05
和泉は、患者の検査を終えた後、携帯電話に呼ばれて女性捜査官を残し、仕事場へと戻って行った。
和泉は水月になにも言わなかったが、何か急を要する事態が生じたことは、わかった。
殺人事件のことか、あるいは――この女性の事に関して何かがわかったのだろう。
どちらにしても言及する暇はなかったし、するつもりもなかった。
水月は、その後そのまま、坂田医師と患者、それに捜査員とともに坂田の勤務する病院へ戻った。
水月はそれから、病院のロビーで捜査官の質問を、また、受けている。
捜査官は柔らかな雰囲気のふくふくした女性だった。外見的には中年にさしかかろうかというころだ。
「何か、お気付きになったこと、あります?」
彼女の口調は柔らかだった。
それが余計に手慣れた雰囲気を醸している。
「いいえ……。とくには」
「彼女が倒れた時、患者はどうでした? 返り血を浴びた様子とか。衣服に血が付着していたとか、ありませんでした?」
「ええ」
「凶器などは、本当に隠し持っていなかった?」
「私の知る範囲では――」
ひとつひとつ、質問に答えるために思い出す。そして――こんな時になんでいないのよ、あの役立たずの弁護士は――と、そのとき行動を共にしていた男のことを心密かに罵ってみるが、詮なきことである。
「では、何か、いってませんでしたか? 人の名前とか?」
「ええ、なにも。急に倒れて、意識を失って。この病院に収容されるまでそれっきりだったわ」
「貴方、精神科のお医者さんでしょう? 今日の彼女の様子、いががでした?」
「さあ。でも、鑑定医の先生のいうことに依存はありません。軽い記憶傷害……それ以外は正常だと思われます。例えば、彼女が殺人犯だとして……犯行時にどうであったかはわかりませんけど」
「そうですか……本日は遅くまで、ありがとうございました。貴方も、お仕事もあったのでしょう?」
唐突にいわれて、水月は微笑んだ。
腕時計を見やれば、時間はすでに午後五時を回っている。
確かに、水月にだって患者はいるし、カルテの整理等、片付けなくてはならない仕事は山のようにあった。
だが――これも仕事だ。
「しかたないわ」
それとも、どこか、険しい顔でもしていただろうか、と我が身の一日の在り方を振り返る。
「大変なのは、お互い様でしょう。あたしには仕事があるけれど、貴方にだって、あるわ」
「そうですね」
安心したように微笑む顔が印象的な捜査官だな、と水月は思った。
子供がいるなら、家に帰ればきっと優しい母親なのだろう。
水月を労うその顔はそんな表情だった。
☆
――さっきの人は、警察?
――警察がどうして?
彼女はぼんやり考えた。
――私は、何を忘れていたのかしら。
ずっといらいらしている。
――わからない。
何かとても大切だったことに思えてならない。早く憶い出さなければならないような、そんな気がする。
こちん、こちん、という壁掛け時計の音が聞こえた。
結婚したときに、夫と気に入って買って、この家に取り付けた時計だ。
振り子が時を刻む音。
リビングを照らす白熱灯の黄色い色。
黄ばんだ色。
こちん、こちん。かちん、かちん。
☆
その時だ。
「せんせい……?」
耳元で急に大きく呼ばれたような気がして、水月は振り返った。
そして目に入った姿を見上げるかっこうになる。
隣にいた、捜査官の女性も、同時に振り返って彼女を見上げた。
水月が聞いたと思った呼びかけの声は、女性の捜査官にも聞こえたのだろう。
ソファの背もたれ越し、すぐ後ろに彼女が立っていたのだ。
「え……?」
にい、と彼女が唇を歪めた。
ように、見えた。
そう。
女性は、微笑んでいた。
「せんせい。あたし、よかったんですこれで」
☆
そわそわした。
もうすこし。
彼女は思った。
脳裏に重くたれこめていた霧のような靄が、徐々に、晴れてゆくのを感じる。
頭の中に、何か見える。
――あれは、わたし。
もっとよく見なければ、と彼女は思った。
もどかしい。
――あれは、征雄さん。
夫の姿が見えた。
白い、コーヒーカップ。結婚した時に、買った物。
そして。
――あたしは――。
ああ、そうか。
コーヒーに、毒を。
毒を。
――毒をいれてあの人を殺したのだ。二度とあの女のところへなど行けないようにしてやるのだ。あの人は死んだから、帰ってこないのだ!
