02
司とて、柚真人が何も言わないのなら、黙っているべきなんだろうなあ、とは思っていたのだ。
あれから二か月、毎日比較的穏やかに日々を送ることも出来ている。
でも。
「ねえ柚真人」
桜の蕾が日に日に膨らむのを見ているうちに、自分もなんだか耐えきれなくなって、司は兄に向けてしまった。
柚真人は、夜になって、その日の仕事を全部終え、入浴兼沐浴を終えてから着替えて居間にやってきたところだった。額に落ちかかっている前髪が、まだ少し湿っているようで艶やかだ。
「なんだ?」
非時香菓――を食べてしまってから、柚真人は穏やかに司に接してくれている。
司の記憶にある――十五、六歳になる頃までの兄は、司のせいもあっていつも気を張っていたし、司にも厳しかった。だがあれはいろいろな意味で司を守るためであったのだ、と今は司もわかっている。
今現在の兄は、容姿はともかく中身は他のいとこたちと同じ年齢だと考えると、大人としての余裕とか、落ち着きとか、そういったものも備えているのだろう。
「あのね」
正面から何だと言われると、自分のこのもやっとした気持ちをどう伝えるべきかなあと司は考えた。
「あの――さ。私、これから、少なくとも一年はここに戻ってこれなくなるわけでしょ」
「……? ぁあ、まあ、そうだが」
「それって、……うーんとね…………えーと……………………柚真人は、べつに、なんともおもわない……よ、ね」
「……?」
司は柚真人を見返した。
沐浴あがりで、白い単衣の着物をひっかけただけ、みたいな兄は、ややきょとんとしていた。司の質問が想定外だったというような。
「私は…………ちょっと、寂しいなあと思ってて。……そういうふうに思うのは、私だけ……なのかな」
「……」
柚真人は少し考えたようだった。
そうして、軽く腕組みしながらいった。
「つったっておまえ、これから先は何十年も行方不明になるわけじゃなし。お前がそうなってた間、俺がいったいどんな気持ちだったと思ってる。それに比べりゃ、居場所も、何をしているかもわかってるんだ。それに、桜んとこなら安全も保障されてる。多少キツいだろうが、あいつならちゃんと指導はしてくれる」
「……」
柚真人のいうことは、まあ、確かにもっともだった。
でも、そういうことじゃあないんだけどなあ、とも司は内心でちょっとの不満を噛み締めた。
特に、ここへ戻ってきてから、柚真人は司に優しくなった。いやもともと優しくはあったのだけれどそれが表にはっきり優しいという感じで出るようになった。
引き換えに、頑なに一線踏み越えようとはしないのだけれど、司にしてみれば、だから余計に、胸に募るものがあるのだ。
いまさら、こんな人だったんだ、と思うような表情や仕草を、しかも少しばかり大人になった容貌込みで見せられて、自分の中にも今までとは違ったかたちの知らない気持ちが育つ感覚もあった。
焼き尽くされてぼろぼろだなあ――と感じていたはずの、自分の柚真人に対する焦土のような気持ちの奥で、何かが息を吹き返しつつあるような――それは、そんな感覚だった。
「……それが、たとえば何年かかるようなことになっても――私、ここに帰ってきていいんだよね?」
司は、そんなふうにも言ってみた。
なぜなら――。
自分たちは、兄妹だ。たとえ、在れる限りはずっと共に在るとしても、兄と妹。
だとすると、もしかすると、柚真人の方は、ここにいわゆる伴侶として妹とは違う誰かを迎え入れることも、あるのかもしれない。そんなことにも司は思い至ってしまったりしたのだった――つい、最近。
兄妹でいいから、それでも兄をひとりにしたくない、この人が自分に傾けてくれたものに報いたい、と司は願った。
けれど、どうしたって気持ちのかたちが違うので、自分では柚真人のように自分に上手くいいきかせることが難しい。
司自身は、そういう可能性を考えずにいられなかったり、考えてどこかでいやだな、と思ってしまうのだ。
柚真人のように、相手のため、禁忌だからといって、強く自分を律して割り切ることが、まだできない。
「……あたりまえだろう」
柚真人はそう言ってくれるけれど。
「……うん……」
欲しい答えは少し違った。
でも、だからといって、どうしたらいいのか――わからない。
――ここに、帰ってきていいのか? だと?
