04
翌日、女性の捜査官と和泉刑事が、立会人と自称『河上真希』だという女性をともなって大学病院を訪れた。
件の女性が被疑者たりうるのか、またその自白が信憑性あるものなのかどうかも判然としないので精神鑑定が行われた。立ち会いが必要だったのは、令状のない状況での精神鑑定が被検者の人権に深く関わりうるからである。
この陵和泉という刑事、このあたりの防衛線は過剰なまでにしっかり固める男で、それは後々弁護士につけいる隙を与えないようにという配慮でもあった。
事実、彼は多くの刑事弁護士に苦手とされている。
結果として彼女に重大な精神障害は認められず、一時的な記憶喪失と記憶の混乱が生じているのではないか、と鑑定医は説明した。
「おそらく、殺人を犯したときの心因性の衝撃で、このような症状が出ているものと思われるね。一種の現実逃避だ。この診断の結果、裁判で必要になると思うよ」
初老の鑑定医は禿げ上がった頭をボールペンのお尻でがりがりやりながら、そう言った。
「適切な処置をして、症状の改善回復につとめた方が良さそうだ。彼女が人を殺しているとすれば、本人が他のことを思い出さないといけないからね」
「では、捜査本部設置ですね」
中年にさしかかった年頃の女性捜査官が、和泉に確認するが、
「そおねえ……」
至極面倒臭そうな様子を、和泉は隠そうともしなかった。
水月と坂田は、その後、診察を終えた患者とともに、大学病院の待ち合いロビーのソファに腰を下ろしていた。
「……せんせい。あたし、どうなるんでしょう……?」
彼女は、そわそわと落ち着かない様子だった。
二人は、顔を見合わせた。
――そりゃあ、殺人犯なんだから警察に捕まって裁判になるわけでしょう――とは、なぜかいえない水月である。坂田も同じことを考えているようだ。
「それより、体の具合はどうです? 疲れていませんか?」
坂田の言葉には、医者らしい配慮がある。
彼女は、こめかみあたりに手をやった。
「ええ……すこし、頭が痛いです……。でも……何も思い出せない……」
思い出すことを本人の潜在意識の部分が拒否しているからだろう、と水月は思う。
自分が殺人行為を犯したということのショックで、一時的に記憶傷害などが起こる例は、報告されている。
無理に記憶の回復を強いることは、危険である。
心因性の記憶喪失なら、脳に物理的な傷害があるわけではないから記憶は回復させることも可能だ。だが、医師のきちんとした処置は必要であろう。
問題は――この女性が誰を殺したのか。それはどこでか。死体はどこにあるのか。それがわからなければ、事件は事件にならない。
ふむ、と口許に指先を当てたとき、廊下の向こうから捜査官を伴って和泉がやってくるのが見えた。中年女性だったが、彼女が今回の所轄での相棒なのだろう。
「じゃあ、いきましょうか」
水月は、患者を促して立ち上がった。
☆
時間を少し溯る。
新宿南署の刑事、結城と有田は、河上真希本人の事情聴取に赴いていた。
場所は、彼女のバイト先である、コンビニエンスストアである。
善良な一般市民に取っては多少迷惑な行為だったが、真希という女性は比較的快く、刑事たちに協力していた。
店舗脇の来客用カースペースで、真希は、質問に答えている。
「じゃあ、免許証とか……他になくなったものは、ないんですね?」
そんな被害はない、名前を騙られるような覚えもない、と明るく、真希は言った。
いかにも最近の若い女の子といった感じの彼女は、闊達で、はきはきしていた。コンビニのエプロンの、大きなポケットに両手を突っ込んで、笑っている。
相手が警察の者であると言うこともさして気にした風でなく、まるで友達と立ち話に興じているかのようである。
彼女には特に変わった様子もなかったし、犯罪にかかわっている様子もみうけられなかった。
二人の刑事は、最後にポラロイド写真を、提示した。
昨日、同意を得て撮影した自称『河上真希』であった。
「この写真を、見てください」
真希の表情が変わったのは、そのときである。
「……どうしました?」
一瞬息を飲んだ彼女の様子に、結城と有田は何かを感じ、軽く問うた。
「いえ……、でも、まさか……」
「河上さん? どうかしましたか? 見覚えがありますか?」
「あの……これ……」
「貴方の、名前を騙っている女性です。見覚えが?」
再度、尋ねる。真希が頷いた。
「あたし――この女、知ってる。この女があたしの名前を――? ひどいわ」
真希は、その声にわずかに非難の色を滲ませた。
「この人、……瀬田――たしか、瀬田美代子……っていうの」