ふいに脳裏の霧が晴れた。
彼女はひっそりつぶやいた。
そうしてこんなことを忘れていたのだろう。
「やっぱり、あの人を殺してしまったんだわ……でも、これでいいのだわ……」
そうだ。
そうだった。
☆
水月は、茫然とその女を見ていた。
捜査官も、彼女を見ていた。
けれど彼女の方は、二人の方を見ていなかった。
焦点があっていない目で、どこか――なにか――目に見えないものを見ているかのように。
それは、水月がよく知っているある少年のまなざしに、似ていた。
彼は、人ではないもの、人には見えない者を見る。
そのときの、目だ。
寒気がした。
彼女が何か、呟いたように感じ、水月はそれに耳を傾けた。
「ああ。ああ……あなた――」
――あなた?
そして。
そして――。
女の姿が消えたのである。
「え……?」
「……え?」
消えた。
たった今、ここにいたその女の姿が。
なくなった。
消えた――のだ。
空調の音が遠くに聞こえた。
――あなた――。
ぶうん。ぶうん。ぶうん。
薄暗いロビーに響く、音。
どこかで何か機会の音。
廊下の向こうにストレッチャが引かれていく音。
がらがら。がらがら。
エレベータが動く音。
階段をかけ上がるスリッパの音。
ぱたぱた。ぱたぱた。
彼女の声は、しかしもう聞こえなかった。
なぜなら――彼女の存在が、そこから消えて失せたからだ。
――あなた。
掠れた声だけが、耳の奥に残った。
☆
彼女はひとり、呟き続けた。
「あの人は死んだのよ。だって、あたしが毒を飲ませたんですもの……殺したんですもの……」
ふふふ、と声を上げる。
「そうよ。あのひと、死んだの……だから、もう、帰らないのだわ…………」
☆
それから程無くして、和泉のもとに病院に入院していた女が行方不明になった、という連絡が入った。
警察は、病院から姿を消した女の行方を捜索した。
いきなり消えた、などといって誰が信用するというのであろう。
一方、瀬田美代子の夫――瀬田征雄の消息が確認され、瀬田美代子は、その日のうちに殺人未遂の容疑で以て緊急逮捕された。
瀬田征雄は、美代子のいうように死んではいなかったが、妻に、毒の入ったコーヒーを飲まされるところだった、と証言したのである。
だが――あの女性が何者であるのか、瀬田美代子と何らかの関係があるのか、そして一体誰を殺したというのか、結局何一つ明らかにはならなかった。
和泉は、患者の検査を終えた後、携帯電話に呼ばれて女性捜査官を残し、仕事場へと戻って行った。
和泉は水月になにも言わなかったが、何か急を要する事態が生じたことは、わかった。
殺人事件のことか、あるいは――この女性の事に関して何かがわかったのだろう。
どちらにしても言及する暇はなかったし、するつもりもなかった。
水月は、その後そのまま、坂田医師と患者、それに捜査員とともに坂田の勤務する病院へ戻った。
水月はそれから、病院のロビーで捜査官の質問を、また、受けている。
捜査官は柔らかな雰囲気のふくふくした女性だった。外見的には中年にさしかかろうかというころだ。
「何か、お気付きになったこと、あります?」
彼女の口調は柔らかだった。
それが余計に手慣れた雰囲気を醸している。
「いいえ……。とくには」
「彼女が倒れた時、患者はどうでした? 返り血を浴びた様子とか。衣服に血が付着していたとか、ありませんでした?」
「ええ」
「凶器などは、本当に隠し持っていなかった?」
「私の知る範囲では――」
ひとつひとつ、質問に答えるために思い出す。そして――こんな時になんでいないのよ、あの役立たずの弁護士は――と、そのとき行動を共にしていた男のことを心密かに罵ってみるが、詮なきことである。
「では、何か、いってませんでしたか? 人の名前とか?」
「ええ、なにも。急に倒れて、意識を失って。この病院に収容されるまでそれっきりだったわ」
「貴方、精神科のお医者さんでしょう? 今日の彼女の様子、いががでした?」
「さあ。でも、鑑定医の先生のいうことに依存はありません。軽い記憶傷害……それ以外は正常だと思われます。例えば、彼女が殺人犯だとして……犯行時にどうであったかはわかりませんけど」
「そうですか……本日は遅くまで、ありがとうございました。貴方も、お仕事もあったのでしょう?」
唐突にいわれて、水月は微笑んだ。
腕時計を見やれば、時間はすでに午後五時を回っている。
確かに、水月にだって患者はいるし、カルテの整理等、片付けなくてはならない仕事は山のようにあった。
だが――これも仕事だ。
「しかたないわ」
それとも、どこか、険しい顔でもしていただろうか、と我が身の一日の在り方を振り返る。
「大変なのは、お互い様でしょう。あたしには仕事があるけれど、貴方にだって、あるわ」
「そうですね」
安心したように微笑む顔が印象的な捜査官だな、と水月は思った。
子供がいるなら、家に帰ればきっと優しい母親なのだろう。
水月を労うその顔はそんな表情だった。
☆
――さっきの人は、警察?
