05
――どうしてだろ……。
ぼんやりとソファに身を預けて、司は考える。
――合格。
喜んでいいはずだし、もっと安心してもいいはずだった。
けれど――。
自分は何かいけないことをしたのではないか。
訳もなくそんなふうに思えて仕方がない。
西陵からは、緋月と一緒に帰宅した。そしてそれぞれの中学に合格報告に行かなくてはならなかったため、途中で別れた。
「司、柚真人さまに受験のこと、内緒にしていたんですってね。心配していらっしゃいましたのよ、柚真人さま」
別れ際、緋月はそういった。
「心配ねえ」
するのかな、と思った。正直なところ、考えられない。
「あ、そうですわ。この間の――バレンタインのチョコレート。司も食べてくださいました?」
「?」
「柚真人さまにちゃんと言いましたのよ。司と半分コだって。だからあれ、半分は司の分ですの。まだでしたら召し上がってくださいね?」
ころころと、緋月は笑った。
「あ……、手作りなんだ?」
「当然ですわよ。私の愛情を見縊らないでいただきたいわ。私、貴女も大好きよ」
司の言葉に答え、緋月は、威張るように胸を反らせたのだった。
「ですから、あなたにも差し上げたいの」
「……ありがとう」
素直に礼を述べた。
その一方で、ますます自分が汚く思えて戸惑いを覚える。
何故、緋月のことを悪く考えてしまうのだろう、と思った。そんな自分に無性に腹が立った。
緋月は、従姉妹であると同時に大切な友達だ。
好きだった。
なのに、ここのところの自分はどうかしていた。おかしなことばかり考えて、ひとりでぐるぐる非健康な思考を暴走させている。そんな気がしてならない。
「美味しいんですのよ。柚真人さまのお料理には適いませんけど」
自信を持って自分を誇張するところだって、本当は潔くてとても好きなのだ。
自分を卑下しない。
他人を蔑まない。
それなのにあたしは――司はどういうわけかきゅうに悲しくなった。
「うん。帰ったら、柚真人から貰う。……まだ残ってるといいけど」
「ええ、そうですわね」
乗換えのホームで、反対斜線に滑り込んできた電車に、緋月は乗っていったのだった。
――柚真人に内緒にしていたから?
柚真人はそれを責めるだろうか。
だから、柚真人が一瞬見せた――司を責めるような一瞥が、心を穿つのだろうか。
――違う。
何かが違っていた。
このわだかまりは、何だろう。
目を閉じる。
瞼の奥に、飛鳥の憎めない笑顔が見えた。
それから柚真人の厳しいまなざしが見えた。
暁緋月に、腕を取られて、穏やかな表情で緋月を見つめる、兄。
――『おれに、いると思う? その『好きな人』っていうのが』
柚真人がいった言葉が、ふいに聞こえたような気がした。
――『じゃ、お前には内緒ってことにしておこう』
あの時、つきんと胸が痛んだ。
――『ないしょ』
つきん、と。
何か――見えない小さな棘が、――司の中の、どこかを刺したのだ。
一瞬。
脳裏に閃光が逸った。
試験の日――。
柚真人と一緒にいた緋月。
飛鳥と一緒にいた司。
その時、自分は。
何を思った?
――あの日、何故緋月と柚真人のいた居間に行けなかったのか。行きたくなくて、部屋に引き籠もってしまったのか。
そのとき――司は唐突に――気付いた。
緋月は、柚真人に対して好意を隠そうとしない。
それを見るのが――嫌なのだ。
苛々する。
司には、したくたって出来ないこと。
疎外感に包まれる。
だから、いたたまれない。
したく、たって。
できない、から。
――う、そ。
したく、たって。できない、のよ。あたしには。
――これって。
どくん、どくん、と心臓が暖かい痛みを刻みはじめる。
――まさ、か。
口許に手を当てる。
――あたしは。
それは、見てはいけないモノ。
それは、気づいてはいけなかったモノ。
――嫉妬、したわけ――――?
――まさか。嘘……。
自分自身が、心の中で空虚に呟く。
――嘘でしょ!?
だが。
それを否定する声が、自分の中から返って来ない。
皇柚真人――その整い過ぎた怜悧冷徹な横顔が、傲岸不遜な微笑が、眼裏に閃いた。
無差別に人をひきずり込む、比類無き凶暴なまでの美貌――あの、目の醒めるような冷たい空気――神職の衣装の清冽な白さ――袴の浅葱――瞳と髪の艶やかな漆黒――耳に心地好い、高く澄んだ声。
その姿を凄惨で悲愴なまでに綺麗に見せる、他の誰もがもちえない、あの独特の空気。
それは何者にも染まらない鮮烈なまでの透明度で、彼に触れるものを灼き、薙払う。
あの、ぴんと張った、弦のような危うさ。
背を伸ばして真っ直ぐ立つ時の、冷たく研ぎ澄まされたまなざしの強さ。
――嘘……。
何も彼もが、まるで覚醒の瞬間みたいに。
司を呪縛していく――。
――いつから……!?
――いつからなの!?
