01
それは、予告もなく。
そして、前触れもなく。
静かに訪れようとしていた。
――お兄ちゃんて、とても綺麗ね。
――みんな、お兄ちゃんのこと、大好きなのね。
たくさんのリボン。たくさんの――気持ち。
両手いっぱいのチョコレート。
そんなことを言ったのが、一体何時のことだったのか、もう憶い出せない――二月。
☆
「ただいま」
皇司が居間で参考書を広げていると、兄が学校から帰ってきた。
司は、高校受験を明後日に控えた中学三年生で、学校での授業はもうない。
だから朝から、こうして一人静かに居間でもって勉学に励んでいたのである。
気がつけば、窓から見える表の景色は薄闇に沈んですっかり暗くなっていた。
柚真人は、大きな紙袋を抱えている。
「お帰り。……遅かったね柚真兄、……ってまあ……あたりまえか。今日はまた一段と足留め食ったみたいじゃない?」
毎度のコトながら非常に疲れた様子――と司は思い、兄を見上げた。聞かなくとも、その紙袋の中身がわかってしまう。今日は二月十四日、製菓会社の陰謀に日本全国の愚かな消費者どもが踊らされている日なのだ。
――ま、バレンタインデー、とかも云うんだけど。
行事は毎年のことなのだけれど――司は参考書を閉じて、今年も柚真人を労うことにした。この一寸やそっとでは他人様とは比較にもならない美貌の兄には、こうしたイベントごとにそれなりの苦労があることを、司は良く良く知っていたからだ。
柚真人がため息とともに畳の上に座り込む。
彼が投げ出した袋の中を覗いて、司は呆れたように感嘆の声を上げた。
「相変わらずのモテっぷりだこと……ええ……これ、新記録じゃない?」
「……重かった」
柚真人はひとことそれだけをしみじみと呟くと、肩を落とした。
重いであろうことは司にも十分に察せた。
「だよね。毎年毎年本当にすごいよ、ご苦労サマ。どうするの、これ?」
「まあ……。毎年のことだからな……。おいおい始末するよ。台所の戸棚になんとか詰め込んでおいておくから、司も手伝ってくれると嬉しいんだけどね?」
あっけらかんとした兄の言葉に、司は呆れて肩をすくめた。
「手伝うって……それってかりにもバレンタインのプレゼントでしょ? あたしが手を出したりしたら、せっかく柚真兄に手造りしてくれた子や、お姉様たちに失礼でしょうが」
「そうか?」
「そうかって……兄貴サマねえ。毎年まいとし、それ、何、考えて貰ってんの?」
司は返した。
それでなくとも生きてるだけで年がら年中モテまくっている野郎は意識が違う。
チョコレート――が、やはり標準的な商品であろう。しかし昨今、これに乗じて様々な商品を抱き合わせるのが流行っているらしく、その内容も年々エスカレートしていくように、司には思える。そもそも自分のモノになるかどうかも定かではない男に、何故ここまでできるのか、それがわからない。
手間と暇と金の無駄である。
―――――?
その時司は、あることにふいに気づいた。
――自分のものになるかどうか、わからない男。
バレンタインデイ、とはすなわち天下御免の大告白大会である。
となれば、兄は本日数多の女子からまがりなりにもなにがしかの愛の告白を受けたことになるわけだが――。
「ねえ、柚真兄?」
「うん――?」
「あの、さ? そもそも――その……兄貴に『本命』っていうのは、いるわけ?」
我ながら、いままで気にしたことはなかった命題だった。だが、思えばいたっておかしくは無い話だ。
そう。
――いたっておかしくないんだ……け、ど。
確かに、そんな素振りを柚真人が見せたことはない。
それどころか、あまり特定の他人と深くつき合うことが好きではないらしい兄である。
けれどもし、『本命』が存在するのだとしたら、これだけのプレゼントの中にそれが入っていないとは考え難い。
また、狙った獲物を籠絡することなんて、兄にしてみれば極簡単なことのはずで。
「なんだよ、急に?」
と柚真人が首を傾げる。
何故、そう思ったのかわからなかった。
けれど、ふいにそれが気になったのだ。
だいたい、柚真人の態度は、いくらなんでも女子諸君に対して失礼ではないか。告白それ自体は、いつどんな時でも、勇気が要るものだろう。
