勾玉遊戯:過去編1990-2000

01
 
 

   ☆
 
 ――2F(こうがい)法律事務所。
 ビルのテナントを示す銀色のプレートには、そうあった。
 その外観は、雑居ビルよりいくらかましといった体の、レンガ造りのビルである。建物は八階建てで、三階より上は区分所有型の賃貸住居区――いわゆるマンションだ。
 土地は笄家の所有地であり、ビルの賃貸は、笄の経営によるものだった。事務所の主の趣味かどうかはさだかではないが、大きな硝子が嵌め込まれた、古めかしい木製両開きの扉が、この弁護士事務所の入り口であった。真鍮製の取っ手がついている。
 三月一日。
 扉を開けると、その扉にしつらえられた鈴が来客を継げるため軽やかに鳴った。
 ちりん、ちりちり、ん。
 ややあって、事務所の奥から笄優麻が顔を出した。
「ああ、お待ちしてましたよ」


 事務所の入り口を抜けると受付けがあって、その奥が接客用の応接室だった。
ビルの外装から想像に難くないおんぼろぶりで、余計な調度品などは何ひとつ存在しない。これはひとえに節税対策のためであろう。
 応接室の南の壁には大きな明かり取りの窓があった。白いブラインドからは春の陽光がもれてくる。そのせいで、部屋は暖かかった。
 土曜の午後だったが、どうも人払いがしてあるらしい。
 事務所の経営弁護士は、笄優一――優麻の父であり、優麻は所属の勤務弁護士である。他の弁護士や事務の職員の含めるとかなりの大所帯であったはずだが、本日の事務所には優麻以外の所員の人影が無かった。それはこの男の気遣いなのだろうか。
 来客用の日本茶も優麻が淹れ、本日の訪問客にすすめた。
「どうぞ」
 (あかつき)水月(みつき)は、応接室の中央に置かれた黒いソファに腰を下ろした。
「……ありがとう」
「で――なんです? 改まって、私に話というのは」
 水月の向かいに座り、ジャケットの襟を正して青年が微笑む――。
 水月は、この青年の、この穏やかな笑顔以外の表情を目にした記憶がなかった。この男が、余裕の表情を崩すことがあるのだろうか。だとしたらそれはどのような時なのか。全く想像がつかない。
 ――十年前のあのときも、笑っていたのだ。ここまでくると、ある意味無表情というべきなのかもしれない。
 一族本家の大惨事。水月は十六歳だった。
「あれから――十年が過ぎたわね、優麻」
 そう、言う。けれどやはり、眼前の弁護士の表情は、変らなかった。
「お話というのは、そのことでしたか」
 優麻が小さく頷いた。
「あの診療記録を父から私が引き継いで、もうすぐ一年になるのよね……」
「――それで?」
 促されても、水月は数瞬迷った。
「そうね……。実は、あの事件の真実……について――思うところがあって……とでも、いうべきかしら?」
「というと?」
 優麻の声に、訝る響きが混じった。
「……あの事件は、もう解決していますよ? あなたに託されたのは、あくまでもその後のアフターケアです」
「解決している?」
 納得できない言葉だった。この男とは長い付き合いだが、水月は、十年来その言葉にだけは首肯できないでいたのだ。
「わからないわね。何故……そんなことがいえるの? 『柚真人』と『司』の記憶が――捩子曲げられて、真実が葬り去られて、それで解決したと?」
 そう。――あの日、幼かった皇家の兄妹たちは心に大きな傷を負った。そしてそれは、いまだに癒えていないのだ。だからあの事件はもう終わったのだ、といわれても、水月はまだあの事件現場にひとりたたずんでいるような気がすることがあった。凄惨な事件だったから。
「どうしたんです? 急にそんなことを言い出して……」
 水月は言葉に詰まった。理由は、あった。けれども、優麻に何と言って伝えたら良いのか、それを考えると、水月も困るのだ。
 膝の上で組んだ両手の指と指を絡ませながら、水月は言を継ぐ。
「ねえ、優麻? ……上書きした偽りの記憶というのは……いつかは壊れるものなのよ」
「……そういうお話でしたら、貴女の父上、暁院長にうかがってみたらどうです?」
 笑顔を崩さず、優麻が否す。
