなまなざしを注いでいる。
死者を――祓う。
皇流神道における柚真人のその行為を、『祓う』と云うが――それは実のところ『示す』ことを意味する。皇の巫は、死せる魂に、逝くべき黄泉路を示すのだ。それを皇神社の裏神事に『死者祓』という。
この歳若い当主はどうするのであろうかと、和泉はそんなことを思った。
思いながら、訊く。
「……駅のコインロッカー? そりゃまた唐突だねえ?」
「なぁに。ありがちな話だろう?」
「そりゃあそうだけど。でもさあ、あれは……」
「普通、定期点検する、ってんだろ。だがまあ、在るはずなんだ、遺体の入っているロッカーが」
「……君、そんなハッキリキッパリと」
「理屈を聞かれると説明の仕様がないんだが、……そういうのはわかるんだ」
「……言い切るかい?」
「そいつは愚問だな、和泉」
皇の『巫』としての言葉で断言して、少年神主は続けた。
「うん。やっぱりあの子供……『そのもの』は駅のロッカー、じゃないかな。暗くて……狭い……。あの嬰児の幽霊は、環状線を回る人の環に混ざり込んで、駅と駅を巡っているみたいだけど……」
「ふうん。捨てられた赤子ね……」
「そのようだね。だけど子供が捨てられた場所がどこの、どの場所かまでは……。この環状線はその手のロッカーが多すぎて、雑多な想いが混ざって特定できないけど……駅員に聞けば判ると思うんだよ」
和泉は、はあっ、と肩を落として溜め息をついた。
「うひゃ、めんどくさっ。それって何。探すならひと駅ひと駅あたるしかないよねえ?」
「まあな」
即答。
和泉はさらに肩を落とした。
そういう作業は好きじゃない。もちろん、好き嫌いの問題じゃないし、別に和泉が直截しなければならない仕事でもない。だが面倒だった。
この男、公僕という自覚に著しく欠ける、不謹慎極まりない駄目刑事なのである。
「そりゃあ面倒だなあ。場所、特定できないの?」
「おれは千里眼じゃない」
指摘されて、和泉はしぶしぶ頷いた。
「……ああ……。屍体かあ……」
「当たり前だよ」
柚真人は頷いた。
「生後、……八、九か月だろうか……。でも、彼……もしくは彼女は、言葉も教わって無いよ。生きることがやっとの食餌をあてがわれていただけで、光を知らず、言語を知らず、この世に在る何一つのことを知らない。その心の中には何もない。ただの虚ろだね……」
静かに呟き、少年神主は目を伏せた。
「そして捨てられたんだ」
感情の乏しい声音だった。
柚真人はしばらくの間、色の宿らぬ瞳でそれを、じっと見ていた。
和泉には、彼の見ているものはわからない。
傍目には、混雑するホームで行き交う人を、夕方の景色を、ぼんやりと眺めているようにしか、見えない。
だが、透明なまなざしで、少年神主はそれを凝視する。
路を示すために。
けれども――それからしばしの沈黙の後。
ふっと、少年の肩から力が抜け――落ちる。
「ああ……まいったな。駄目だ」
そう、柚真人は呻いたのだ。
「祓うにしてはあまりに空だ、あれは。……放っておいてもそのうち、消えてしまうとは思うが……」
「そうなの?」
「ああ。なんていうか……本当に、なにも無い。ただの生命欲の滓みたいだよ……。死に逝く躯からそれだけが洩れて凝ったみたいな」
面白いことをいう、と和泉は思った。
そういうのって、身体から染み出て洩れたりするものなんだろうか。魂が? それは巨大なアメーバみたいなんだろうか、と、和泉はそんな想像をした。
少し顎を仰のかせて、柚真人が深く深呼吸する。
呟きはどこか苦しげだった。
柚真人の目には見えて和泉には見えないものは、――赤子の魂の凝り。
ホームを行き交う人の波の中に、蠢くものは、この世に生まれ出で儚く費えていった命。
喧騒の中、電車がプラットホームに滑り込み、乗客を吐き出し、回収して、またプラットホームを出て行く。
その喧騒の中を、魂が漂っているという。
彷徨っていると。
意思も無く、自身の存在を知ることもなく。
「となると。やっぱり遺骸を直接弔うしかなさそうだな……」
和泉の口許から、かすかに煙草の灰が、零れて落ちた。
「……ああ、嫌な予感。大至急、とかいわないよねえ?」
「何か言ったかな、公僕殿?」
「うわあ、嫌な感じ」
和泉がいうと、少年は――苦笑して、小さく肩を揺らしたのだった。
「それ、わかってたでしょう、ご当主? 本当のところは遺体の始末、させたかったんでしょう?」
「勘ぐるねえ」
「……それで、『待ってた』んだ。どっかから依頼が来るのを。探させるのが目的で。『渡りに船』ね、よっく言うよお」
「なるべく丁重にたのむよ」
はうっ、と奇妙な気合いを吐いて姿勢を正し、和泉は大きく伸びをする。
電車が、また、ホームに入ってきた。 時間は流れている。生活も流れている。止まること無く。
「じゃ、行こうか。飯の支度、しないとな」
「ああ、可愛い妹ちゃんのね」
「……別段、カワイくはない」
柚真人は踵を返した。
何も引きずらないように。
あとを振り返らずに。
冷淡であり、そして潔くもある、態度だった。
彼は、決して振り向かない。
振り向いて、引きずられるわけにはいかないのだ。感情や意思を、乱すことは許されない。それは尋常なことでは無いはずだったが、皇の巫である以上耐えねばならないことなのだ。
和泉にとっては所詮他人事だが――。
ふうん。だんだんらしくなって
きてるじゃん?