「どういう――その、貴方とは、どういう関係が?」
真希は、唇を噛んだ。
そのしぐさがためらいのせいだというのは年若い新米刑事たちにもわかった。
迷っている。
だが答えてもらう必要があった。
その女は殺人を犯したと告白しているのだ。
「河上さん?」
「あの……あたしの……」
「あなたの?」
「あたし、――その……なんていえばいいのかな。いま、不倫……? みたいな感じの、していて。でも、あたし、奥さんがいるなんて知らなかったんだよね。あの、……その、だから――えと、あたしの、恋人の……奥さん、なの」
「確かですか?」
「確かよ。あの人……スケジュール帳に写真いれてたから。あたし、それ見たし……うん、同じ人だと思うけどな」
有田が、慌てて手帳を取り出した。結城が質問を続ける。
「住所、わかります?」
「うん――」
真希は、おずおずとその女の住所を述べた。だが、何やら納得のいかない顔で、うつむきがちにおかしいと呟く。
「その女、本当に人を殺したの? あたしに対する嫌がらせでやってるんじゃないの?」
「いやがらせに……ですか?」
と有田。
「確認してみないことには、わかりません。何か根拠があってそう思われますか?」
「だって、……その人の家庭の事情なんて彼も話さないからわからないけど、気が弱そうな女にみえたし、誰を殺すのかなっ……て」
「というと?」
刑事二人は首を捻った。
てっきり、その不倫を巡って夫婦間で口論となり、妻が夫を殺したのだろうと解釈したのだが、違うのだろうか。
そういうと、真希は首を振った。
「だって、彼、今あたしと暮らしているし。そうねえ、一週間ぐらい前からかなあ。もう、家には帰りたくないって。あたし、そのときは奥さんと喧嘩でもしたのかなって思ったんだけど……」
「すると、旦那さんは生きてることになりますね」
「あ、……あったりまえでしょ! 勝手に殺さないでよ!」
「そう、ですか……」
「おかしくなっちゃったんじゃないの、その女」
彼女の最後の一言には、勝ち誇ったような色があった。
妙なことになった。とにかく、まず昨日病院に運ばれたこの女性が、本当に瀬田美代子であるかどうか確認しなくてはならない。
そのようなわけで、二人の刑事は真希に礼を述べると足早に瀬田美代子という女性の自宅へ向かったのだ。
☆
瀬田家は、北新宿にあった。
ごく普通の建て売り住宅一戸建てで、これといって取り立てて特徴はない。
有田が頷き、結城が玄関チャイムを押す。
だがその時、チャイムのボタンを押した刑事は、自分の行為に違和感を感じた。すぐにはその違和感の正体が分からなかった。だが確かに嫌な感じがしたのだ。
インタホン越しに軽やかな鐘の音が鳴り響き、その後しばらく経ってから、のろのろと玄関の扉は開けられた。
「はい……?」
背の低い、小柄の女性が、顔を出す。
「なにか?」
「……」
その――彼女の姿。
彼女の姿は――。
二人は――同時に、言葉を失った。
家から出てきた女は、確かに――病院の女性と、瓜ふたつだったのだ。
そしてその瞬間、刑事は、違和感の正体に気がついた。
――じゃあ、誰なんだ?
ここにこうして、瀬田美代子がいるとすると、病院にいるはずのあの女は誰だというのか。
「あ、あのですね――」
有田が門扉に手を掛けたので、結城はその肩をつかんだ。だって。この同僚は、何とも思わないのだろうか?
少しこけた頬――生気の欠けた顔――筋の浮き出た首――そして虚ろな瞳。
これほど似ているのに。
「え? 結城さん?」
だが、遅れて、有田もそれに気がついたようだった。
「え?」
瀬田美代子が笑った。
唇が、にいと吊り上がる。
ぞくりとした。
――目の、焦点が。
合っていない。
するう、と背中を冷たい何かが滑り落ちてゆく。
彼女の――半月のように歪んだ瞳が、その瞬間どうしてか冥い孔――空洞を感じさせた。薄い唇から、ちろりと白い歯が見える。正しく整然と並んだ歯が見えた。掠れた呼気がその隙間から零れているように思えた。
――あ。まさか、双子――?
咄嗟に思った。
そうだ、そうかもしれない――だが、なぜこれほどその笑顔に冷たいものを感じるというのか。この奇妙な感覚はなんだろうか、と刑事は思った。
本能的な、嫌悪。
違う――恐怖。
そう、怖いのだ。
けれどなぜ怖いとかんじたのか――その理由は、わからなかった。
ただ闇雲に、彼女を見て、そう思ったのだ。
それに。
彼女が瀬田美代子だというのならば。
では、『河上真希』を名乗ったあの女性は、何者なのだろうか?
