塩の確保という当面の問題も含めて
祥吾の中では根本的な部分は
何一つ解決されていなかった
問題は塩だけではないのだ
この得体の知れない異世界から元の世界へ脱出するにせよ
あるいはこのままここで生きていく腹を決めるにせよ
この安全な屋敷の敷地内にいつまでも引きこもっているわけにはいかない
遅かれ早かれ、この世界の住人との接触は、避けては通れない壁となってきている
(どの町に、どんな方法で接触するか、だが――)
祥吾は腕を組み、深く息を吐き出した
問題は山積みである。
一番の障壁は、やはり「言葉」だ
今、祥吾たちはきな子を先生にして
彼女の故郷の言葉であるエルフ語を習っている
だが、きな子によれば、
エルフの言葉はエルフの集落のみで通じる言語なのだという
集落の境界にやって来ていた人間の商人たちは
互いに共通語と呼ばれる人間の言葉で会話を交わしていたそうだ
考えるに、その共通語こそが
この世界の広い範囲で通用する基盤言語なのだろう
外の世界と接触するには
その共通語のマスターが必要不可欠となる
それだけではない
一般的な社会の仕組み、法律、風習、貨幣の流通
そして魔物や種族間の力関係など
知らなければ命に関わる情報がごまんとある
祥吾は、大きくため息をついて首を振った。
(……焦っても仕方がない
一つずつ、確実な足場を固めて越えていくしかあるまい)
陽気が心地よい昼下がり
縁側に腰を下ろし
一人で鬱々と深い思考の海に沈んでいた祥吾の目の前を
コッコッコ……とリズミカルな鳴き声をあげながらタマたちが横切っていく
タマは祥吾の前でピタリと一瞬立ち止まると、首を傾げ
「家長であるお前は、縁側で何をしているのだ」
とでも言いたげな、痛烈な非難めいた一瞥をくれ
そのまま正門の方へ向かって小走りに駆けていった
今、この屋敷には祥吾と、鶏のタマたち
山羊のハナ、牛のポチたちしかいない
千草ときな子は、愛馬の疾風と巨鳥アズキを護衛に伴い
意気揚々と森へ植物採集に出かけているのだ
祥吾は最後まで難色を示していたのだが
千草の強力な甘えと、きな子の純粋な上目遣い
による見事な挟撃作戦の前になすすべもなく敗北し
留守番を余儀なくされていた
「……なんだ? 俺だってサボってるわけじゃないぞ」
家畜からの冷ややかな視線が妙に気になった祥吾は
縁台から腰を上げると、立てかけてあった軍刀を手に取り
タマたちの後を追って正門へと向かった
タマたちが正門から外へ出て行こうとしている
「おい、お前たち、勝手に結界の外へ出て行くんじゃないぞ
危ないんだからな」
祥吾がそうたしなめながら、正門から外へ顔を出す
そこには――誰もいなかった
深い森の入り口となる木々があるだけだ
だが、軍刀の柄に添えた祥吾の手は
無意識に鯉口を切る構えを解かなかった
タマたちが祥吾の前に進み出て
少し先の薄暗い木々の隙間を鋭く睨みつけながら
「ケコーッ!」と
明らかに異常を知らせる警告の鳴き声を上げたからだ
その鳴き声に含まれるただならぬ緊張感に
祥吾は目を細め、森の奥の気配を探った
ガサッ、バキッ。
微かな、枝を踏み折る鈍い音が聞こえ
それが徐々に大きくなっていく
獣や魔物特有の、獲物を狙うような忍び足ではない
なんの警戒も、隠れる気配もなく
ただただ足を引きずるようにして
何かが真っ直ぐにこちらへ近づいてくる
やがて、鬱蒼とした木々の間からふらりと姿を現したそれは
意外にも魔物ではなく、人間だった
長い髪が泥と汗でぼさぼさに固まって顔を覆っており
表情は全く窺い知れない
衣服もあちこちが破れ、酷い有様だったが
その丸みを帯びた体つきから
成人の女性であることは分かった
「……人間?」
祥吾が目を見張った瞬間
木々の間からふらふらと這い出るようにして進んできた女性は
屋敷の前に立つ祥吾の姿を認めると
すがるようにふらりと手を伸ばし
そのまま糸が切れた操り人形のように
地面へと前のめりに倒れ込んだ
