勾玉遊戯:過去編1990-2000

07
 
 
 
     ☆

「何だったのかしらね。まったくいい迷惑だったわ」
 皇神社の境内で、水月がぼやく。
 よい天気だった。
 枯れ枝の向こうの空は高く澄んで、春の訪れがまだまだ遠いものであることを感じさせた。
 とはいえ日曜なので、ちらほら散策に訪れている人影がある。
 水月も、散歩がてら柚真人に会いに来たのである。
 仕事は山と溜まっていたが、気分もいまひとつすっきりしなかった。
 そういう時――水月は、この少年の清涼な空気に触れたくなる。
 ひやんりと澄んだ水のように、少年の周りの空気は冷たく、そして透明度が高い。それは、冬の遠い空の青さに似ていた。
「ひとつ、いいかな。水月さん」
 柚真人がそういうので、水月は何かと問うた。
 少年は浅葱(あさぎ)袴に身を包み、竹箒で以て、参道の石畳を掃いている。
「貴方と優麻が見たという、その女性も、やはり瀬田美代子さんでしょう。少なくともその時点では、水月さんの前にも存在していたんですよ」
 水月は目を瞠る。
「……まあ……そういうことになるわよねえ」
 柚真人は、掃除の手を休めて水月をみた。
 箒の上に手を組み、顎をのせて、
「別に、幽霊とかそんなんじゃないよ。うん」
「それじゃあどういうこと?」
「なにも、死んだ人ばかりが想いを残すわけではないからね……」
 少年は――神主の口調になって言った。
「そういうこともあるんじゃないかと。推測だけど」
「……いいわ。聞かせて……」
「和泉がいっていたけど、瀬田美代子が急に叫んで夫を殺したと言い出したって。水月さん達の前から女性が消えたのってその頃みたいだし? 符合するとは思うだろ?」
「そう、……それは、そうだけれど……」
「瀬田美代子自身が自分の中から追い出した、『殺人の記憶』。そういうことは考えられないかってね? だから美代子本人は自分が殺人を犯したことを――厳密にいうと、犯そうとしたことを忘れていた。その時、旦那さんの浮気相手である女性の記憶も、追い出した。だから、追い出された方には殺人の記憶と、『河上真希』という漠然とした記憶しか存在しなかった……んだとも推理できる」
 風が流れた。
 それは理論的な推理ではない。
 現実ではない。
 けれど。
 きっと、真実だ。
 水月は、うつむいて短く沈黙した後、再び少年を見た。
「あれは、確かに生きてる人だった。……違和感、なかったわ」
「うん。むしろ本物の瀬田美代子さんと接触した人の方が、違和感を感じたのかも」
「……どうして?」
「欠けていたから。かな……たぶん。その人の裡に、何も無かったから……」
 それが本当かどうかは、水月にはわからない。水月はあの女性しか知らないし、その姿が目の前で消えたときも、まったく不意でしかなかった。
「じゃあ、彼女は彼女の中に還っていったの? ひとつになったのかしら」
「さあ……そこまではおれには」
「……それで、他の可能性って――確かこの前――それを気にしてたわね?」
「あ、水月さん、ちゃんと聞いていてくれたんですね」
 柚真人は、箒を持ちかえた。
「……まあ、その奥さんがどうも思い込みの激しい方だったようなんで、そう思っただけなんだけど」
「思い込みの問題?」
「それは、一概には言えないかのも知れないけど。でも多分、偶然が重なったんじゃないかな。それが、双方の思い込みで事態をややこしくしたんでしょう。警察も、同じ結論にたどりついたでしょう?」
