ステラは、親の顔を知らない
物心ついたときには
すでに壁のひび割れた薄暗い孤児院にいたからだ
自分が人間と獣人とのハーフであることも
幼い頃は全く知らなかった
普段のステラは、普通の子どもと何ら変わらない姿形をしていたからだ
いつもいっしょにいる孤児たちは、皆等しく貧しかった
だから、親がいないという身の上にさえ目をつむれば
ステラは自分のことをそんなに不幸だとは思っていなかった
あの日までは
孤児同士の、些細な食べ物の奪い合いだったか、悪口だったか
理由はもう思い出せない
ただ、激しい怒りと悲しみで感情を抑えきれなくなったステラの中で、何かが弾けた。
気がついた時には、彼女は無意識のうちに
隠されていた獣の目と鋭い爪を、皆の前に晒してしまっていた
その瞬間に、孤児仲間や職員たちの顔に浮かんだ表情を
ステラは今でもはっきりと覚えている
それは、得体の知れないものに対する純粋な恐怖よりも何より
……悍(おぞ)ましい物を見るような、嫌悪と蔑みの目つきだった
「ひっ……!」
誰かが息を呑み、後ずさる音
自分に向けられたその視線の冷たさに
ステラは過敏なほど怯え、自分の手を隠してうずくまった
その時を境に、孤児院はステラにとって
居ていい場所ではなくなった。
もちろん、建前を重んじる職員は誰も
「出て行け」
とは言わなかったし、あからさまに暴力を振るうこともしなかった
だが、常に、心をざわつかせる冷ややかな視線に晒され続けた
腫れ物に触るような距離感
目を合わせようとしない拒否感
その無言の圧力は、暴力よりもずっと深く
容赦なく、ステラの幼い心を切り刻んでいった
自分が、獣人と人間のハーフであること
そして、そういう存在が、この都市で……いや、人間の世界全体において
どれほど底辺の、忌避される存在であるかを知ったのはいつだったろうか
その事実は、人間社会で生きていくにはあまりにも絶望的な足枷だった。
まるで冷たく暗い水底に、重い石を抱いたまま沈んでいくような
息もできないほどの孤独と絶望。
だが、ステラはもがきながらも水面まで浮き上がり
生きるための空気を吸い込んだ。
その時に胸の奥へと入り込んだ空気は、彼女が己の正体を晒して以降
一度も味わったことのない、清浄さと暖かさを帯びていた。
それを与えてくれたのが、彼女を商人見習いとして雇い入れた
ドワーフの商人・バルドだった。
世間では気難しく、偏屈で金にうるさい強欲な商人として知られていた彼が
何故、街角でうずくまっていたステラに手を差し伸べたのか
単なる気まぐれか
それとも、奴隷のように無給でこき使えると計算したのか
詳細は分からない
実際、バルドはステラをぞんざいに扱い
しかも「女は旅の足手まといだ」と言って
彼女の性別を男と偽らせてこき使った
失敗すれば容赦なく罵倒し、硬いげんこつを頭に落とした
それでも、ステラはバルドの元を決して逃げ出さず、居続けた
バルドだけは、ステラが感情を昂らせて
獣の瞳孔を開き、爪を伸ばした姿を見ても
驚きも、恐怖も、あの悍ましいものを見る目も
一切見せなかったからだ
『ボヤボヤするなウスノロ
さっさとその荷を馬車に積め』
顔色一つ変えず、いつものように鼻を鳴らして悪態をついただけだった
その不器用で無骨な態度が
ステラにとってはどれほどの救いだったか。
ステラは、膨らみ始めた胸にきつくさらしの布を巻き
男たちに混じって泥だらけになりながら力仕事もこなした
それはバルドの指示でもあった
本来の自分を偽って生きることに
思うところがないわけではなかった
それでも
自分の真の姿を知ったバルドが
自分を「拒絶しなかった」
その事実だけで、ステラは十分に満たされていたのだ
そうして、ステラはバルドの背中を追い
商人見習いとして新しい道を歩き出した
やがて、ステラの乗る荷馬車の轍は、深いエルフの森へと繋がり――
そこで、かつての自分と同じように
暗い森の底に沈んでいた少女、きな子と出会った
ステラは最初
エルフの集落の端で暮らすきな子を見て
その環境を、自分よりはずっとましだと思っていた
