勾玉遊戯:過去編1990-2000

05
 
 
 
 その日の夜中。
 三条祐一はじりじりしながら自分以外の家族が寝静まるのを待った。
 祖父の寝室は一階の離れ、両親の寝室は二階――隣の部屋だ。
 祖父は九時前には寝る習慣だったし、両親も一時間前には寝室に入ったのが気配でわかっていた。
 祐一は、なるべく物音をたてないように部屋を出た。


 錠前の鍵は、亡くなった祖母の遺品をおさめてある、祖父の箪笥の一番下の引出しにしまってあった。
 家捜しすることに抵抗が無かったわけでは無いが、罪悪感は捩じ伏せた。
 そんなものより、いまは幼い妹だ。
 祐一は、そう自分に言い聞かせて、それを家の者が帰宅する前に捜し当てておいた。
 鍵は、白い布にくるんであって、だいぶ古く錆もひどかったし、家や車、物置の鍵とは形や雰囲気が違ったから、多分それだと思った。
 間違いない。
 三条は、懐中電灯と、捜し当てた蔵の鍵と思わしき物を手に、蔵の前に立った。
 時計はとっくに零時をまわり、日付を変えている。
 ――『クラヒメ』さまって、なあに?
 そう尋ねたとき、母親が優しい口調で答えてくれたのをおぼろげにだが、覚えている。
 ――おうちを守ってくれる神様よ。
 ――いいひとなの?
 ――ええ、いいひとよ。でも、ご機嫌を悪くすると困るから、蔵には近づいては駄目なのよ。
 ――ふうん。
 祐一も美佳も、聞分けのよい子供だった。親の言うことは素直に信じていて、蔵には近付かないようにしていた。幼心にお伽話染みた戒めを受け入れていたのだ。
 子供の頃は信じていた。
 庭の隅にひっそりと立つ煤けた白壁造りの蔵の中の、澱んだ闇には一体何がいるんだろうと、心躍らせながら想像したこともあったし、雨の日には、その淋しいたたずまいに理由のない恐怖や寂寥感を覚えたこともあった。
 そして時が経つに連れ、祐一は蔵への興味や恐怖を忘れていった。
 忘れていたのだ。
 今年の――一月一日までは。
 だが、いま妹が蔵の中にいる。
 どうしてかはわからない。しかし、きっと幼い妹には、『クラヒメ』様といわれても、妹の中ではいまいち現実味などない話にすぎなかったのだろう。
 だから蔵に近付いた。
 それなのに、家族の態度は異常だと思う。
 常軌を逸している。
 そんないるかどうかもわからない得体の知れない神様が、怖いというのか。
 幼い娘よりも、大事だというのか。
 ――いま、そこから出してやるからな。まってろ、美佳。
 晴れた真冬の夜空が遠い。
 三条の家は庭も広く、古くからの地主の家らしいたたずまいをしていた。その庭の隅に、古びた蔵がある。歳月を感じさせるばかりで、みてくれは何の変哲もない白い漆喰の土蔵である。
 懐中電灯の鈍く黄色い光で照らすと、それは幼い頃の記憶にあるよりさらに、そこだけがくっきりと色褪せて見えた。
 『クラヒメ』様の棲む三条の蔵――。
 観音開きの扉には、錆びた土蔵錠がぶら下がっている。
 この蔵の中に、妹が居る。