寝間着姿で、すこし不安かつ不満そうな顔をしている妹に対して。
――まったく。
限界が試されるな――と柚真人は考えていた。
だいたい、ここは司の実家だ。それに、そもそもは司がずっと一緒にいるといってあんな無茶をしでかしたはず。なので、なのにどうして帰ってきていいのかと司が急に聞いてくるのか、問われた柚真人には意味が伝わらなかった。
司がなにか不安に思うことがあるんだろうということは感じ取れたが。
あたりまえだと答えてやっても、妹の表情は冴えない。
やはり、いかにこの自分が信用を保証するとはいえ、何が待っているかわからない他社に住み込み修行として出向くというのが怖くはあるんだろうが――などということを柚真人が頭にめぐらせていたとき。
「…………あの。さ。……私が、ずっと柚真人のこと、今の気持ちで、好きなままでも? いいんだよね?」
「?」
「それでも、私の帰るところは、……ある? よね?」
「――」
ああ、という思いと、ええ、という思いと。
その両方を感じて、柚真人は目をちょっと瞠った。
「おまえ……」
もしかして、と思った。
もしかして司は、やや誤解を始めているのだろうか。
司のことを想えばこそ、柚真人は、司を妹として扱うと決めた。その方が、きっと大事に、優しくしてやれる、と思って。
だが、そうやって司に接しているうちに、司は、自分の気持ちのかたち、在り方までこちらから否定されていると感じてしまったのかも――しれない。
司の態度を、柚真人はそんなふうに汲み取った。
まあ、お前は俺の妹だ、と司に何度となく言い切っているのだから、それは当たり前といえば当たり前でもあったかもしれないが。
その誤解を、解こうと思えば速やかに解く方法は、なくはない。
いや、というよりも、むしろ常に柚真人の頭の中にはあった。
でも、そうするには問題もあるのだ。それこそ、多くの問題が。
ゆえに柚真人はそこで己をせき止めることを選んでおり、司はといえば、そのことをおそらくわかっていない。
「……大丈夫だよ。どれだけだって待っているから、ちゃんとここに帰ってこい。そのためにお前を預けるんだし、お前はうちの社の巫女なんだから」
その時の柚真人に返せるのは、それがせいぜいだった。
自分の中にあるのは、妹への家族愛と、兄としての庇護感情と、焦がれるほどの恋情と、それに伴う欲情と、前世から引き継がれた思慕。相反しながら複雑に混ざり合うものが、柚真人を縛る。
そのまま、柚真人は少し司と距離をとり、その場でそれとなく司に背中を向けた。実のところ、司がここに戻ってきてから今までの間にも、どれほどそうやって自分が司との距離の取り方に気を使っていたかしれなかった。
さらには今、司と向き合っていて、これ以上は、危ない境界線にさしかかる、と柚真人は判断したのだ。
ついでに、このへんで、話を切り上げてもらえないだろうかとも思う。ところが――。
「あの。……じゃあ、少し、……ちょっとだけ、柚真人に、さわってもいい?」
「……」
「柚真人はそのままでいいの。ただ、……少しだけ。……むかし、みたいに」
むかし。
司がいうのは、たぶん子供の頃のことだろう。
皇の社で、司と柚真人の両親が亡くなった。その事件のことについて、今の司は記憶を喪失している。そしてその時を境に、柚真人と司の関係は変わっているわけだが、それでもなお子供のころと言える時代には、仲良く一緒にすごした時期もある。触れていいかと訊く司が求めるのは、――そう、あくまでもそんな触れ合い方なのだ。
《《だから》》、柚真人は。
「……つかさ。……そのまま、俺から、離れろ」
それはムリだ、と拒絶した。というよりも、今振り向いたら、自分がどうなるかもわからない。
触れたい、なんて司の方から言われるのはさすがに予想外で。その意味が司と柚真人とでは違いすぎるとしても、だ。
