勾玉遊戯:過去編1990-2000

05
 
 

 和泉は、患者の検査を終えた後、携帯電話に呼ばれて女性捜査官を残し、仕事場へと戻って行った。
 和泉は水月になにも言わなかったが、何か急を要する事態が生じたことは、わかった。
 殺人事件のことか、あるいは――この女性の事に関して何かがわかったのだろう。
 どちらにしても言及する暇はなかったし、するつもりもなかった。
 水月は、その後そのまま、坂田医師と患者、それに捜査員とともに坂田の勤務する病院へ戻った。


 水月はそれから、病院のロビーで捜査官の質問を、また、受けている。
 捜査官は柔らかな雰囲気のふくふくした女性だった。外見的には中年にさしかかろうかというころだ。
「何か、お気付きになったこと、あります?」
 彼女の口調は柔らかだった。
 それが余計に手慣れた雰囲気を醸している。
「いいえ……。とくには」
「彼女が倒れた時、患者はどうでした? 返り血を浴びた様子とか。衣服に血が付着していたとか、ありませんでした?」
「ええ」
「凶器などは、本当に隠し持っていなかった?」
「私の知る範囲では――」
 ひとつひとつ、質問に答えるために思い出す。そして――こんな時になんでいないのよ、あの役立たずの弁護士は――と、そのとき行動を共にしていた男のことを心密かに罵ってみるが、詮なきことである。
「では、何か、いってませんでしたか? 人の名前とか?」
「ええ、なにも。急に倒れて、意識を失って。この病院に収容されるまでそれっきりだったわ」
「貴方、精神科のお医者さんでしょう? 今日の彼女の様子、いががでした?」
「さあ。でも、鑑定医の先生のいうことに依存はありません。軽い記憶傷害……それ以外は正常だと思われます。例えば、彼女が殺人犯だとして……犯行時にどうであったかはわかりませんけど」
「そうですか……本日は遅くまで、ありがとうございました。貴方も、お仕事もあったのでしょう?」
 唐突にいわれて、水月は微笑んだ。
 腕時計を見やれば、時間はすでに午後五時を回っている。
 確かに、水月にだって患者はいるし、カルテの整理等、片付けなくてはならない仕事は山のようにあった。
 だが――これも仕事だ。
「しかたないわ」
 それとも、どこか、険しい顔でもしていただろうか、と我が身の一日の在り方を振り返る。
「大変なのは、お互い様でしょう。あたしには仕事があるけれど、貴方にだって、あるわ」
「そうですね」
 安心したように微笑む顔が印象的な捜査官だな、と水月は思った。
 子供がいるなら、家に帰ればきっと優しい母親なのだろう。
 水月を労うその顔はそんな表情だった。

      ☆

 ――さっきの人は、警察?
 ――警察がどうして?
 彼女はぼんやり考えた。
 ――私は、何を忘れていたのかしら。 
 ずっといらいらしている。
 ――わからない。
 何かとても大切だったことに思えてならない。早く憶い出さなければならないような、そんな気がする。
 こちん、こちん、という壁掛け時計の音が聞こえた。
 結婚したときに、夫と気に入って買って、この家に取り付けた時計だ。
 振り子が時を刻む音。
 リビングを照らす白熱灯の黄色い色。
 黄ばんだ色。
 こちん、こちん。かちん、かちん。

      ☆
 
 その時だ。
「せんせい……?」
 耳元で急に大きく呼ばれたような気がして、水月は振り返った。
 そして目に入った姿を見上げるかっこうになる。
 隣にいた、捜査官の女性も、同時に振り返って彼女を見上げた。
 水月が聞いたと思った呼びかけの声は、女性の捜査官にも聞こえたのだろう。
 ソファの背もたれ越し、すぐ後ろに彼女が立っていたのだ。
「え……?」
 にい、と彼女が唇を歪めた。
 ように、見えた。
 そう。
 女性は、微笑んでいた。
「せんせい。あたし、よかったんですこれで」

      ☆

 そわそわした。
 もうすこし。
 彼女は思った。
 脳裏に重くたれこめていた霧のような靄が、徐々に、晴れてゆくのを感じる。
 頭の中に、何か見える。
 ――あれは、わたし。
 もっとよく見なければ、と彼女は思った。
 もどかしい。
 ――あれは、征雄(いくお)さん。
 夫の姿が見えた。
 白い、コーヒーカップ。結婚した時に、買った物。
 そして。
 ――あたしは――。
 ああ、そうか。
 コーヒーに、毒を。
 毒を。
 ――毒をいれてあの人を殺したのだ。二度とあの女のところへなど行けないようにしてやるのだ。あの人は死んだから、帰ってこないのだ!


 ふいに脳裏の霧が晴れた。


 彼女はひっそりつぶやいた。
 そうしてこんなことを忘れていたのだろう。
「やっぱり、あの人を殺してしまったんだわ……でも、これでいいのだわ……」
 そうだ。
 そうだった。

      ☆

 水月は、茫然とその女を見ていた。
 捜査官も、彼女を見ていた。
 けれど彼女の方は、二人の方を見ていなかった。
 焦点があっていない目で、どこか――なにか――目に見えないものを見ているかのように。
 それは、水月がよく知っているある少年のまなざしに、似ていた。
 彼は、人ではないもの、人には見えない者を見る。
 そのときの、目だ。
 寒気がした。
 彼女が何か、呟いたように感じ、水月はそれに耳を傾けた。
「ああ。ああ……あなた――」
 ――あなた?
 そして。
 そして――。


 女の姿が消えたのである。


「え……?」
「……え?」
 消えた。
 たった今、ここにいたその女の姿が。
 なくなった。
 消えた――のだ。
 空調の音が遠くに聞こえた。
 ――あなた――。
 ぶうん。ぶうん。ぶうん。
 薄暗いロビーに響く、音。
 どこかで何か機会の音。
 廊下の向こうにストレッチャが引かれていく音。
 がらがら。がらがら。
 エレベータが動く音。
 階段をかけ上がるスリッパの音。
 ぱたぱた。ぱたぱた。
 彼女の声は、しかしもう聞こえなかった。
 なぜなら――彼女の存在が、そこから消えて失せたからだ。
 ――あなた。
 掠れた声だけが、耳の奥に残った。

      ☆

 彼女はひとり、呟き続けた。
「あの人は死んだのよ。だって、あたしが毒を飲ませたんですもの……殺したんですもの……」
 ふふふ、と声を上げる。
「そうよ。あのひと、死んだの……だから、もう、帰らないのだわ…………」

      ☆

 それから程無くして、和泉のもとに病院に入院していた女が行方不明になった、という連絡が入った。
 警察は、病院から姿を消した女の行方を捜索した。
 いきなり消えた、などといって誰が信用するというのであろう。
 一方、瀬田美代子の夫――瀬田征雄の消息が確認され、瀬田美代子は、その日のうちに殺人未遂の容疑で以て緊急逮捕された。
 瀬田征雄は、美代子のいうように死んではいなかったが、妻に、毒の入ったコーヒーを飲まされるところだった、と証言したのである。
 だが――あの女性が何者であるのか、瀬田美代子と何らかの関係があるのか、そして一体誰を殺したというのか、結局何一つ明らかにはならなかった。