       ☆

「――美佳!」
 三条祐一が扉に向かって、呼んだ。「美佳」 すると――。
 ――なあに、おにいちゃん。
 声が――返った。
 その声は確かに、頑丈な漆喰の扉の向こうから、聞こえた。いくらかくぐもってはいたが、それでも祐一にははっきりと聞き取ることができた。
 間違いなく、美佳の声なのだ。
 あの日――美佳がいなくなった日、祐一が聞いた声と、少しも変わらない。
 けれど。
 その、無邪気な声ときたら――背筋に何か冷たいものが触れていくような感覚を覚えて、三条は思わず掌を握りしめた。
 妹はもう十日近くもこの中に閉じ込められているはずである。なのに何でだろう――何でこんなにあどけない声が返るのだろう。
 三条には、怪我や病気に関する詳しい知識はなかったが、それでも、こんなに凍える冬の夜を、幼い子供が蔵の中で何度も越せるものではないのではないかと思う。
 食事だってまるきり採っていないはずなのだ。
 躯を暖めるものだってないはずなのだ。
 おかしい。
 この蔵には、何があるというのか。
「美佳、でておいで!」
 三条は諭した。
 ここ十日ばかり、両親たちの目を盗んで何度も繰り返したことだ。
 けれど、妹の答えは変わらなかった。
 ――なんで? いやだわ。美佳、ここから出たくないのよ、おにいちゃん。
「美佳……」
 恐ろしかった。
 その無邪気な声が今更ながらに恐ろしかった。
 本当に、この扉の向こうにいるのは妹の美佳なのだろうか。
 いや、しかし、美佳でないとしたら?
 鍵を握る手が震える。
「美佳!」
 ――うふふ。
「美佳っ!」
 ――いいの。美佳は、ここでいいの。うふふ。
 可愛らしい笑い声が、密やかに返る。そのあまりの無邪気さが、祐一の背筋にひやりと冷たい金属質の爪を立てる。
 三条は、漆喰の扉に歩み寄った。
 早く扉を開けることだ――皇柚真人はそう言った。
 扉を開けば呪いは終わる。妹を救いたければ――。
「……鍵を開けるよ。いいね」


 ――うふふ。
 ――うふふ。


 がちゃり。
 重い音がして、鍵が開き、錠が外れた。
 扉に手を掛け、力一杯それを引いた。
 ぎぎ、と軋んで、その重い扉が開かれる。
 懐中電灯を傾け、恐る恐る、蔵の中を覗き込む。
 真っ暗だった。懐中電灯の光さえも、その闇に吸い込まれて弱々しい。
 祐一は、自分の足元から蔵の奥へと照らしていった。
「美佳……? おい……?」
 湿った空気と黴の匂い。
 人の気配は無い。
 懐中電灯の黄色い光が、板張りの床を這う。
 視界の隅を、小さな白い物がかすめた。
 照らす。
 それは、足袋を履いた小さな足。
 そう、足がみえた。
 そして鮮やかな着物の裾。
 朱色の晴れ着。
 牡丹の紋様。
 金糸と銀糸。
 山吹色の帯。
 首筋。
 埃の積もった床に広がるさらさらの髪。
「……っ」
 果たして、蔵の中には幼い少女が――否、三条美佳だったものが、横たわって居た。
 正月の、晴れ着に身を包んだままだった。
 動かない。
 ぴくりとも動かない。
 目を薄く閉じた儘。
 息もしていない。
 白い――真っ白い、顔。
 ――ああ。
 蔵の二階へ続く階段のすぐそばに、仰向けになって――妹は――死んでいたのだ。
 死んでいたのだ。
 それに気がついて、足がすくんだ。
 ――どういうこと……だ?
「み……美佳!?」
 蔵の中に足を踏み入れた三条が目にしたもの、それは変わり果てた自身の妹の姿だった。


「美佳っ!?」


 蔵の中には、他には誰もいなかった。 当然のことながら蔵の中に棲むという、『クラヒメ』様の姿も。何も。ただ、黴臭い湿った空気だけが、じっとりとそこに在った。
 ただの蔵だ。
 ただの蔵だった。
 だが、三条は動けなかった。
 何かがおかしい。
 何がおかしいのだろう、とぼんやり思った。そして、ややあって、その違和感に気づいた。
 ――そうだ。
 おかしい。
 ――だって――。
 ごとん、と少年の手から懐中電灯が落ちた。
 美佳じゃない。
 美佳は、死んでる――。
 だって。それじゃ――声は。
 ……誰の声だったんだよ……?


 ――おにいちゃん……。


「う……っ」
 ――誰の声……だったんたよ!?
「うわああああ!」