なのに。
「――どうして?」
そんな声を聞かされては、さらに突き放すこともできない。
この声。あとちょっとでたぶん、司は泣く。
なんで、だ、よ。
ああ、もう。
しょうがないな、俺も弱い。そう思いつつ、歯を食いしばって振り向くと、離れろと言ったのにさっきからそのままの距離に司がいた。
そのための動揺で少し体を硬くしたのを極力悟られぬよう押し隠し、柚真人は、困った顔を向けるしかない。
なるべく、その表情だけで伝わるように。
「司。……頼むから、聞き分けてくれ」
「――」
「俺は、変わった。昔のようには、もう、お前に触れられないよ」
「――」
「お前だって、わかってるはずだろう?」
できれば、抑え込もうとしていることだから、もう、蒸し返して伝えることも避けたかった。
の、だが。
「――……わかっているけど………………それなら、それでも……私は、大丈夫なんだけど……」
「っ」
見返す司の瞳がはっきり潤んでいるな、と思った。
それから、大丈夫、なんて、簡単にいうものじゃないんだがな、とも。
大丈夫なわけがない。
どうすれば自分のこの心情と判断とを彼女に伝えられるだろう、と柚真人は、思考を巡らせる。そして、
「わかってない。……お前には……………………きっと、耐えられない」
とうとう――ならばある程度は、正直に告白するしかないかと吐いた。
自分はそんなに強くない。弱さから逃げているところもあるし、どう考えても司には理解できていないことがある。なによりも、自分はまずなによりも彼女を傷つけたくないのだ。
「耐えさせるつもりもないから、俺は、駄目だといってる」
「…………耐えられない、って、なに。どうして、決めるの?」
「どうって……そこに議論の余地はないよ。……それでも、お前の居場所はここにある。だから、そこは安心していいんだ、司」
「……柚真人のことで、耐えられない、なんてこと、ないよ。私には。……たぶん、だけど」
だからそのたぶんが問題だと言っているのに、と内心舌打ちしたくなる柚真人である。
かつてはその苛々をそのまま妹にぶちまけ返してしまい、後悔した。今は、諭すくらいの余裕と冷静さは保てる。
「お前がそういったとしても。……俺とお前の触れたい、には差がありすぎる」
「……」
「その差を、俺は言うんだよ。…………ただ、道を外れるだけじゃない。一度でもそうなってしまったら、俺はきっともう兄としてでは止まれない。そうしたら俺は、お前にお前の知らない顔も見せなきゃならない。……覚えているんだろう、俺がお前に言ったこと」
「…………」
「それに、……お前は、まだ、未成年だ」
そう言えばさすがに自分が含めることがわかってもらえるだろう、と思った。
けれども、こちらはもうだいぶ苦しい顔をしているのに、司の答えは、
「今の柚真人からしたら、私はこども……っていうこと?」
「……」
「たしかに、……歳は16だし、未成年だけど……そういう意味だったら、この身体って、もう成長しないよね?」
「!」
「それに、私は柚真人とずっと、この先ずーっと、一緒にいるって決めて、そうしたの。だから……未成年、っていうのは……意味ある?」
「……」
「それは、この先、どれだけ経っても、変わらないんじゃないかと思うんだけど」
どうやら逆に目が出た。
こういう時だけ、司は、妙に生真面目に誠実な物言いをしてくる。
「……確かめてくれればいいのに」
「…………お前、いいのに、とか簡単にいうな。そうしたら、戻れないんだぞ。なかったことには出来ない。お互いに、この先、永遠にも等しい時間があるのに。もし、お前が耐えられなかったら――」
ぐ、と柚真人はその先を飲み込んだ。
それから、少し言葉の先を変える。