――一体、どうして!?
詮無き問いだった。
どう足掻いても。
それは司の中で絶対的に何者をも退けうるだろう。
彼の姿はいつでも見ていて辛いほどに美しく、神衣をまとって立つ時の厳しさはいつも妹であるはずの司の心を強く刺した。
冷たい、金属のように。
その胸の痛みの意味を、やっと理解した。
もはや他の誰にも代えられない。
他の誰でも意味などない。
鮮烈な痛みを伴って、記憶の色が変化する。
皇柚真人という綺麗な少年の姿が司の中で傷痕になる。
心が、裂けてゆく。硝子が砕け散るように――粉々に――。
☆
「司――?」
耳元で急に名前を呼ばれて、びくっ、と司は硬直した。
柚真人だった。
学校から戻ったのだ。
「ゆ、ま、兄――」
「……合格、おめでとう」
廊下から居間の入口、襖の柱によりかかり、少し笑って柚真人が言った。
そのまま廊下に鞄を置き、肩を竦める。その表情は穏やかだ。
「まったくお前には驚かされたよ。それにしたってひどい仕打ちだ」
司が黙っていると、柚真人は小さく微笑んだ。
「……なあ。今日、まだ夕御飯まで時間があるからお祝いに、ケーキでも焼こうか?」
昼間とはまったくうってかわって優しい声音だった。それだけのことなのに安堵を覚えてしまう。そしてそれは、昏い罪悪感に変ずる。
「……」
司は――柚真人に。
責められることが、怖かったのだ。いや、拒絶されることが。それが真実。
「どうした?」
「ううん――な、なんでもない」
「チョコレートが沢山あるから、それとココアでチョコレート・ケーキにしよう。どう?」
料理の話になると、柚真人は本当に楽しそうだ。子供のようにわくわくしている。対照に司の中には絶望が広がりつつあった。それも、物凄い勢いで、急速に拡散して行く。
――柚真人と同じ高校を選ぶ動機が……欲しかっただけだったのね。あたし……。
心のどこかで、とっくに気付いていたことだ。
迂闊だった。
いま、気がついてしまうなんて遅すぎる。もっと前に気がついていたら。
絶対に柚真人と同じ学校など、飛鳥が何といおうと選びはしなかった。
――あたし……柚真人の事が。
そうするべきではなかった。
――柚真人の事が――。
だがもう、遅い。
司は、今日、もう入学手続きも済ませてしまった。
今更どうにもしようがない。
誰にもいえない。
司は――柚真人の事に。
実の兄の事に。
――惹かれてしまった。
――どうしてだろ……。
ぼんやりとソファに身を預けて、司は考える。
――合格。
喜んでいいはずだし、もっと安心してもいいはずだった。
けれど――。
自分は何かいけないことをしたのではないか。
訳もなくそんなふうに思えて仕方がない。
西陵からは、緋月と一緒に帰宅した。そしてそれぞれの中学に合格報告に行かなくてはならなかったため、途中で別れた。
「司、柚真人さまに受験のこと、内緒にしていたんですってね。心配していらっしゃいましたのよ、柚真人さま」
別れ際、緋月はそういった。
「心配ねえ」
するのかな、と思った。正直なところ、考えられない。
「あ、そうですわ。この間の――バレンタインのチョコレート。司も食べてくださいました?」
「?」
「柚真人さまにちゃんと言いましたのよ。司と半分コだって。だからあれ、半分は司の分ですの。まだでしたら召し上がってくださいね?」
ころころと、緋月は笑った。
「あ……、手作りなんだ?」
「当然ですわよ。私の愛情を見縊らないでいただきたいわ。私、貴女も大好きよ」
司の言葉に答え、緋月は、威張るように胸を反らせたのだった。
「ですから、あなたにも差し上げたいの」
「……ありがとう」
素直に礼を述べた。
その一方で、ますます自分が汚く思えて戸惑いを覚える。
何故、緋月のことを悪く考えてしまうのだろう、と思った。そんな自分に無性に腹が立った。
緋月は、従姉妹であると同時に大切な友達だ。
好きだった。
なのに、ここのところの自分はどうかしていた。おかしなことばかり考えて、ひとりでぐるぐる非健康な思考を暴走させている。そんな気がしてならない。
「美味しいんですのよ。柚真人さまのお料理には適いませんけど」
自信を持って自分を誇張するところだって、本当は潔くてとても好きなのだ。
自分を卑下しない。
他人を蔑まない。
それなのにあたしは――司はどういうわけかきゅうに悲しくなった。
「うん。帰ったら、柚真人から貰う。……まだ残ってるといいけど」
「ええ、そうですわね」
乗換えのホームで、反対斜線に滑り込んできた電車に、緋月は乗っていったのだった。
――柚真人に内緒にしていたから?