「おい! 大丈夫か!」
祥吾は咄嗟に軍刀から手を離し
倒れた女性の元へと駆け寄った。
土にまみれた肩を抱き起こそうと手をかけると
女性はわずかに顔を上げ、祥吾の姿をその濁った瞳に映した
次の瞬間
「あ、あああ……っ! た、助かった……助かったぁぁっ!」
女性は安堵と歓喜の入り混じった嗚咽を漏らすなり
抱き起こそうとした祥吾の首に両腕を回し
全体重を預けるようにして、力いっぱいすがりつき、抱きついてきたのだ
「お、おい! ちょっ、落ち着け!」
突然の抱擁に慌てふためき
引き剥がそうと祥吾がもがいた
まさにその時だった
「ただいま戻りまし―― えっ!?」
森の反対側から、採集を終えた千草たち一行が帰還してきたのだ
「だ、旦那様!? 危ない!!」
千草は、祥吾に覆い被さっているものに、手にしていた採集物の入った籠を
投げると、これまでに見たこともないような凄まじい形相と猛烈な速度で
祥吾の元へと一直線に駆け出してきた
「ま、待て千草! 違う! こいつは魔物じゃない!」
祥吾は首に抱きつかれたまま、スッと血の気が引いた顔で突進してくる妻に
必死に片手を伸ばし、叫んだ
「人間だ! 人間の、女性だ!!」
――女性
その単語が、千草の耳に届いた瞬間。
千草の瞳から、理性の光がスパーンと消え失せた
「ち、千草!?」
凄まじい踏み込みと共に祥吾の目の前まで迫った千草は
祥吾の首にしがみつく女性の襟首と腕を
迷いなく、そして的確な位置でガシッと掴む
そして、無意識の嫉妬と本能に任せ
幼い頃からの過酷な生き残り生活で培われた
見事な足捌きで腰を深く落とすと――
「ほえっ?」
間の抜けた声を漏らす女性の身体を
祥吾からベリッと引き剥がし
そのままの勢いで鮮やかな一本背負いで投げ飛ばした
「あぁぁぁれぇぇぇぇ……っ」
青空を背景に、美しい弧を描いて回転する女性
(これは、夢! 白日夢なのだ!?)
祥吾の脳内には、恐怖と現実からの逃避の思考が、静かに去来するのだった
祥吾の中では根本的な部分は
何一つ解決されていなかった
問題は塩だけではないのだ
この得体の知れない異世界から元の世界へ脱出するにせよ
あるいはこのままここで生きていく腹を決めるにせよ
この安全な屋敷の敷地内にいつまでも引きこもっているわけにはいかない
遅かれ早かれ、この世界の住人との接触は、避けては通れない壁となってきている
(どの町に、どんな方法で接触するか、だが――)
祥吾は腕を組み、深く息を吐き出した
問題は山積みである。
一番の障壁は、やはり「言葉」だ
今、祥吾たちはきな子を先生にして
彼女の故郷の言葉であるエルフ語を習っている
だが、きな子によれば、
エルフの言葉はエルフの集落のみで通じる言語なのだという
集落の境界にやって来ていた人間の商人たちは
互いに共通語と呼ばれる人間の言葉で会話を交わしていたそうだ
考えるに、その共通語こそが
この世界の広い範囲で通用する基盤言語なのだろう
外の世界と接触するには
その共通語のマスターが必要不可欠となる
それだけではない
一般的な社会の仕組み、法律、風習、貨幣の流通
そして魔物や種族間の力関係など
知らなければ命に関わる情報がごまんとある
祥吾は、大きくため息をついて首を振った。
(……焦っても仕方がない
一つずつ、確実な足場を固めて越えていくしかあるまい)
陽気が心地よい昼下がり
縁側に腰を下ろし
一人で鬱々と深い思考の海に沈んでいた祥吾の目の前を
コッコッコ……とリズミカルな鳴き声をあげながらタマたちが横切っていく
タマは祥吾の前でピタリと一瞬立ち止まると、首を傾げ
「家長であるお前は、縁側で何をしているのだ」
とでも言いたげな、痛烈な非難めいた一瞥をくれ
そのまま正門の方へ向かって小走りに駆けていった
今、この屋敷には祥吾と、鶏のタマたち
山羊のハナ、牛のポチたちしかいない
千草ときな子は、愛馬の疾風と巨鳥アズキを護衛に伴い