「だとしても、もっと時間をかけたっていいだろう。お前が、俺とともにある道を選んだ以上、先は長い。うなるほど時間はある。なにより、こんな……勢いで、お前に後悔をさせるわけにはいかない」
「……」
「それに、繰り返すが今の俺は人でもない。お前は巫女で、巫女には御霊の清浄さが不可欠だ。そういう意味でも、そうやすやすとはお前に触れられない。もし、ほんの少しでもお前に拒否や嫌悪の意が生じたら、それは穢れとなりお前を巫女でなくしてしまう。……間違えることはできない。それも言ったはずだな」
少し、長い沈黙があった。
さすがに司もきちんと受け止めざるを得ないだろう。
しかし司もなお、
「拒否なんて、しないよ」
「そう言えるのは、お前が見ているのが、お前の兄だからだよ。お前は、俺の、欲を知らない」
「――」
「でもそれでいいんだ。俺は、そういう、お前の知らない俺自身からもお前を守る必要があるし、守りたい。兄として」
「――」
「俺は。お前の兄でない俺は。…………いいか。強欲で手がつけられない。俺はお前の、なにもかもが欲しいし、お前に誰よりも愛されたい。欲は深いし、際限もない。それを表に出して見せて、お前に耐えられないと言われるのは、俺だって怖い」
「あの」
「なんだ」
「あのさ。……それじゃ、柚真人がそういうのは……私が妹だから、じゃなくてなの?」
「……」
「妹だから、じゃなくて。私が、そういう……柚真人のことを、受け入れられないと思ってるから? ってこと?」
「……」
「あの。なら。ならね、………………柚真人は、その……私も同じことを考えるとは思わないの?」
「――」
「それじゃあ、いつまで待っても無駄ってことだよね? だけど……私だって、その…………ゆ……柚真人のこと、好き、だから…………柚真人に、他の誰かを好きになったりして欲しくないし、やきもちだってやくし、もっと、ちゃんと、柚真人のこと、知りたいよ。柚真人が、教えてくれるなら、だけど……その、柚真人が、知られたくないとかって、思うことも。全部。……それは、考えてみてはくれないの?」
真率きわまりない妹の眼差しを見返して。
このままでは通じなさそうだな、と思った。
それとも、そう思うことが逃げなのか。
わからない。ただ、もう、限界だ。己が耐えることがではなく、彼女にそういうことを思わせるのも言わせるのもそんな顔をさせるのもこんな声を聞くのも。
もちろん、これは、試す、わけにはいかないことだ。手を出した瞬間に、戻れない不可逆なことになる。
だから、そうなるくらいなら、封殺しようとしていたのだ。
司の言うことは正しい。妹だから、ではない。もはや。いや、ないわけでもないが、妹だからであると同時に、司そのものが大事だからだ。
けれども。
「――司。じゃあ」
柚真人は手を伸ばして――くしゃ、と司の前髪に触れた。こどもの頃、そうやって頭をなでたように。
そうして、
「これで足りるなら、もう休め。そうで――なければ」
言いながら、司の隣に並んで立つと、足を止めた。
「お前がそこまで言うのなら、……ついてこい」
これは、司に、置かれている状況をきちんと認識させるための宣告。
言ったら、あとは振り返らずに歩き出す。廊下へ出ると、背後の司には、
「気が変わったなら、俺が振り向く前に距離をとって、自分の部屋に戻れ。……俺は、追いかけたりしないから」
そうもつけ足して。
司とて、柚真人が何も言わないのなら、黙っているべきなんだろうなあ、とは思っていたのだ。
あれから二か月、毎日比較的穏やかに日々を送ることも出来ている。
でも。
「ねえ柚真人」
桜の蕾が日に日に膨らむのを見ているうちに、自分もなんだか耐えきれなくなって、司は兄に向けてしまった。
柚真人は、夜になって、その日の仕事を全部終え、入浴兼沐浴を終えてから着替えて居間にやってきたところだった。額に落ちかかっている前髪が、まだ少し湿っているようで艶やかだ。