それをかったっぱしから十把一絡げにして受け取って歩くなんて無礼千万だ。
柚真人が、ひとつ嘆息して、司の方を見た。
「『本命』って、それ『好きな人』ってこと? ……おれの?」
「……普通はそうだと思うけど?」
普通。普通でなければ何なのだろう。それはよくわからなかった。だがそんな者の定義は、個人それぞれにしかわかり得ない。
柚真人が――笑った。
真紅の花が咲き零れるような、微笑みだった。本当に本当に綺麗だと、見惚れずにはいられない、それ。司はそれに怯んだ。
「……なによ」
「おれに、いると思う? その、『好きな人』っていうのが」
「さあ。わからないけど」
「じゃ、――お前には内緒ってことにしておこう」
「――え?」
「だから、ないしょ」
そういって、兄は立ち上がった。
「そういう司は?」
と、柚真人がいうので、――司は紙袋から顔を上げて柚真人を見遣り、言わなくてもわかるでしょうというしぐさをしてみせた。
「ああ――」
生憎と、いいまのところ司にはそんな相手がいるという自覚がなかった。そのうえ目下、それほど暇でもない――悲しいことに。
「飛鳥ぐらいってところか」
「ご明察、去年と一緒。飛鳥君にはねだられたから……贈呈した。そんな馬鹿馬鹿しいことしてる暇ないし。……興味も、無いし」
「ああ。まあ――明後日――受験だもんな」
「そういうこと」
司は頷いた。
実際、同級生の中には卒業までには、と色めき立っている輩もいないではなかったが、それは司の知ったことではなかった。
高校受験が目の前なのだ。
「でも今日、緋月には校門の前で待ち伏せされたよ」
緋月、というのは、皇の分家筋にあたる『暁』の次女の名前だ。司とは同い年で幼馴染み、そのうえ兄・皇柚真人には幼い頃からそれはそれはご執心の箱入りお嬢様である。
司はそれを聞いて少し複雑な顔をする。同じ受験生なのに、翌日に試験を控えて随分と余裕だ。
――バレンタイン・チョコレート、か。
「ていうか……司も緋月も、どこの学校受験るんだ? 試験日は一緒だろ?」
司は、柚真人に自分が受験する高校を教えていなかった。
理由はない。
何となく、嫌だったからだ。
だから、合格したらわかるからといって、教えないでいた。柚真人の口振りからすると、どうやら緋月も受験校を内緒にしているらしい。しかし、柚真人はともかく司には、緋月の考えていることがわかった。どうせ、柚真人の通う、私立西陵高校に決まっている。
――柚真人さま! 春から同じ学び舎に通わせていただくことになりましたわ!
などと、もうそれはそれは嬉しそうにいってくるのだろう。
緋月は好きだが、あの少女の、少々行き過ぎた時代錯誤な感覚にだけはどうもついてゆけない。
だいたい、なぜこの御時世に、『様』付けで人を呼ぶのだろう。
そのあたりの感覚は、微妙におかしいと思う。
「司?」
「だからいってるでしょ。合格したらわかるんだから、いいじゃない別に。優麻さんは知ってるし、卓史お兄ちゃんにも許可はもらってるし」
司はすげなく言い返した。
「まあな……。そりゃ、そうだけど」
なぜだろう。なんだか――嫌な感じがしたのだ。
柚真人の――『好きな人』。
それはもしかしたら、それはあの、筋金入りの天然記念国宝級御嬢様――暁緋月、だろうか。可愛らしくて、ふわふわしていて、とても綺麗な、彼女。確かに、柚真人の隣を歩けば、それは人目を惹くだろう。
――別に、気になるわけじゃない。
けれど。
緋月がそういってきたら、柚真人はどんな顔をするのだろう。
妹の自分が見たこともないような表情を、きっと、するんだろう。
――どんな?
「――とにかくまず、着替えてくるよ」
柚真人が、そういって居間を出ていった。
叩き付けたくなるのを押さえて、静かに部屋の襖を閉める。
――ときどき……ほんっと括り殺してやりたくなるよな……あいつ……。
畳に鞄を投げ捨て、柚真人は唇を噛み締めた。
――『好きな人』――?
制服のネクタイを無造作に緩めて息を吐く。
笑顔と平静を保つことがどれほどの自制心を必要とすることか、わからせてやりたい。
――それを知ったら、お前は一体どんな顔をするっていうんだ。ええ、司?
