勾玉遊戯:過去編1990-2000

01
 
 
 
 そこには、何も無かった。
 なにも、生まれていなかった。
 そのものの中にあるのはただ、――虚ろな坑だった。
 自らの裡にあるさまざまなものの名前を、知らなかったから、それはただ、虚ろだった。
 寒くて、冷たくて、暗くて。
 けれど、その意味すらもわからなくて。
 そしてやがて、そのものの、存在自体は――費えようとしていた。

      ☆

 ――ううー……、嫌な感じ……。


 帰宅途中の電車の車内で息苦しいな、と司は思った。
 この先の駅で、転落事故があったといって、電車が止まってしまっている。
 そのせい――ではあるまいが、帰宅客で込み合う電車の中の空気が、何だか薄いように感じられて仕方ない。
 ここ数日ずっとのことだ。
 ここのところ、二日か三日おきに、夕方、電車が止まる事故が続いている。
 嫌な感じだ。
「ふー……」
 軽く喘ぐと、傍らにいた(たちばな)飛鳥(あすか)がうかがうように司を見た。
「……なに、どうかした?」
「うーん……」
 頭が重い。
 ぐらぐらする。
 不快、といえばそれまでだった。
 ここ数日、なんとなく頭と体が重い。気分も悪いし、軽くみぞおちが痛むような感覚もある。
 不承不承ながらそう訴えると、傍らの少年はとたんに表情を曇らせて司の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
 司は、そんな飛鳥を見返して、微妙に微笑む。
「うん大丈夫」
「そう? 疲れたんじゃない? 高校入って何となく一段落って感じだもんね、時期的に。ああもう、それにしても柚真人のやつ、司ちゃんに病気さすなんて。保護者失格だな」
「……病気ってほどじゃ、ないんだけど」
 眉間に皺を寄せて、司はぼそりと呟いた。
「ただ、気分が悪いだけ。うん」
 一瞬の沈黙が訪れる。
「……飛鳥君?」
 その後、飛鳥が、何を思ったか、ああ、と大きく頷いた。そして声を潜めて言うことに、
「わかった。いつもの『お化け酔い』……なんでしょ?」
「……あたしそんな怪しい病気もちじゃありませんーっ」
 飛鳥が面白そうに笑っていうので、司は憤慨して鼻を鳴らした。
「まっ、冷たい。血がつながってるんだから、司ちゃんも同じ『病気』のはずだわあ」
 おどけた口調で飛鳥が言い募る。
 飛鳥のいうところの『お化け酔い』とは、人外のモノの気配に敏感なあまり、それに当てられて気分が悪くなることをさす。
 皇神社の神主を務める兄・柚真人は当然の如くだが、従兄妹である飛鳥や緋月にも似たような感覚は弱いながらもあるらしい。
 もっとも、あの最強すぎる兄の感覚が、単に気持ち悪いとか気分悪いとか、そういったものであるとは思いがたいのだが、ともあれ飛鳥や兄の言葉によれば、巫女体質の司が、最も鋭敏な感覚を持っているということになるらしかった。
 けれども、そんな気色の悪い話を司としては信じたくない限りである。
 だから、違う、と言い張る。
 この不快さが、単なる体調不良とか、虚弱体質とかいった肉体的なものに起因するものでないことは――司にだって、薄々、何となくは解っている。わかってはいるが、それでも断じて認める訳にはいかないのだ。
 認めてしまえば、自分も霊感商人の仲間入りまっしぐらに決まっているからである。
 それだけは絶対に御免だった。
「それでそれで。どこ? どこにオバケがいるの? 車内?」
「だから、違うっていうのに! あんな『妖怪兄貴』と一緒にしないでよね……」
「だってほら、ここのところ事故が多いじゃない? 今だって電車とまってるしねえ」
「あすか君っ」
 いささか不謹慎なことをさらりと言ってのける飛鳥を、司は突っ撥ねた。
 とはいえ、多少怒って見せても相手の少年には全然効果がないということも、承知の上である。
 兄の柚真人は朝も早いし、夕方も司よりはいささか遅い。司の登下校は、知り合ったクラスメイトか、そうでなければ大概、飛鳥が一緒だ。
 司は大きく息を吐いた。
 いっぽう、飛鳥には飛鳥なりに非常に不純な動機があるのだが――それは自分のことには極力鈍い司の知るところではないらしい。
 本当に心配しているのにな、などという飛鳥の気持ちも、だから司にとっては及びもつかないことにすぎないのだろう。飛鳥は、肩をわずかに落として続けた。
 めげている場合ではない。
「でもさ。どっちでもいいけど司ちゃんが学校お休みしちゃったら、僕寂しいんだからさあ。風邪なら、とくに気をつけてよね? 柚真人に何とかしてもらうって訳にいかないんだから」
 飛鳥の言葉に、司は肩を竦めた。
「兄貴になんとかしてもらったこともありませんっ」
「ゴールデンウィークまでもう少しでしょ。そしたら、どっか遊びに行こうよ。ね?」
「……」
「……本気にしてないでしょ司ちゃん。これでも心配してるのに……。本当だよ?」
「わかってるよ? いつもありがと、飛鳥君」
 本当に本当だよ、と何やらひどく深刻な表情で司を見つめる飛鳥に、司は笑顔をつくってそう言った。
 何を言っても所詮冗談にしかならない我が身を、嘆く飛鳥の胸の内を、司は知らないのだ。
 車内アナウンスが、電車の発車を告げていた。