「知らないわ。和泉にわざわざ話聞きたくなかったし。あいつ、さっさと本庁に帰っちゃったしねえ。……まあ、消去法でいくと結論は一つしか残らないわ
ね。……きっと」
「うん。夫は、浮気をしているわけだから、後ろめたい。美代子さんもそれを知っていたとする。多分たびたび喧嘩になって、殺してやるとか死んでやるとか、いわれ続けていてそれが異常なくらいだったら普通の人は怯えるよね? そんなところへきて、奥さんの方も思いつめていた。夫が憎かったか、愛人に夫を渡したくなかったか、それはわからないけれども」
 水月は少年の云わんとしていることに賛同の意を示して相槌をうった。
「……そうね。考えられないことでは、ないのよね」
「そう。いま、砂糖を入れようとしている自分の行為が――咄嗟に、毒だったら――毒なんだこれは――そう、自分は、毒を盛って夫を殺すんだ――と、突発的に思い込んでしまう――」
「まあ考えれらない症状では、ないわ。旦那は、たまたま後ろめたさから、それが毒に、見えてしまったのね……。殺されるんじゃないかという、疑心暗鬼にかられて……」
「そんなとこじゃないかなと」
「人騒がせもいいところね。その日から夫は家に帰らなったもんだかで夫が死んでしまったのだと思い込んで、それで――殺人を行ったという記憶を、作ってしまうことも確かにないとは言えない。それに耐えかねて、その記憶や感情を消し去ろうと……夫なんか死んでしまえばという一方で、夫を殺したという記憶が重荷になったのね」
「自分の中から切り離すことで解決することにした。そうしたら、殺人の記憶だけがね。幽霊みたいにふらふらとね」
「じゃあ、砂糖で――人を殺したと思い込んでいただけなのね……本当に」
「まあ。それもあくまでも推測だけど。砂糖か、まあコーヒーに、普通入れる物かな……」
 そうして、柚真人はまた、箒で石畳を掃きはじめた。
「……幻覚犯。不能犯ですね。スプーン一杯の砂糖で人は殺せません」
 唐突に背中から声をかけられ、水月は反射的に振り向いた。銀縁眼鏡の男が、ごく穏やかな表情でもって、そこにいた。
「それに、薬物は流した水道管、下水官などからも検出することが可能です。とすれば、毒物が使用された可能性は、自然低くなったでしょう」
「優麻……」
「柚真人さん、こんにちは」
「何しにきてんのよ」
「司さんの、受験指導です。家庭教師といいましょうか?」
「はん……。司、そういえばもうすぐ受験だったわね」
 司とは、柚真人の妹の名である。いつでも訳知り顔のこの男に、水月はなぜだか無性に腹が立った。それが八つ当たりにすぎないこともわかっていたけれど。
 本当に、あの女が、柚真人のいうようなものだったのかどうかなど、水月には、わからない。水月には、この皇の巫のような資質は無かった。そしてそれを信じても、疑ってもいない。世の中にある真実の数は、人の数だけあるのだから、それはどうでもいいことだった。
 水月の中の真実でいえば、ただ、あの女は精神に異常を来したにすぎなかった。
 それが水月の現実。
 彼女を虚偽殺人に駆り立てた真実の動機が何だったかはわからない。けれど、彼女は現実を拒否し続け、そして旅立ってしまった。
 水月は思う。
「やっぱり君って不思議ね、柚真人君」
 柚真人は微笑んだ。
「仕事ですよ。水月さんと同じことをしているだけです」
「そうかもね。じゃあ……あたしはこれで。またね、御当主様」
 ――もう忘れよう。
 水月はひらひらと手を振って――そして枯れ枝の隙間から落ちてくる弱々しい陽射しの中へと、踵を返した。