意気揚々と森へ植物採集に出かけているのだ
祥吾は最後まで難色を示していたのだが
千草の強力な甘えと、きな子の純粋な上目遣い
による見事な挟撃作戦の前になすすべもなく敗北し
留守番を余儀なくされていた
「……なんだ? 俺だってサボってるわけじゃないぞ」
家畜からの冷ややかな視線が妙に気になった祥吾は
縁台から腰を上げると、立てかけてあった軍刀を手に取り
タマたちの後を追って正門へと向かった
タマたちが正門から外へ出て行こうとしている
「おい、お前たち、勝手に結界の外へ出て行くんじゃないぞ
危ないんだからな」
祥吾がそうたしなめながら、正門から外へ顔を出す
そこには――誰もいなかった
深い森の入り口となる木々があるだけだ
だが、軍刀の柄に添えた祥吾の手は
無意識に鯉口を切る構えを解かなかった
タマたちが祥吾の前に進み出て
少し先の薄暗い木々の隙間を鋭く睨みつけながら
「ケコーッ!」と
明らかに異常を知らせる警告の鳴き声を上げたからだ
その鳴き声に含まれるただならぬ緊張感に
祥吾は目を細め、森の奥の気配を探った
ガサッ、バキッ。
微かな、枝を踏み折る鈍い音が聞こえ
それが徐々に大きくなっていく
獣や魔物特有の、獲物を狙うような忍び足ではない
なんの警戒も、隠れる気配もなく
ただただ足を引きずるようにして
何かが真っ直ぐにこちらへ近づいてくる
やがて、鬱蒼とした木々の間からふらりと姿を現したそれは
意外にも魔物ではなく、人間だった
長い髪が泥と汗でぼさぼさに固まって顔を覆っており
表情は全く窺い知れない
衣服もあちこちが破れ、酷い有様だったが
その丸みを帯びた体つきから
成人の女性であることは分かった
「……人間?」
祥吾が目を見張った瞬間
木々の間からふらふらと這い出るようにして進んできた女性は
屋敷の前に立つ祥吾の姿を認めると
すがるようにふらりと手を伸ばし
そのまま糸が切れた操り人形のように
地面へと前のめりに倒れ込んだ
「おい! 大丈夫か!」
祥吾は咄嗟に軍刀から手を離し
倒れた女性の元へと駆け寄った。
土にまみれた肩を抱き起こそうと手をかけると
女性はわずかに顔を上げ、祥吾の姿をその濁った瞳に映した
次の瞬間
「あ、あああ……っ! た、助かった……助かったぁぁっ!」
女性は安堵と歓喜の入り混じった嗚咽を漏らすなり
抱き起こそうとした祥吾の首に両腕を回し
全体重を預けるようにして、力いっぱいすがりつき、抱きついてきたのだ
「お、おい! ちょっ、落ち着け!」
突然の抱擁に慌てふためき
引き剥がそうと祥吾がもがいた
まさにその時だった
「ただいま戻りまし―― えっ!?」
森の反対側から、採集を終えた千草たち一行が帰還してきたのだ
「だ、旦那様!? 危ない!!」
千草は、祥吾に覆い被さっているものに、手にしていた採集物の入った籠を
投げると、これまでに見たこともないような凄まじい形相と猛烈な速度で
祥吾の元へと一直線に駆け出してきた
「ま、待て千草! 違う! こいつは魔物じゃない!」
祥吾は首に抱きつかれたまま、スッと血の気が引いた顔で突進してくる妻に
必死に片手を伸ばし、叫んだ
「人間だ! 人間の、女性だ!!」
――女性
その単語が、千草の耳に届いた瞬間。
千草の瞳から、理性の光がスパーンと消え失せた
「ち、千草!?」
凄まじい踏み込みと共に祥吾の目の前まで迫った千草は
祥吾の首にしがみつく女性の襟首と腕を
迷いなく、そして的確な位置でガシッと掴む
そして、無意識の嫉妬と本能に任せ
幼い頃からの過酷な生き残り生活で培われた
見事な足捌きで腰を深く落とすと――
「ほえっ?」
間の抜けた声を漏らす女性の身体を
祥吾からベリッと引き剥がし
そのままの勢いで鮮やかな一本背負いで投げ飛ばした
「あぁぁぁれぇぇぇぇ……っ」
青空を背景に、美しい弧を描いて回転する女性
(これは、夢! 白日夢なのだ!?)
祥吾の脳内には、恐怖と現実からの逃避の思考が、静かに去来するのだった