「なんだ?」
非時香菓――を食べてしまってから、柚真人は穏やかに司に接してくれている。
司の記憶にある――十五、六歳になる頃までの兄は、司のせいもあっていつも気を張っていたし、司にも厳しかった。だがあれはいろいろな意味で司を守るためであったのだ、と今は司もわかっている。
今現在の兄は、容姿はともかく中身は他のいとこたちと同じ年齢だと考えると、大人としての余裕とか、落ち着きとか、そういったものも備えているのだろう。
「あのね」
正面から何だと言われると、自分のこのもやっとした気持ちをどう伝えるべきかなあと司は考えた。
「あの――さ。私、これから、少なくとも一年はここに戻ってこれなくなるわけでしょ」
「……? ぁあ、まあ、そうだが」
「それって、……うーんとね…………えーと……………………柚真人は、べつに、なんともおもわない……よ、ね」
「……?」
司は柚真人を見返した。
沐浴あがりで、白い単衣の着物をひっかけただけ、みたいな兄は、ややきょとんとしていた。司の質問が想定外だったというような。
「私は…………ちょっと、寂しいなあと思ってて。……そういうふうに思うのは、私だけ……なのかな」
「……」
柚真人は少し考えたようだった。
そうして、軽く腕組みしながらいった。
「つったっておまえ、これから先は何十年も行方不明になるわけじゃなし。お前がそうなってた間、俺がいったいどんな気持ちだったと思ってる。それに比べりゃ、居場所も、何をしているかもわかってるんだ。それに、桜んとこなら安全も保障されてる。多少キツいだろうが、あいつならちゃんと指導はしてくれる」
「……」
柚真人のいうことは、まあ、確かにもっともだった。
でも、そういうことじゃあないんだけどなあ、とも司は内心でちょっとの不満を噛み締めた。
特に、ここへ戻ってきてから、柚真人は司に優しくなった。いやもともと優しくはあったのだけれどそれが表にはっきり優しいという感じで出るようになった。
引き換えに、頑なに一線踏み越えようとはしないのだけれど、司にしてみれば、だから余計に、胸に募るものがあるのだ。
いまさら、こんな人だったんだ、と思うような表情や仕草を、しかも少しばかり大人になった容貌込みで見せられて、自分の中にも今までとは違ったかたちの知らない気持ちが育つ感覚もあった。
焼き尽くされてぼろぼろだなあ――と感じていたはずの、自分の柚真人に対する焦土のような気持ちの奥で、何かが息を吹き返しつつあるような――それは、そんな感覚だった。
「……それが、たとえば何年かかるようなことになっても――私、ここに帰ってきていいんだよね?」
司は、そんなふうにも言ってみた。
なぜなら――。
自分たちは、兄妹だ。たとえ、在れる限りはずっと共に在るとしても、兄と妹。
だとすると、もしかすると、柚真人の方は、ここにいわゆる伴侶として妹とは違う誰かを迎え入れることも、あるのかもしれない。そんなことにも司は思い至ってしまったりしたのだった――つい、最近。
兄妹でいいから、それでも兄をひとりにしたくない、この人が自分に傾けてくれたものに報いたい、と司は願った。
けれど、どうしたって気持ちのかたちが違うので、自分では柚真人のように自分に上手くいいきかせることが難しい。
司自身は、そういう可能性を考えずにいられなかったり、考えてどこかでいやだな、と思ってしまうのだ。
柚真人のように、相手のため、禁忌だからといって、強く自分を律して割り切ることが、まだできない。
「……あたりまえだろう」
柚真人はそう言ってくれるけれど。
「……うん……」
欲しい答えは少し違った。
でも、だからといって、どうしたらいいのか――わからない。
――ここに、帰ってきていいのか? だと?