いわれないことであることはわかっていた。
司は全然悪くない。
妹である司の眼中に、兄である柚真人が入りようがないのはごく当たり前のことだ。
だから柚真人は、司を意味もなく責めてしまう自分が嫌いだった。司と一緒にいると、どんどん自分のことが嫌いになってゆく。
コートを掛け、ブレザーを脱ぐ。
唇をきつく引き結び、柚真人は冷たい掌で額を押さえる。
――……人の気もしらないで。お気楽なこと、ぬかしてくれる……。
これから食事の支度をして、両親たちはいつものように帰宅しないであろうから、司とふたりで夕食を済ませなければならない――何食わぬ顔で。
兄の、顔で。
――拷問だ――。
いつまで続けられるだろう、と思うと柚真人は遠い眩暈を感じた。
――こんな生活――拷問だ……。
それは、予告もなく。
そして、前触れもなく。
静かに訪れようとしていた。
――お兄ちゃんて、とても綺麗ね。
――みんな、お兄ちゃんのこと、大好きなのね。
たくさんのリボン。たくさんの――気持ち。
両手いっぱいのチョコレート。
そんなことを言ったのが、一体何時のことだったのか、もう憶い出せない――二月。
☆
「ただいま」
皇司が居間で参考書を広げていると、兄が学校から帰ってきた。
司は、高校受験を明後日に控えた中学三年生で、学校での授業はもうない。
だから朝から、こうして一人静かに居間でもって勉学に励んでいたのである。
気がつけば、窓から見える表の景色は薄闇に沈んですっかり暗くなっていた。
柚真人は、大きな紙袋を抱えている。
「お帰り。……遅かったね柚真兄、……ってまあ……あたりまえか。今日はまた一段と足留め食ったみたいじゃない?」
毎度のコトながら非常に疲れた様子――と司は思い、兄を見上げた。聞かなくとも、その紙袋の中身がわかってしまう。今日は二月十四日、製菓会社の陰謀に日本全国の愚かな消費者どもが踊らされている日なのだ。
――ま、バレンタインデー、とかも云うんだけど。
行事は毎年のことなのだけれど――司は参考書を閉じて、今年も柚真人を労うことにした。この一寸やそっとでは他人様とは比較にもならない美貌の兄には、こうしたイベントごとにそれなりの苦労があることを、司は良く良く知っていたからだ。
柚真人がため息とともに畳の上に座り込む。
彼が投げ出した袋の中を覗いて、司は呆れたように感嘆の声を上げた。
「相変わらずのモテっぷりだこと……ええ……これ、新記録じゃない?」
「……重かった」
柚真人はひとことそれだけをしみじみと呟くと、肩を落とした。
重いであろうことは司にも十分に察せた。
「だよね。毎年毎年本当にすごいよ、ご苦労サマ。どうするの、これ?」
「まあ……。毎年のことだからな……。おいおい始末するよ。台所の戸棚になんとか詰め込んでおいておくから、司も手伝ってくれると嬉しいんだけどね?」
あっけらかんとした兄の言葉に、司は呆れて肩をすくめた。
「手伝うって……それってかりにもバレンタインのプレゼントでしょ? あたしが手を出したりしたら、せっかく柚真兄に手造りしてくれた子や、お姉様たちに失礼でしょうが」
「そうか?」
「そうかって……兄貴サマねえ。毎年まいとし、それ、何、考えて貰ってんの?」
司は返した。
それでなくとも生きてるだけで年がら年中モテまくっている野郎は意識が違う。
チョコレート――が、やはり標準的な商品であろう。しかし昨今、これに乗じて様々な商品を抱き合わせるのが流行っているらしく、その内容も年々エスカレートしていくように、司には思える。そもそも自分のモノになるかどうかも定かではない男に、何故ここまでできるのか、それがわからない。
手間と暇と金の無駄である。
―――――?
その時司は、あることにふいに気づいた。
――自分のものになるかどうか、わからない男。
バレンタインデイ、とはすなわち天下御免の大告白大会である。
となれば、兄は本日数多の女子からまがりなりにもなにがしかの愛の告白を受けたことになるわけだが――。
「ねえ、柚真兄?」
「うん――?」
「あの、さ? そもそも――その……兄貴に『本命』っていうのは、いるわけ?」
我ながら、いままで気にしたことはなかった命題だった。だが、思えばいたっておかしくは無い話だ。
そう。
――いたっておかしくないんだ……け、ど。
確かに、そんな素振りを柚真人が見せたことはない。
それどころか、あまり特定の他人と深くつき合うことが好きではないらしい兄である。
けれどもし、『本命』が存在するのだとしたら、これだけのプレゼントの中にそれが入っていないとは考え難い。
また、狙った獲物を籠絡することなんて、兄にしてみれば極簡単なことのはずで。
「なんだよ、急に?」
と柚真人が首を傾げる。
何故、そう思ったのかわからなかった。
けれど、ふいにそれが気になったのだ。
だいたい、柚真人の態度は、いくらなんでも女子諸君に対して失礼ではないか。告白それ自体は、いつどんな時でも、勇気が要るものだろう。