      ☆

「具合が悪いィ?」
 台所で夕食の支度をしている柚真人が、肩越しに振り返って司を見遣った。
 猫の柄のエプロンが大変良く似合っているあたり、非常に頭が痛い司である。
 写真で隠し撮りして学校中にばらまいてやったりすると一体全体いかなる事態になることであろうか。
 まさに完璧な演技、無欠の二重人格ではないか。
 柚真人が、愛想のかけらもない声で言い捨てる。
「じゃあ、お前今日、粥だけな。みそ味。決定」
「うわあ、何それっ!?」
「ご飯食べたら部屋で寝てろ。朝まで絶対起きてくるなよ」
 にべもない。
 学校内で見かけるときの、あの兄の姿は幻に違いない――司は一瞬の目眩を感じた。
 あの笑顔、あの仕草はまったくの嘘偽り。まさにこれが、天性の詐欺師でなくて、なんだというのだろう。
 嫌な男だ。
 本当に嫌な男だ。
 それなのに――。
 司はこともあろうにこの最低最悪の男に――どう足掻いても到底捩り潰せない恋心を抱いているのだ。実に馬鹿馬鹿しいではないか。
 正気か、自分――と常々思う。実の兄だと言うだけでも人道に外れ、人倫に悖る大問題なのに、いったい、こうも意地の悪いひねた冷たい男の何処がいいというのだろう。
 ――本当、正気じゃないよ、自分。
 司は、エプロン姿の兄の背中を長めながら首を捻った。
 まったく由々しき問題だ。
 なぜ、他の男子ではいけなかったのか。例えば飛鳥。例えば、優麻。たとえば、クラスメイトやこれから知り合う人生の先にいる誰か。
 どうして、他の誰かでは駄目なのか。何故駄目だと思えば思う程に、この始末に負えない感情は強くなって自分をどんどん縛り上げるのか。
 ――理解不能だ。
 は、とため息をついた時、兄が振り返って司を見た。
「なんだ?」
 どうやら視線を感じたらしい。こういう妙に鋭いところも厄介だ。
「……なんでもない」
「……明日から土日で休みだから。今日は早く寝なさい」
 兄は、そんなことを言う。
 年上ぶった、家族ぶったその言葉に、司は傷つく。ちくんと、胸が痛む。
 ――こんなことでは、まだ駄目。……消さないと。この気持ちを消してしまわないと。
「聞いてるのか、司」
 乱暴な言葉に、司はちいさく頷いた。怯んでしまったのは不覚といえよう。
「……わかってる。お粥でいい」
「一応、熱は計っとけよ」
「……うん」
 唇を噛みながら――けれど心の何処かで、それが本当に無駄な足掻きでしかないかもしれないことに、実のところ司はもう少しだけ気づき始めている。
 自覚したのは、今年の二月。
 高校受験の合格が決まったあの日。
 だけど、きっと堕ちたのはもっとずっと前。取り返せないくらい、ずっとずっと前のことだったような気が――していた。


 司は、ふてくされた様子でぶうぶうと文句を言いながらも、柚真人の用意した七分粥を食べて、焙茶と風邪薬を飲んで、寝た。
 時計は、九時を回ったところ。
「おやすみ」と言って、司が居間を出て行った。それから、廊下の向こうで部屋の扉が閉まる音を確認。
 そして柚真人はやっと、全身の力を抜くことが、できる。
「っ……はあっ……」
 壁にもたれて天井を仰ぎ、両手で顔を覆う。
「……」
 彼女と、自分しかいない、家。
 その檻の中で、少年は溜め息をつく。
 こういった嘆息は、ここのところとぎれるということがない。
 時計を睨む。
 秒針が時間を刻む音が、耳に染みる。
「具合が悪い、ね……」
 ふむ、とひとり眉間に皺を寄せ、柚真人は呟いた。
 それが何に起因するものかはよく分かっている。もっとも、皇家の当主たる柚真人が『それ』に気付かぬはずはない。
「少しばかりつらそうだが。……さてどうしたもんか……」
 柚真人には、わかってしまう。
 彼女がいくら強行に否定しようとも、司は優れた巫女体質を兼ね備えていることは否定のしようもない。何かの干渉を受けると、司は体調に変調を来すのである。
 司の受けている干渉を、関知できない皇の巫ではない。
 原因が、あるのだ。
 それもわかっている。
 それは人がこの世界で生活しているのと同じように当たり前にそこここに存在するものだから、こちからは回避しようがない。それこそ、風邪や病原ウィルスと大差ない。ただ、柚真人はこの皇神社を預かる身としてこれを制御する術を心得ていて、司はそうではない。
 ――それだけのことだ。
 司は、皇の血のそのような部分を嫌悪して、鍛練も放棄しているから柚真人のようにはゆかない。この血は、そう云ったものに正面から取り組もうとしない限り制御するのが難しい。
 ――それはまあ、どうにかしなくてはならない……と、しても、だ。
 そんなことを思いながらも我ながら、自分は本当に鬼畜な男だと、自身改めて自覚せざるを得ないところがじつに悩ましい問題だった。
 いまの柚真人にとっては。
 妹がそんな状態であっても、なお自分の中の複雑怪奇なこの感情が御し難いことに漠然とした絶望を感じて、厭になってしまう。
 ――なぜ、妹なのだろう。なぜ彼女でなくてはならないのだろう。
 それは何度考えてもわからない。わかるのは、結局彼女でなくてはどうしようもないとうことだけだ。持て余すしかない恋心が辛い。行き場のない想いが苦しい。
 ――おれは、いつまで平静を装うことができる。もう自信が、ない……。
 柚真人は、夜を重く感じていた。己の理性にも限度というものがある。
 それを、目眩のように自覚しながら。