翌日、女性の捜査官と和泉刑事が、立会人と自称『河上真希』だという女性をともなって大学病院を訪れた。
件の女性が被疑者たりうるのか、またその自白が信憑性あるものなのかどうかも判然としないので精神鑑定が行われた。立ち会いが必要だったのは、令状のない状況での精神鑑定が被検者の人権に深く関わりうるからである。
この陵和泉という刑事、このあたりの防衛線は過剰なまでにしっかり固める男で、それは後々弁護士につけいる隙を与えないようにという配慮でもあった。
事実、彼は多くの刑事弁護士に苦手とされている。
結果として彼女に重大な精神障害は認められず、一時的な記憶喪失と記憶の混乱が生じているのではないか、と鑑定医は説明した。
「おそらく、殺人を犯したときの心因性の衝撃で、このような症状が出ているものと思われるね。一種の現実逃避だ。この診断の結果、裁判で必要になると思うよ」
初老の鑑定医は禿げ上がった頭をボールペンのお尻でがりがりやりながら、そう言った。
「適切な処置をして、症状の改善回復につとめた方が良さそうだ。彼女が人を殺しているとすれば、本人が他のことを思い出さないといけないからね」
「では、捜査本部設置ですね」
中年にさしかかった年頃の女性捜査官が、和泉に確認するが、
「そおねえ……」
至極面倒臭そうな様子を、和泉は隠そうともしなかった。
水月と坂田は、その後、診察を終えた患者とともに、大学病院の待ち合いロビーのソファに腰を下ろしていた。
「……せんせい。あたし、どうなるんでしょう……?」
彼女は、そわそわと落ち着かない様子だった。
二人は、顔を見合わせた。
――そりゃあ、殺人犯なんだから警察に捕まって裁判になるわけでしょう――とは、なぜかいえない水月である。坂田も同じことを考えているようだ。
「それより、体の具合はどうです? 疲れていませんか?」
坂田の言葉には、医者らしい配慮がある。
彼女は、こめかみあたりに手をやった。
「ええ……すこし、頭が痛いです……。でも……何も思い出せない……」
思い出すことを本人の潜在意識の部分が拒否しているからだろう、と水月は思う。
自分が殺人行為を犯したということのショックで、一時的に記憶傷害などが起こる例は、報告されている。
無理に記憶の回復を強いることは、危険である。
心因性の記憶喪失なら、脳に物理的な傷害があるわけではないから記憶は回復させることも可能だ。だが、医師のきちんとした処置は必要であろう。
問題は――この女性が誰を殺したのか。それはどこでか。死体はどこにあるのか。それがわからなければ、事件は事件にならない。
ふむ、と口許に指先を当てたとき、廊下の向こうから捜査官を伴って和泉がやってくるのが見えた。中年女性だったが、彼女が今回の所轄での相棒なのだろう。
「じゃあ、いきましょうか」
水月は、患者を促して立ち上がった。
☆
時間を少し溯る。
新宿南署の刑事、結城と有田は、河上真希本人の事情聴取に赴いていた。
場所は、彼女のバイト先である、コンビニエンスストアである。
善良な一般市民に取っては多少迷惑な行為だったが、真希という女性は比較的快く、刑事たちに協力していた。
店舗脇の来客用カースペースで、真希は、質問に答えている。
「じゃあ、免許証とか……他になくなったものは、ないんですね?」
そんな被害はない、名前を騙られるような覚えもない、と明るく、真希は言った。
いかにも最近の若い女の子といった感じの彼女は、闊達で、はきはきしていた。コンビニのエプロンの、大きなポケットに両手を突っ込んで、笑っている。
相手が警察の者であると言うこともさして気にした風でなく、まるで友達と立ち話に興じているかのようである。
彼女には特に変わった様子もなかったし、犯罪にかかわっている様子もみうけられなかった。
二人の刑事は、最後にポラロイド写真を、提示した。
昨日、同意を得て撮影した自称『河上真希』であった。
「この写真を、見てください」
真希の表情が変わったのは、そのときである。
「……どうしました?」
一瞬息を飲んだ彼女の様子に、結城と有田は何かを感じ、軽く問うた。
「いえ……、でも、まさか……」
「河上さん? どうかしましたか? 見覚えがありますか?」
「あの……これ……」
「貴方の、名前を騙っている女性です。見覚えが?」
再度、尋ねる。真希が頷いた。
「あたし――この女、知ってる。この女があたしの名前を――? ひどいわ」
真希は、その声にわずかに非難の色を滲ませた。
「この人、……瀬田――たしか、瀬田美代子……っていうの」