――警察がどうして?
彼女はぼんやり考えた。
――私は、何を忘れていたのかしら。
ずっといらいらしている。
――わからない。
何かとても大切だったことに思えてならない。早く憶い出さなければならないような、そんな気がする。
こちん、こちん、という壁掛け時計の音が聞こえた。
結婚したときに、夫と気に入って買って、この家に取り付けた時計だ。
振り子が時を刻む音。
リビングを照らす白熱灯の黄色い色。
黄ばんだ色。
こちん、こちん。かちん、かちん。
☆
その時だ。
「せんせい……?」
耳元で急に大きく呼ばれたような気がして、水月は振り返った。
そして目に入った姿を見上げるかっこうになる。
隣にいた、捜査官の女性も、同時に振り返って彼女を見上げた。
水月が聞いたと思った呼びかけの声は、女性の捜査官にも聞こえたのだろう。
ソファの背もたれ越し、すぐ後ろに彼女が立っていたのだ。
「え……?」
にい、と彼女が唇を歪めた。
ように、見えた。
そう。
女性は、微笑んでいた。
「せんせい。あたし、よかったんですこれで」
☆
そわそわした。
もうすこし。
彼女は思った。
脳裏に重くたれこめていた霧のような靄が、徐々に、晴れてゆくのを感じる。
頭の中に、何か見える。
――あれは、わたし。
もっとよく見なければ、と彼女は思った。
もどかしい。
――あれは、征雄さん。
夫の姿が見えた。
白い、コーヒーカップ。結婚した時に、買った物。
そして。
――あたしは――。
ああ、そうか。
コーヒーに、毒を。
毒を。
――毒をいれてあの人を殺したのだ。二度とあの女のところへなど行けないようにしてやるのだ。あの人は死んだから、帰ってこないのだ!
ふいに脳裏の霧が晴れた。
彼女はひっそりつぶやいた。
そうしてこんなことを忘れていたのだろう。
「やっぱり、あの人を殺してしまったんだわ……でも、これでいいのだわ……」
そうだ。
そうだった。
☆
水月は、茫然とその女を見ていた。
捜査官も、彼女を見ていた。
けれど彼女の方は、二人の方を見ていなかった。
焦点があっていない目で、どこか――なにか――目に見えないものを見ているかのように。
それは、水月がよく知っているある少年のまなざしに、似ていた。
彼は、人ではないもの、人には見えない者を見る。
そのときの、目だ。
寒気がした。
彼女が何か、呟いたように感じ、水月はそれに耳を傾けた。
「ああ。ああ……あなた――」
――あなた?
そして。
そして――。
女の姿が消えたのである。
「え……?」
「……え?」
消えた。
たった今、ここにいたその女の姿が。
なくなった。
消えた――のだ。
空調の音が遠くに聞こえた。
――あなた――。
ぶうん。ぶうん。ぶうん。
薄暗いロビーに響く、音。
どこかで何か機会の音。
廊下の向こうにストレッチャが引かれていく音。
がらがら。がらがら。
エレベータが動く音。
階段をかけ上がるスリッパの音。
ぱたぱた。ぱたぱた。
彼女の声は、しかしもう聞こえなかった。
なぜなら――彼女の存在が、そこから消えて失せたからだ。
――あなた。
掠れた声だけが、耳の奥に残った。
☆
彼女はひとり、呟き続けた。
「あの人は死んだのよ。だって、あたしが毒を飲ませたんですもの……殺したんですもの……」
ふふふ、と声を上げる。
「そうよ。あのひと、死んだの……だから、もう、帰らないのだわ…………」
☆
それから程無くして、和泉のもとに病院に入院していた女が行方不明になった、という連絡が入った。
警察は、病院から姿を消した女の行方を捜索した。
いきなり消えた、などといって誰が信用するというのであろう。
一方、瀬田美代子の夫――瀬田征雄の消息が確認され、瀬田美代子は、その日のうちに殺人未遂の容疑で以て緊急逮捕された。
瀬田征雄は、美代子のいうように死んではいなかったが、妻に、毒の入ったコーヒーを飲まされるところだった、と証言したのである。
だが――あの女性が何者であるのか、瀬田美代子と何らかの関係があるのか、そして一体誰を殺したというのか、結局何一つ明らかにはならなかった。