きな子の容姿は
ハーフエルフという目立つ特徴こそあれど
ステラのように感情が高ぶることで
獣の目や鋭い爪が露わになるような
劇的でおぞましい変化を伴うわけではない
何より、あの隙間風の吹き込む冷たい小屋には
きな子を力強く抱きしめてくれる母親がいたからだ
親の顔すら知らない孤児のステラにとって
それは途方もなく羨ましい、絶対的な温もりだった
しかし、何度かこの集落を訪れる内に
その思いは少しずつ黒い憤りへと変わっていった
誇り高きエルフたちの
幼いきな子と病弱な母親に対する
氷のように冷たく残酷な仕打ち
石を投げられ、汚物のように蔑まれる姿を目の当たりにするたび
ステラの胸の奥で獣の血が怒りに沸騰しそうになる
「おい、へたに同情するんじゃねえぞ」
ステラが拳を握りしめ、思わず前へ出ようとするたび
決まってバルドの硬いげんこつが
容赦なくステラの頭に落ちてきた
「半人前のてめえにゃ
あいつらをどうにかできる力なんぞ何にもねえんだ
……自分の立場を弁えろ」
頭をさすりながら睨み返しても
バルドは冷徹な現実を突きつけてくるだけだった
実際、その通りなのだ
一介の商人見習いにすぎないステラに
エルフの村の理不尽な掟を覆す力などあるはずもない
彼女にできることといえば
商人たちの目を盗み
せめてもの慰めに売れ残りの野菜くずや硬いパンを
こっそりときな子の傷だらけの手に
握らせてやることぐらいしかなかった
そうして、どうしようもない無力感を抱えたまま過ぎゆく日々のなかで
――最悪の悲劇は起きた
きな子の母親が冷たい土室で息を引き取り
たった一人残されたきな子がいずこかへ追放された
その無慈悲な事実を、ステラは次の行商で集落を訪れた際に耳にした
「あんな汚らわしい半端者
森で魔物の餌になるのがお似合いだ」
エルフたちは美しい顔で涼しげに笑っていた。
その瞬間、ステラの中で張り詰めていた理性の糸が
ブツンと音を立てて千切れた。
運の悪いことに、その行商の旅に、バルドは同行していなかった
いつもなら強引に自分を殴って止めてくれる
無骨だがやさしい重しがいなかった
抑える者のいなくなった激しい怒りは
彼女の身体と理性を一瞬にして呑み込んだ
気がついた時には、彼女の瞳は縦に割れた肉食獣のそれへと変貌し
両手からは鋭い爪が剥き出しになっていた
怒りに任せてエルフたちに飛びかかろうとしたステラは
しかし、周囲の反応によって完全に凍りついた
取引に来ていた人間の商人も
誇り高いエルフたちも
その場にいた全員が、一歩後ずさり
ステラへと一斉に視線を向けたのだ
それは、孤児院のあの日に見たのと同じ目
恐怖よりも何よりも、汚らしく悍(おぞ)ましい汚物を見るような
絶対的な嫌悪と忌避の視線だった。
「ひっ……! 化け物だ!」
「出て行け! この穢らわしい獣め!」
熱く煮えたぎっていた怒りは
一瞬にして氷のような恐怖と絶望へと反転した
まるで恐ろしい魔物を追い立てるように
容赦なく石や罵声を浴びせられ
ステラは何に対してかも分からない叫び声を上げながら
頭を抱えてエルフの集落から逃げ出した
どこをどう走ったのかも分からない
息が切れ、足がもつれて倒れ込んだ時
ステラは深く暗い森の奥底にいた。
きな子を救えなかった己の無力さと
再び世界から完全に拒絶されたという深く暗い絶望
鋭く切り刻まれた胸の痛みを抱えたまま
ステラはただ一人あてのない森の闇の中を
ふらふらと彷徨い続けた
やがて、時間への感覚はとうに失われ
ステラの意識の中にはすでに、きな子の安否も
己が叩き落とされた絶望的な状況すらも残っていなかった
泥に塗れ、枝に肌を裂かれながらも
重い足を止めなかったのは、彼女自身の強靭な精神力などではない
本音を言えば、ステラ自身でさえ、おぞましいと忌避感を抱いていた
己の半分に流れる獣人の血がもたらす深い生存本能だった
皮肉なことに、彼女を絶望の淵に追いやったその血が
無意識下で彼女の命を無理やり繋ぎ止めていた
そして、彼女が『そこ』へたどり着いたのも
あるいはその野性の本能が導いた結果だったのかもしれない