怜悧な横顔を眺めつつ、和泉は心中にやりとほくそ笑む。
――ねえ? 御当主様。
そう、声に出さずに呟いた。
☆
「でもさあ? 屍体ってことはよ。死体遺棄じゃん……」
唐突に、ぼそりと陵和泉がごちったので、松永刑事は肩を揺らして彼を見返った。
「何か、おっしゃいましたか?」
本庁から捜査本部設置の命を受けてきたはずの刑事は、窓の外を眺めながら、ぼうっと煙草を吹かしていた。そのだらしないさまといったらない。この人は、顔を合わせてからいまのいままでで煙草をくわえていないときがない、と松永は思った。
返事がないので、それ以上は声を掛けないことにする。
捜査本部、などという物々しい看板を立ててはみたものの、この本庁の刑事は、まったく仕事をする気配を見せなかった。月曜日の今日も、出てきたと思ったら駅売りのスポーツ新聞をばっさと広げ、缶コーヒーを啜りながら煙草を吹かし、だらだらだらだらしているだけなのだ。
一体、何を考えているのだろう――というよりそれは、松永が想像していたのとはだいぶん違う、いわゆる『上級国家公務員』の姿であった。
他方の和泉はといえば、その頭の中では、まったくもってろくでもない思考がそれはもうぐるぐると凄まじい勢いで渦を巻いていたのだ。
――死体遺棄っつったらよ。まず検死っしょ。ね。それから容疑者を探す。聞き込みで歩き回る。そして令状請求。逮捕。事情聴取に供述録取。そおいう事件になると上も他も首突っ込んでくるよねえ。これでよ? 被疑者が中学生とか、高校生とかだとまた洒落になんないしよう。書類書き、書類書き、書類書き。マスコミ対策。うわっ、うっざあ……。
はうっ、と煙を吐きだす。
表面上は何も考えてないようにしか見えない表情で、ふむ、と唸る。
――そいういう怪しげなコインロッカーなんてさ、わざわざ俺が関わらなくてもよ? そのうち噂になって。どっかの馬鹿がこじ開けるって。そしたら所轄に話がいって、そっから本店に話がいって、有能な誰かが将来のために御指名を受けるってことになるよねん?
日差しがほんのりと暖かい。
こういう日に、勤勉に仕事に勤しむのは、陵和泉の生活信条に著しく合致しない。
――だいたい、誰も期待しないよねえ。俺がまじめに仕事するなんてねえ。
期待されてもイヤだけどもよ。逆によけえなことすんなとかいわれちゃったりして。ひゃあ、やだやだ。
夏と春との境目の、柔らかくも力強くもある日を浴びながら、和泉はそうして答えを出した。
「……いっか」
それが、結論。
「いいよね。いいわ。もお、やめやめ。やめた!」
「……はい?」
「撤収撤収!」
「え? ちょっと、あの、陵さん――」
自分の中で勝手に決定を下した和泉は、もはや松永刑事の声など聞く気すらないようだった。
ばさっと新聞を放り投げて、やおら立ち上がる。
「俺、帰るわ。捜査本部、解散ね?」
「かっ、……帰るって……」
「後片付け、よろしく頼むわ。じゃ」
「じゃ……って……ちょっと……えええ!?」
取り残された刑事が、ただ呆然と、口を開けてその後ろ姿を見送るしかなかったのは、いうまでもないことである。
☆
――月曜日。
部活を終えて帰宅すると、妹が居間でテレビを見ていた。夕方のニュース番組だった。
「……ただいま」
制服のまま、廊下から居間を覗き込む。
司は、というと、ちらりと柚真人を見やって、うん、などと言った。
少しだけ、柚真人はその顔色をうかがい見た。
昨日の夕方までは、食欲が無いだの、体がだるいだのといっていた司だけれど、具合はすっかりいいようだ。
ちょっとばかり安堵した気持ちで、それと悟られぬよう、嘆息。
「……今日は、大丈夫そうか?」
司は、また、軽くうん、と頷いた。
「そっか」
彼女の身体を侵す障りが正真正銘の『巫女』としての資質によるものだということを、彼女は強行に拒否して、受け入れようとしない。
だから、柚真人は何も言わなかった。
――病弱なわけではないが、多少風邪をひいたり熱を出したりはしやすい体質なのだ――と、本人は納得しようとしている。だから、そういうことにしておいている。
それは、自己欺瞞や現実逃避との謗りを受ける行為かもしれない。皇家にその血を受け継ぎ生まれた以上、自ら認めねばならないことかもしれない。けれど、司が拒むなら、それを強要するつもりはない。強いれば精神の負担になる。いらぬ苦痛と恐怖を強いる。
柚真人にとっては、そちらのほうがよほど問題だ。
今回のことだって、大した障りにはならないだろうと思わなければ、放っておいたりはしなかった。その見極めは、しているつもりだ。もし司に深刻な状況が想定されたなら、商売金銭云々以前の問題で躊躇なく障害を片付けただろう。
この皇の社は、自分が守ればすむこと。
そう、心得ている。
とはいえ和泉が生真面目に仕事をするであろう何てことを、柚真人は微塵も期待していなかったので、昨夜のうちに、幾許か簡単な処理を施した。
――何のことはない。
いささかばかりの塩と神符を、司の通学鞄に仕込んだのだ。
柚真人は何も訊かなかったし、妹も何も言わなかったけれど、様子で効果が確認できた。
あの嬰児が発見されて、弔いを受け、魂の残滓が空気になってしまう頃合を見計らって、護符を処分することにしよう。もちろん、妹には内緒の話。
「……何。そんなとこに突っ立って?」
怪訝そうに、妹が言う。
「なんでも。……なんでもないよ」
柚真人は、困ったように、小さく笑った。
「別に、なんでも」