柚真人はそれを責めるだろうか。
だから、柚真人が一瞬見せた――司を責めるような一瞥が、心を穿つのだろうか。
――違う。
何かが違っていた。
このわだかまりは、何だろう。
目を閉じる。
瞼の奥に、飛鳥の憎めない笑顔が見えた。
それから柚真人の厳しいまなざしが見えた。
暁緋月に、腕を取られて、穏やかな表情で緋月を見つめる、兄。
――『おれに、いると思う? その『好きな人』っていうのが』
柚真人がいった言葉が、ふいに聞こえたような気がした。
――『じゃ、お前には内緒ってことにしておこう』
あの時、つきんと胸が痛んだ。
――『ないしょ』
つきん、と。
何か――見えない小さな棘が、――司の中の、どこかを刺したのだ。
一瞬。
脳裏に閃光が逸った。
試験の日――。
柚真人と一緒にいた緋月。
飛鳥と一緒にいた司。
その時、自分は。
何を思った?
――あの日、何故緋月と柚真人のいた居間に行けなかったのか。行きたくなくて、部屋に引き籠もってしまったのか。
そのとき――司は唐突に――気付いた。
緋月は、柚真人に対して好意を隠そうとしない。
それを見るのが――嫌なのだ。
苛々する。
司には、したくたって出来ないこと。
疎外感に包まれる。
だから、いたたまれない。
したく、たって。
できない、から。
――う、そ。
したく、たって。できない、のよ。あたしには。
――これって。
どくん、どくん、と心臓が暖かい痛みを刻みはじめる。
――まさ、か。
口許に手を当てる。
――あたしは。
それは、見てはいけないモノ。
それは、気づいてはいけなかったモノ。
――嫉妬、したわけ――――?
――まさか。嘘……。
自分自身が、心の中で空虚に呟く。
――嘘でしょ!?
だが。
それを否定する声が、自分の中から返って来ない。
皇柚真人――その整い過ぎた怜悧冷徹な横顔が、傲岸不遜な微笑が、眼裏に閃いた。
無差別に人をひきずり込む、比類無き凶暴なまでの美貌――あの、目の醒めるような冷たい空気――神職の衣装の清冽な白さ――袴の浅葱――瞳と髪の艶やかな漆黒――耳に心地好い、高く澄んだ声。
その姿を凄惨で悲愴なまでに綺麗に見せる、他の誰もがもちえない、あの独特の空気。
それは何者にも染まらない鮮烈なまでの透明度で、彼に触れるものを灼き、薙払う。
あの、ぴんと張った、弦のような危うさ。
背を伸ばして真っ直ぐ立つ時の、冷たく研ぎ澄まされたまなざしの強さ。
――嘘……。
何も彼もが、まるで覚醒の瞬間みたいに。
司を呪縛していく――。
――いつから……!?
――いつからなの!?
――一体、どうして!?
詮無き問いだった。
どう足掻いても。
それは司の中で絶対的に何者をも退けうるだろう。
彼の姿はいつでも見ていて辛いほどに美しく、神衣をまとって立つ時の厳しさはいつも妹であるはずの司の心を強く刺した。
冷たい、金属のように。
その胸の痛みの意味を、やっと理解した。
もはや他の誰にも代えられない。
他の誰でも意味などない。
鮮烈な痛みを伴って、記憶の色が変化する。
皇柚真人という綺麗な少年の姿が司の中で傷痕になる。
心が、裂けてゆく。硝子が砕け散るように――粉々に――。
☆
「司――?」
耳元で急に名前を呼ばれて、びくっ、と司は硬直した。
柚真人だった。
学校から戻ったのだ。
「ゆ、ま、兄――」
「……合格、おめでとう」
廊下から居間の入口、襖の柱によりかかり、少し笑って柚真人が言った。
そのまま廊下に鞄を置き、肩を竦める。その表情は穏やかだ。
「まったくお前には驚かされたよ。それにしたってひどい仕打ちだ」
司が黙っていると、柚真人は小さく微笑んだ。
「……なあ。今日、まだ夕御飯まで時間があるからお祝いに、ケーキでも焼こうか?」
昼間とはまったくうってかわって優しい声音だった。それだけのことなのに安堵を覚えてしまう。そしてそれは、昏い罪悪感に変ずる。
「……」
司は――柚真人に。
責められることが、怖かったのだ。いや、拒絶されることが。それが真実。
「どうした?」
「ううん――な、なんでもない」
「チョコレートが沢山あるから、それとココアでチョコレート・ケーキにしよう。どう?」
料理の話になると、柚真人は本当に楽しそうだ。子供のようにわくわくしている。対照に司の中には絶望が広がりつつあった。それも、物凄い勢いで、急速に拡散して行く。
――柚真人と同じ高校を選ぶ動機が……欲しかっただけだったのね。あたし……。
心のどこかで、とっくに気付いていたことだ。
迂闊だった。
いま、気がついてしまうなんて遅すぎる。もっと前に気がついていたら。
絶対に柚真人と同じ学校など、飛鳥が何といおうと選びはしなかった。
――あたし……柚真人の事が。
そうするべきではなかった。
――柚真人の事が――。
だがもう、遅い。
司は、今日、もう入学手続きも済ませてしまった。
今更どうにもしようがない。
誰にもいえない。
司は――柚真人の事に。
実の兄の事に。
――惹かれてしまった。