物心ついたときには
すでに壁のひび割れた薄暗い孤児院にいたからだ
自分が人間と獣人とのハーフであることも
幼い頃は全く知らなかった
普段のステラは、普通の子どもと何ら変わらない姿形をしていたからだ
いつもいっしょにいる孤児たちは、皆等しく貧しかった
だから、親がいないという身の上にさえ目をつむれば
ステラは自分のことをそんなに不幸だとは思っていなかった
あの日までは
孤児同士の、些細な食べ物の奪い合いだったか、悪口だったか
理由はもう思い出せない
ただ、激しい怒りと悲しみで感情を抑えきれなくなったステラの中で、何かが弾けた。
気がついた時には、彼女は無意識のうちに
隠されていた獣の目と鋭い爪を、皆の前に晒してしまっていた
その瞬間に、孤児仲間や職員たちの顔に浮かんだ表情を
ステラは今でもはっきりと覚えている
それは、得体の知れないものに対する純粋な恐怖よりも何より
……悍(おぞ)ましい物を見るような、嫌悪と蔑みの目つきだった
「ひっ……!」
誰かが息を呑み、後ずさる音
自分に向けられたその視線の冷たさに
ステラは過敏なほど怯え、自分の手を隠してうずくまった
その時を境に、孤児院はステラにとって
居ていい場所ではなくなった。
もちろん、建前を重んじる職員は誰も
「出て行け」
とは言わなかったし、あからさまに暴力を振るうこともしなかった
だが、常に、心をざわつかせる冷ややかな視線に晒され続けた
腫れ物に触るような距離感
目を合わせようとしない拒否感
その無言の圧力は、暴力よりもずっと深く
容赦なく、ステラの幼い心を切り刻んでいった
自分が、獣人と人間のハーフであること
そして、そういう存在が、この都市で……いや、人間の世界全体において
どれほど底辺の、忌避される存在であるかを知ったのはいつだったろうか
その事実は、人間社会で生きていくにはあまりにも絶望的な足枷だった。
まるで冷たく暗い水底に、重い石を抱いたまま沈んでいくような
息もできないほどの孤独と絶望。
だが、ステラはもがきながらも水面まで浮き上がり
生きるための空気を吸い込んだ。
その時に胸の奥へと入り込んだ空気は、彼女が己の正体を晒して以降
一度も味わったことのない、清浄さと暖かさを帯びていた。
それを与えてくれたのが、彼女を商人見習いとして雇い入れた
ドワーフの商人・バルドだった。
世間では気難しく、偏屈で金にうるさい強欲な商人として知られていた彼が
何故、街角でうずくまっていたステラに手を差し伸べたのか
単なる気まぐれか
それとも、奴隷のように無給でこき使えると計算したのか
詳細は分からない
実際、バルドはステラをぞんざいに扱い
しかも「女は旅の足手まといだ」と言って
彼女の性別を男と偽らせてこき使った
失敗すれば容赦なく罵倒し、硬いげんこつを頭に落とした
それでも、ステラはバルドの元を決して逃げ出さず、居続けた
バルドだけは、ステラが感情を昂らせて
獣の瞳孔を開き、爪を伸ばした姿を見ても
驚きも、恐怖も、あの悍ましいものを見る目も
一切見せなかったからだ
『ボヤボヤするなウスノロ
さっさとその荷を馬車に積め』
顔色一つ変えず、いつものように鼻を鳴らして悪態をついただけだった
その不器用で無骨な態度が
ステラにとってはどれほどの救いだったか。
ステラは、膨らみ始めた胸にきつくさらしの布を巻き
男たちに混じって泥だらけになりながら力仕事もこなした
それはバルドの指示でもあった
本来の自分を偽って生きることに
思うところがないわけではなかった
それでも
自分の真の姿を知ったバルドが
自分を「拒絶しなかった」
その事実だけで、ステラは十分に満たされていたのだ
そうして、ステラはバルドの背中を追い
商人見習いとして新しい道を歩き出した
やがて、ステラの乗る荷馬車の轍は、深いエルフの森へと繋がり――
そこで、かつての自分と同じように
暗い森の底に沈んでいた少女、きな子と出会った
ステラは最初
エルフの集落の端で暮らすきな子を見て
その環境を、自分よりはずっとましだと思っていた
きな子の容姿は