「そういう問題じゃなくて。でも多分、一生そのままというわけには、いかないのよ。何かの拍子に壊れてしまうかわからない爆弾のようなものだと……認識してる?」
「爆弾……ですか」
 優麻は面白そうに言う。
「心配なんですね」
「もって十五年だものね。あの子たちのことは心配よ。……。妹――緋月や飛鳥、それに司と柚真人をみてるとね……。どうしてか怖くて……ね」
「怖い?」
 問い返されて、水月は頷いた。
「……もうそろそろだと思うのよ。必ず、近いうちに、はじまるわ。フラッシュバックが」
「それは……貴女の、暁のご専門でしょう? 主治医は現在貴女です。私に訊かれても……」
「あたしは、真実を知りたいのよ。知っておく必要が、あるの。そろそろ現実を受け入れるための手助けをしてあげないと。だから、真実が知りたいのよ。本当の。……そうね……それこそ、あの子たちの主治医として」
「……本当の真実、ですか? ……では、貴女の知っていることは真実ではないんでしょうか? 彼等が殺しあって、自滅した――」
 水月は優麻の言葉を遮って、横に首を振った。
「十年前にもその話は聞いた。確認よ。あの子たちの封じられた記憶の中の現実と、私たちの記憶に齟齬があったら、困るでしょう。自分が、もしかしたら狂ってしまったんじゃないか……なんて、あの子たちに思わせたくないじゃない?」
「しかし水月さん……」
「だからあんたの話をもう一度、聞きたいのよ。優麻……あんた、事件の唯一の目撃者の、はずでしょ」
 その時――ただでさえいったいどこをみているのかわからないほど細い優麻の目が、一瞬、さらに細くなったような気がした。
「なるほど……」
 ふんふん、と優麻が小刻みに頷いた。
「それで何が、真実か――と」
 間があった。
「私が虚偽を述べている――ということも、考えの範疇にいれてます?」
「あるいはそうかもしれないわね」
 優麻はやはり相好を崩さぬままに、水月の言葉を受け止める。
 春の陽光が、傾いてゆく。
 テーブルの上に、ブラインドの縞模様が揺れている。
「十年前。本家の神社の社殿で起こったできごとの一部始終。……もし真実が他にあるのなら、本当に知りたいですか?」
 優麻が、言う。
「それが、柚真人さんと司さんを救うことになると?」
「……?」
 優麻は、にこにこと笑っている。彼が身を乗り出すように前屈みになると、銀縁の細いフレームに縁取られた硝子が陽射しを受けてきらりと光り、一瞬その奥の瞳を隠した。
「……柚真人さんの――苦しみに、気がつかれましたか、水月さん?」
 どきり、とした。
 刹那、優麻が何を言ったのかと思う。
「それなら貴方も不安を感じるはずですね。変化の引き金が生まれたことになりますからね」
 まるで見透かしたような言葉に、水月は息を飲まされた。
「優麻、あんた」
「はい?」
「……それに……いつから……」
「柚真人さんから、直接聞いたわけではないのですが。それとなしに、理解しました。まあ、子供たちを見ていればわかりますし、柚真人さんも、否定はなさいません」
 視線だけ、上目遣いに、彼は水月を見る。
「けれど、今のこの状態は、絶妙な均整の下に成り立っている。柚真人さんが作られた記憶によって辛い思いをしているとしても、何かひとつ動かせば全体が崩れ去る立体パズルのようなもの。動きが、とれない」
「……」
「それが、怖いのでしょう。柚真人さんは……まるで、硝子細工のような人ですよ……ね……。そして、司さんも。貴方の気持ちは、私にも理解できます」
 そうなのか、と水月は眉をひそめた。こんな風に柚真人と司のことを語る優麻の姿が意外だった。
 言葉を止め、優麻がじっと水月を見つめる。
 水月は、幾許かの驚愕とともにそれを見返していた。
「いいでしょう――」
 唐突に、優麻がため息をつく。
「いいですか、水月さん。もう一度、最初から言いますよ――」
 そして優麻は、十年前の事件のことを――語り出したのだった。
「十年前の四月一日。(すめらぎ)の桜神事の日、正午過ぎ。 社殿には、朔子(さくこ)さまが、おいででした」