 参道を歩み去って行く、暁水月の背。
 それを見送りながら、柚真人は目を細くした。
「何か、見えるんですか?」
 傍ら、不意に悟った優麻が訊いた。
「うん。たぶん、その彼女……がね」
「え? 水月さん、に?」
 驚いて優麻がそう言うと、柚真人は横に首を振った。
「いや、あれはね。記憶も感情も持ってない、想いの残像ですらない。水月に懐いて――馴染んでいるだけ。そのうち、何処かへ行くよ」
「大丈夫なんですか?」
 柚真人は頷いた。
 存在といえるかどうかすらわからない、それは不確かなものだったのだ。
 だが、それの彼女の一部。
 いや、もしかすると本質なのかも知れなかったが――だとすれば彼女は、自由になったのだろう、と思う。
 どうしてかはわからないが、とにかく柚真人には、そんなふうに思えた。たぶん、誰もいない家にいる女は、抜け殻なのだ。
 憶い出を遺して、彼女は自由になったのだ。
 それから、柚真人は大きく伸びをする。
「うああ。腰、痛い……」
「朝から掃き掃除ですか?」
 そのとおりであった。
 柚真人は、箒を逆さに持ち変える。
 一休みしてもいいだろう。
 空を仰ぐと、ひとつ小さな雲があった。青空にひとり漂うようなそれは、上空の強い風に吹かれて、ゆっくりと流れてゆく。
「……誰か……誰かのものになるくらいなら、殺してしまった方が、マシなんだろうか?」
 柚真人がぽつりと口にしたので、優麻は首を傾げてみせた。
「いろいろあります。そう思う人もいるでしょう。でもきっと、水月さんなら――それは病気だ、というでしょうね。まあ……彼女に関していうならそうではなく、ただ現実を否定したかったのではないですか?」
 優麻は笑顔のまま、言った。
「それこそ、そんなにまで思うのであれば、本当に殺しているでしょう。こうも考えられます。殺す必要はなかった、つまり、殺したかったのは夫ではなく、夫に捨てられてしまうという、現実だった。彼女はそれをこそ、いっそ殺してしまいたかったのでは?」
 若い女に夫を奪われること、それは自分というものが意義のない存在になることだ。自分が捨てられるということだ。
 そんな現実には、耐えられない。
 自分が惨めにおいてゆかれるという現実が、受け入れられない。
 だから夫を殺したと思い込むことで、彼女は自分の中で自分の存在が崩壊してゆくのを、食い止めた。そして、その憶い出の中で生きることにしたのだ。 
 自己保身。それは単なる自己愛に過ぎないのかもしれない。
 それが、あまりにも強くて、自分以外の世界が、ない。すべては自分が存在するがゆえ、意義のあるものとして成り立っている。
 病むとは、そういうことかもしれない。
「……現実をぬりかえる契機が与えられた瞬間、だったんでしょう。私は、そんなふうに思いますよ」
「ふうん。……そんなものかな」
 優麻は、複雑な顔をしている柚真人を見て、笑った。
 それでも、それが望んで手に入れた幸せなんでしょう。人それぞれとはよく言ったものです」
 彼女の抜け殻は、虚構の檻で、殺人の罪を背負い歩き続けることだろう。
 閉じ込められた憶い出は、牢獄につなぎ止められ――そして彼女は自由を得る。
 そうまでして得られた自由に、一体何の意味があるのかなんて誰にもわからない。けれど、それが、彼女の願いだったのだろう。
 夫を殺してでも、自分の憶い出を衛ること。
 それが、砂糖さえも毒薬に変える願い。
 可笑しなものだ、と柚真人は思う。
 彼女は、彼女が死ぬまで幽霊なのだ。
 どちらが本物の彼女なのだろう。
 誰もいない家で、生涯を過すであろう女が幽霊か。自由な彼女も幽霊か。
 どちらにしろ、ここではもう生きてはいないのだ。
 一体、本当の彼女は何処へいってしまったのだろう。


「じゃあ優麻。お茶にしようか」
 柚真人は塵取りとゴミ袋を持ち上げて、歩き出した。
「司も朝からずっと勉強してるから、少し休ませてやってもいいんじゃないか?」
「ええ。そうですね」
「なあ、優麻。ところでお前、司が受験する学校聞いてないのか? あいつ、おれに教えてくれないんだよな」
 優麻は、にっこり笑って否という。
「内緒、といわれていますので」
「そうかあ。……ま。……いいんだけどね」
 柚真人は、妹から第一志望校を聞いていなかった。
 それが、少しだけ気になっていたのである。
「しょうがないなあ」
「大丈夫。ちゃんと合格しますよ。司さん、頑張ってますから」
「うん。それはわかるんだけどね」
 柚真人は苦笑いして肩を竦めた。
 柚真人にとっては、司より大切なものなんて存在しない。
 それを、誰も知らないけれど。
 よかった、と柚真人は思った。
 自分より大切なものがあるからきっと、自分は世界を見失うことは、ない。
 世界を殺してしまうことなんてない。


 ――哀れな女……といっていいものかどうか……。
 ――何処へでもいくといい。好きなところへ。