とある大正新婚夫婦の異世界転移サバイバル!日記 〜動植物学者の父に鍛えられたマイペース妻の知識がチートすぎて、未知の魔境を無双でまったり開拓していきます〜

きな子の、西園寺家での「本当の生活」が始まった
といっても、その日々の営み自体は
昨日までと何ら変わるものではない

変わったのはただ一つ
彼女を包み込む空気が
春の陽だまりのように暖かくなったことだ

朝のまだ空が白み始めたばかりの、ひんやりとした空気の中
千草が布団を抜け出す気配を察すると
きな子もまた、小さな手で眠い目をこすりながら起き出してくる

「まだ寝ていても良いのですよ?」
千草が優しく微笑みかけても
きな子は首を振って、いそいそとその後をついていく

台所から、トトトト……と心地よい包丁の音が響き始める
きな子はまだ、火を使ったり難しい料理をしたりは出来ないが
踏み台に乗って背伸びをしながら
不格好な手つきで野菜を切ったり
小さな指を泥だらけにしてジャガイモの皮を剥いたりと
千草に頼まれた仕事に一生懸命に取り組む

少し手元が危なっかしい時は
千草が背後からそっと手を重ね
優しく補助をしてやった

やがて、湯気を立てる朝餉(あさげ)が膳に並ぶ
同じ食卓を囲み、顔を突き合わせて座る三人
そして、小さな「通訳」

祥吾と千草の交わす何気ない会話
きな子へ向けられる言葉
それらすべてに、神爺の力が介在し
言葉の響きと同時に、思い描いたものが
きな子の頭の中に直接届けられる

完璧な意思疎通ではない
それでも、意味が通じた瞬間に広がるきな子の笑顔が
三人の食卓をこれ以上ないほど明るく照らしていた

朝餉が終わると
たらいに張った水で洗濯板を鳴らし
長い廊下を雑巾で駆け抜け
アズキや疾風の待つ厩舎で餌をやる

昼餉を挟み
午後は明るい日差しの下で三人並んで
畑の草むしりや収穫の汗を流し
薄暗い蔵の風通しや物の点検を行う

夕暮れが近づけば
乾いた洗濯物を取り込み
かまどに火を入れて夕餉の支度
そして、風呂の湯を沸かす

それは、きな子にとって初めて味わう
穏やかで規則正しい当たり前の日々なのだろう

言葉の習得は、
昼下がりや夕餉の後の
ゆったりとした空き時間を使って行われた

車座になり
神爺が真ん中に座る
きな子が伝えたい「物」や「思い」を頭に強く思い浮かべ
それを彼女の故郷の言葉で口にする

神爺の力を通じてその「かたち」を受け取った祥吾と千草が
きな子の口にした言葉を復唱する。
また、祥吾たちが頭に思い浮かべたものを
きな子が「かたち」として受け取り
彼女の言葉で口にし
それを祥吾たちが復唱する

それはまるで、互いの魂の形を少しずつ確かめ合い
パズルのピースを繋ぎ合わせていくような
もどかしいが愛おしい時間だった

その学習のいちばん最初
きな子が目をきゅっと瞑り
小さな胸の奥から一番初めに掬い上げ
祥吾たちの脳裏へと懸命に送り届けてきたのは
深い感謝の念に満ちた
『ありがとう』の感情だった。

そして、次に彼女が思い浮かべたもの
いや、それは願いに近いものだった

『――ここに、いていいの?』

真っ直ぐに胸を打つその痛切な問いかけに
祥吾と千草は、こみ上げてくる涙を押しとどめながら
力強く、何度も深く頷き返した

きな子が、この屋敷にいて良い「理由」
そんなものは、本当は必要ない
家族が共に暮らすのに、理由や条件などいるはずがないのだから

だが、「不要な存在」として虐げられ続けてきたきな子には
心の拠り所となる明確な理由が、まだどうしても必要なのだろう

(いつか必ず、こんなふうに『理由』を探していた日々を
 みんなで笑って振り返る日が来る。……それまでは)

祥吾は、彼女の心が折れてしまわないよう
きな子にとって「自分が役に立っている」と
実感できる立派な仕事を用意することにした

ひとつは、千草の採集物の記録係である。
突出した能力を持つ学者肌の千草だが
その絵心はと言えば「壊滅的」の一言に尽きる
その千草の代わりに、持ち帰った植物の細密画を描き残すという重要な役目

そしてもうひとつは
祥吾が進めている「この世界の地図の作成」だった。

どちらの仕事も、必然的に屋敷の外へと出かける必要があった
しかし、外の世界の風に触れることは
きな子の心を解きほぐす良い気晴らしになるだろうと
祥吾は考えていた。

もっとも、その千草の「採集活動」については
祥吾としては大きな悩みの種であった。
見知らぬ魔獣や危険が潜んでいるかもしれない外の世界に
大切な妻を関わらせたくはなかったのだ。

しかし――。

「旦那様。きな子のためにも、どうかお願いできませんでしょうか?」
上目遣いで袖をきゅっと掴む「強力な甘え」と
絶対に引かないという「無言の圧力」を見事に織り交ぜた千草の要望に
祥吾の決意はあっけなく瓦解した。

結局、愛馬の疾風とアズキを必ず伴うという絶対条件で
渋々外出を認めることとなった。

青空が広がる庭先
お出かけの準備を整え、少しだけ嬉しそうに目を輝かせるきな子と
やる気に満ちた千草を前に、祥吾は念を押すように口うるさく言った。

「いいか千草。危ない目に遭いそうになったら、すぐに疾風に乗って逃げるのだぞ」
「はい、分かっております」
「きな子にも、十分気を配ってやってくれ」
「ええ。……いざとなれば
 きな子だけでも疾風に乗せて逃がしますわ」

千草は、まるで我が子を守る母のように
柔らかい顔の中に凛とした覚悟を滲ませてそう言った。

「そ、それはだめだ! きな子はもちろん大事だが
 千草も絶対に一緒に逃げないと!」
慌てて窘(たしな)める祥吾に
千草はふわりと優しく微笑んだ。
「わかりました。善処いたします」

(……絶対に、善処する気なんてない顔だ)

すんなりと受け入れたように見せて
いざという時は自分の命を盾にする気満々の妻の様子に
祥吾は「これ以上言っても無駄だ」という諦めの気持ちで
深く、大きなため息をついた。

仕方なく、祥吾は千草の背後に控える二頭の頼れる獣たちへと視線を移した。
(疾風、アズキ、お前たちだけが頼りだ)

祈るような祥吾の視線を受け止めた疾風は「ブルルッ」と力強く鼻を鳴らし
アズキは「任せておけ」とばかりに巨大な嘴を「グルル」と軽く鳴らして
二頭揃って頼もしく、強く頷いてみせるのだった。