それをかったっぱしから十把一絡げにして受け取って歩くなんて無礼千万だ。
柚真人が、ひとつ嘆息して、司の方を見た。
「『本命』って、それ『好きな人』ってこと? ……おれの?」
「……普通はそうだと思うけど?」
普通。普通でなければ何なのだろう。それはよくわからなかった。だがそんな者の定義は、個人それぞれにしかわかり得ない。
柚真人が――笑った。
真紅の花が咲き零れるような、微笑みだった。本当に本当に綺麗だと、見惚れずにはいられない、それ。司はそれに怯んだ。
「……なによ」
「おれに、いると思う? その、『好きな人』っていうのが」
「さあ。わからないけど」
「じゃ、――お前には内緒ってことにしておこう」
「――え?」
「だから、ないしょ」
そういって、兄は立ち上がった。
「そういう司は?」
と、柚真人がいうので、――司は紙袋から顔を上げて柚真人を見遣り、言わなくてもわかるでしょうというしぐさをしてみせた。
「ああ――」
生憎と、いいまのところ司にはそんな相手がいるという自覚がなかった。そのうえ目下、それほど暇でもない――悲しいことに。
「飛鳥ぐらいってところか」
「ご明察、去年と一緒。飛鳥君にはねだられたから……贈呈した。そんな馬鹿馬鹿しいことしてる暇ないし。……興味も、無いし」
「ああ。まあ――明後日――受験だもんな」
「そういうこと」
司は頷いた。
実際、同級生の中には卒業までには、と色めき立っている輩もいないではなかったが、それは司の知ったことではなかった。
高校受験が目の前なのだ。
「でも今日、緋月には校門の前で待ち伏せされたよ」
緋月、というのは、皇の分家筋にあたる『暁』の次女の名前だ。司とは同い年で幼馴染み、そのうえ兄・皇柚真人には幼い頃からそれはそれはご執心の箱入りお嬢様である。
司はそれを聞いて少し複雑な顔をする。同じ受験生なのに、翌日に試験を控えて随分と余裕だ。
――バレンタイン・チョコレート、か。
「ていうか……司も緋月も、どこの学校受験るんだ? 試験日は一緒だろ?」
司は、柚真人に自分が受験する高校を教えていなかった。
理由はない。
何となく、嫌だったからだ。
だから、合格したらわかるからといって、教えないでいた。柚真人の口振りからすると、どうやら緋月も受験校を内緒にしているらしい。しかし、柚真人はともかく司には、緋月の考えていることがわかった。どうせ、柚真人の通う、私立西陵高校に決まっている。
――柚真人さま! 春から同じ学び舎に通わせていただくことになりましたわ!
などと、もうそれはそれは嬉しそうにいってくるのだろう。
緋月は好きだが、あの少女の、少々行き過ぎた時代錯誤な感覚にだけはどうもついてゆけない。
だいたい、なぜこの御時世に、『様』付けで人を呼ぶのだろう。
そのあたりの感覚は、微妙におかしいと思う。
「司?」
「だからいってるでしょ。合格したらわかるんだから、いいじゃない別に。優麻さんは知ってるし、卓史お兄ちゃんにも許可はもらってるし」
司はすげなく言い返した。
「まあな……。そりゃ、そうだけど」
なぜだろう。なんだか――嫌な感じがしたのだ。
柚真人の――『好きな人』。
それはもしかしたら、それはあの、筋金入りの天然記念国宝級御嬢様――暁緋月、だろうか。可愛らしくて、ふわふわしていて、とても綺麗な、彼女。確かに、柚真人の隣を歩けば、それは人目を惹くだろう。
――別に、気になるわけじゃない。
けれど。
緋月がそういってきたら、柚真人はどんな顔をするのだろう。
妹の自分が見たこともないような表情を、きっと、するんだろう。
――どんな?
「――とにかくまず、着替えてくるよ」
柚真人が、そういって居間を出ていった。
叩き付けたくなるのを押さえて、静かに部屋の襖を閉める。
――ときどき……ほんっと括り殺してやりたくなるよな……あいつ……。
畳に鞄を投げ捨て、柚真人は唇を噛み締めた。
――『好きな人』――?
制服のネクタイを無造作に緩めて息を吐く。
笑顔と平静を保つことがどれほどの自制心を必要とすることか、わからせてやりたい。
――それを知ったら、お前は一体どんな顔をするっていうんだ。ええ、司?
いわれないことであることはわかっていた。
司は全然悪くない。
妹である司の眼中に、兄である柚真人が入りようがないのはごく当たり前のことだ。
だから柚真人は、司を意味もなく責めてしまう自分が嫌いだった。司と一緒にいると、どんどん自分のことが嫌いになってゆく。
コートを掛け、ブレザーを脱ぐ。
唇をきつく引き結び、柚真人は冷たい掌で額を押さえる。
――……人の気もしらないで。お気楽なこと、ぬかしてくれる……。
これから食事の支度をして、両親たちはいつものように帰宅しないであろうから、司とふたりで夕食を済ませなければならない――何食わぬ顔で。
兄の、顔で。
――拷問だ――。
いつまで続けられるだろう、と思うと柚真人は遠い眩暈を感じた。
――こんな生活――拷問だ……。