ハーフエルフという目立つ特徴こそあれど
ステラのように感情が高ぶることで
獣の目や鋭い爪が露わになるような
劇的でおぞましい変化を伴うわけではない
何より、あの隙間風の吹き込む冷たい小屋には
きな子を力強く抱きしめてくれる母親がいたからだ
親の顔すら知らない孤児のステラにとって
それは途方もなく羨ましい、絶対的な温もりだった
しかし、何度かこの集落を訪れる内に
その思いは少しずつ黒い憤りへと変わっていった
誇り高きエルフたちの
幼いきな子と病弱な母親に対する
氷のように冷たく残酷な仕打ち
石を投げられ、汚物のように蔑まれる姿を目の当たりにするたび
ステラの胸の奥で獣の血が怒りに沸騰しそうになる
「おい、へたに同情するんじゃねえぞ」
ステラが拳を握りしめ、思わず前へ出ようとするたび
決まってバルドの硬いげんこつが
容赦なくステラの頭に落ちてきた
「半人前のてめえにゃ
あいつらをどうにかできる力なんぞ何にもねえんだ
……自分の立場を弁えろ」
頭をさすりながら睨み返しても
バルドは冷徹な現実を突きつけてくるだけだった
実際、その通りなのだ
一介の商人見習いにすぎないステラに
エルフの村の理不尽な掟を覆す力などあるはずもない
彼女にできることといえば
商人たちの目を盗み
せめてもの慰めに売れ残りの野菜くずや硬いパンを
こっそりときな子の傷だらけの手に
握らせてやることぐらいしかなかった
そうして、どうしようもない無力感を抱えたまま過ぎゆく日々のなかで
――最悪の悲劇は起きた
きな子の母親が冷たい土室で息を引き取り
たった一人残されたきな子がいずこかへ追放された
その無慈悲な事実を、ステラは次の行商で集落を訪れた際に耳にした
「あんな汚らわしい半端者
森で魔物の餌になるのがお似合いだ」
エルフたちは美しい顔で涼しげに笑っていた。
その瞬間、ステラの中で張り詰めていた理性の糸が
ブツンと音を立てて千切れた。
運の悪いことに、その行商の旅に、バルドは同行していなかった
いつもなら強引に自分を殴って止めてくれる
無骨だがやさしい重しがいなかった
抑える者のいなくなった激しい怒りは
彼女の身体と理性を一瞬にして呑み込んだ
気がついた時には、彼女の瞳は縦に割れた肉食獣のそれへと変貌し
両手からは鋭い爪が剥き出しになっていた
怒りに任せてエルフたちに飛びかかろうとしたステラは
しかし、周囲の反応によって完全に凍りついた
取引に来ていた人間の商人も
誇り高いエルフたちも
その場にいた全員が、一歩後ずさり
ステラへと一斉に視線を向けたのだ
それは、孤児院のあの日に見たのと同じ目
恐怖よりも何よりも、汚らしく悍(おぞ)ましい汚物を見るような
絶対的な嫌悪と忌避の視線だった。
「ひっ……! 化け物だ!」
「出て行け! この穢らわしい獣め!」
熱く煮えたぎっていた怒りは
一瞬にして氷のような恐怖と絶望へと反転した
まるで恐ろしい魔物を追い立てるように
容赦なく石や罵声を浴びせられ
ステラは何に対してかも分からない叫び声を上げながら
頭を抱えてエルフの集落から逃げ出した
どこをどう走ったのかも分からない
息が切れ、足がもつれて倒れ込んだ時
ステラは深く暗い森の奥底にいた。
きな子を救えなかった己の無力さと
再び世界から完全に拒絶されたという深く暗い絶望
鋭く切り刻まれた胸の痛みを抱えたまま
ステラはただ一人あてのない森の闇の中を
ふらふらと彷徨い続けた
やがて、時間への感覚はとうに失われ
ステラの意識の中にはすでに、きな子の安否も
己が叩き落とされた絶望的な状況すらも残っていなかった
泥に塗れ、枝に肌を裂かれながらも
重い足を止めなかったのは、彼女自身の強靭な精神力などではない
本音を言えば、ステラ自身でさえ、おぞましいと忌避感を抱いていた
己の半分に流れる獣人の血がもたらす深い生存本能だった
皮肉なことに、彼女を絶望の淵に追いやったその血が
無意識下で彼女の命を無理やり繋ぎ止めていた
そして、彼女が『そこ』へたどり着いたのも
あるいはその野性の本能が導いた結果だったのかもしれない