「どういう――その、貴方とは、どういう関係が?」
真希は、唇を噛んだ。
そのしぐさがためらいのせいだというのは年若い新米刑事たちにもわかった。
迷っている。
だが答えてもらう必要があった。
その女は殺人を犯したと告白しているのだ。
「河上さん?」
「あの……あたしの……」
「あなたの?」
「あたし、――その……なんていえばいいのかな。いま、不倫……? みたいな感じの、していて。でも、あたし、奥さんがいるなんて知らなかったんだよね。あの、……その、だから――えと、あたしの、恋人の……奥さん、なの」
「確かですか?」
「確かよ。あの人……スケジュール帳に写真いれてたから。あたし、それ見たし……うん、同じ人だと思うけどな」
有田が、慌てて手帳を取り出した。結城が質問を続ける。
「住所、わかります?」
「うん――」
真希は、おずおずとその女の住所を述べた。だが、何やら納得のいかない顔で、うつむきがちにおかしいと呟く。
「その女、本当に人を殺したの? あたしに対する嫌がらせでやってるんじゃないの?」
「いやがらせに……ですか?」
と有田。
「確認してみないことには、わかりません。何か根拠があってそう思われますか?」
「だって、……その人の家庭の事情なんて彼も話さないからわからないけど、気が弱そうな女にみえたし、誰を殺すのかなっ……て」
「というと?」
刑事二人は首を捻った。
てっきり、その不倫を巡って夫婦間で口論となり、妻が夫を殺したのだろうと解釈したのだが、違うのだろうか。
そういうと、真希は首を振った。
「だって、彼、今あたしと暮らしているし。そうねえ、一週間ぐらい前からかなあ。もう、家には帰りたくないって。あたし、そのときは奥さんと喧嘩でもしたのかなって思ったんだけど……」
「すると、旦那さんは生きてることになりますね」
「あ、……あったりまえでしょ! 勝手に殺さないでよ!」
「そう、ですか……」
「おかしくなっちゃったんじゃないの、その女」
彼女の最後の一言には、勝ち誇ったような色があった。
妙なことになった。とにかく、まず昨日病院に運ばれたこの女性が、本当に瀬田美代子であるかどうか確認しなくてはならない。
そのようなわけで、二人の刑事は真希に礼を述べると足早に瀬田美代子という女性の自宅へ向かったのだ。
☆
瀬田家は、北新宿にあった。
ごく普通の建て売り住宅一戸建てで、これといって取り立てて特徴はない。
有田が頷き、結城が玄関チャイムを押す。
だがその時、チャイムのボタンを押した刑事は、自分の行為に違和感を感じた。すぐにはその違和感の正体が分からなかった。だが確かに嫌な感じがしたのだ。
インタホン越しに軽やかな鐘の音が鳴り響き、その後しばらく経ってから、のろのろと玄関の扉は開けられた。
「はい……?」
背の低い、小柄の女性が、顔を出す。
「なにか?」
「……」
その――彼女の姿。
彼女の姿は――。
二人は――同時に、言葉を失った。
家から出てきた女は、確かに――病院の女性と、瓜ふたつだったのだ。
そしてその瞬間、刑事は、違和感の正体に気がついた。
――じゃあ、誰なんだ?
ここにこうして、瀬田美代子がいるとすると、病院にいるはずのあの女は誰だというのか。
「あ、あのですね――」
有田が門扉に手を掛けたので、結城はその肩をつかんだ。だって。この同僚は、何とも思わないのだろうか?
少しこけた頬――生気の欠けた顔――筋の浮き出た首――そして虚ろな瞳。
これほど似ているのに。
「え? 結城さん?」
だが、遅れて、有田もそれに気がついたようだった。
「え?」
瀬田美代子が笑った。
唇が、にいと吊り上がる。
ぞくりとした。
――目の、焦点が。
合っていない。
するう、と背中を冷たい何かが滑り落ちてゆく。
彼女の――半月のように歪んだ瞳が、その瞬間どうしてか冥い孔――空洞を感じさせた。薄い唇から、ちろりと白い歯が見える。正しく整然と並んだ歯が見えた。掠れた呼気がその隙間から零れているように思えた。
――あ。まさか、双子――?
咄嗟に思った。
そうだ、そうかもしれない――だが、なぜこれほどその笑顔に冷たいものを感じるというのか。この奇妙な感覚はなんだろうか、と刑事は思った。
本能的な、嫌悪。
違う――恐怖。
そう、怖いのだ。
けれどなぜ怖いとかんじたのか――その理由は、わからなかった。
ただ闇雲に、彼女を見て、そう思ったのだ。
それに。
彼女が瀬田美代子だというのならば。
では、『河上真希』を名乗ったあの女性は、何者なのだろうか?