寝間着姿で、すこし不安かつ不満そうな顔をしている妹に対して。
――まったく。
限界が試されるな――と柚真人は考えていた。
だいたい、ここは司の実家だ。それに、そもそもは司がずっと一緒にいるといってあんな無茶をしでかしたはず。なので、なのにどうして帰ってきていいのかと司が急に聞いてくるのか、問われた柚真人には意味が伝わらなかった。
司がなにか不安に思うことがあるんだろうということは感じ取れたが。
あたりまえだと答えてやっても、妹の表情は冴えない。
やはり、いかにこの自分が信用を保証するとはいえ、何が待っているかわからない他社に住み込み修行として出向くというのが怖くはあるんだろうが――などということを柚真人が頭にめぐらせていたとき。
「…………あの。さ。……私が、ずっと柚真人のこと、今の気持ちで、好きなままでも? いいんだよね?」
「?」
「それでも、私の帰るところは、……ある? よね?」
「――」
ああ、という思いと、ええ、という思いと。
その両方を感じて、柚真人は目をちょっと瞠った。
「おまえ……」
もしかして、と思った。
もしかして司は、やや誤解を始めているのだろうか。
司のことを想えばこそ、柚真人は、司を妹として扱うと決めた。その方が、きっと大事に、優しくしてやれる、と思って。
だが、そうやって司に接しているうちに、司は、自分の気持ちのかたち、在り方までこちらから否定されていると感じてしまったのかも――しれない。
司の態度を、柚真人はそんなふうに汲み取った。
まあ、お前は俺の妹だ、と司に何度となく言い切っているのだから、それは当たり前といえば当たり前でもあったかもしれないが。
その誤解を、解こうと思えば速やかに解く方法は、なくはない。
いや、というよりも、むしろ常に柚真人の頭の中にはあった。
でも、そうするには問題もあるのだ。それこそ、多くの問題が。
ゆえに柚真人はそこで己をせき止めることを選んでおり、司はといえば、そのことをおそらくわかっていない。
「……大丈夫だよ。どれだけだって待っているから、ちゃんとここに帰ってこい。そのためにお前を預けるんだし、お前はうちの社の巫女なんだから」
その時の柚真人に返せるのは、それがせいぜいだった。
自分の中にあるのは、妹への家族愛と、兄としての庇護感情と、焦がれるほどの恋情と、それに伴う欲情と、前世から引き継がれた思慕。相反しながら複雑に混ざり合うものが、柚真人を縛る。
そのまま、柚真人は少し司と距離をとり、その場でそれとなく司に背中を向けた。実のところ、司がここに戻ってきてから今までの間にも、どれほどそうやって自分が司との距離の取り方に気を使っていたかしれなかった。
さらには今、司と向き合っていて、これ以上は、危ない境界線にさしかかる、と柚真人は判断したのだ。
ついでに、このへんで、話を切り上げてもらえないだろうかとも思う。ところが――。
「あの。……じゃあ、少し、……ちょっとだけ、柚真人に、さわってもいい?」
「……」
「柚真人はそのままでいいの。ただ、……少しだけ。……むかし、みたいに」
むかし。
司がいうのは、たぶん子供の頃のことだろう。
皇の社で、司と柚真人の両親が亡くなった。その事件のことについて、今の司は記憶を喪失している。そしてその時を境に、柚真人と司の関係は変わっているわけだが、それでもなお子供のころと言える時代には、仲良く一緒にすごした時期もある。触れていいかと訊く司が求めるのは、――そう、あくまでもそんな触れ合い方なのだ。
《《だから》》、柚真人は。
「……つかさ。……そのまま、俺から、離れろ」
それはムリだ、と拒絶した。というよりも、今振り向いたら、自分がどうなるかもわからない。
触れたい、なんて司の方から言われるのはさすがに予想外で。その意味が司と柚真人とでは違いすぎるとしても、だ。
なのに。
「――どうして?」
そんな声を聞かされては、さらに突き放すこともできない。
この声。あとちょっとでたぶん、司は泣く。
なんで、だ、よ。
ああ、もう。
しょうがないな、俺も弱い。そう思いつつ、歯を食いしばって振り向くと、離れろと言ったのにさっきからそのままの距離に司がいた。
そのための動揺で少し体を硬くしたのを極力悟られぬよう押し隠し、柚真人は、困った顔を向けるしかない。
なるべく、その表情だけで伝わるように。
「司。……頼むから、聞き分けてくれ」
「――」
「俺は、変わった。昔のようには、もう、お前に触れられないよ」
「――」
「お前だって、わかってるはずだろう?」
できれば、抑え込もうとしていることだから、もう、蒸し返して伝えることも避けたかった。
の、だが。
「――……わかっているけど………………それなら、それでも……私は、大丈夫なんだけど……」
「っ」
見返す司の瞳がはっきり潤んでいるな、と思った。
それから、大丈夫、なんて、簡単にいうものじゃないんだがな、とも。
大丈夫なわけがない。
どうすれば自分のこの心情と判断とを彼女に伝えられるだろう、と柚真人は、思考を巡らせる。そして、
「わかってない。……お前には……………………きっと、耐えられない」
とうとう――ならばある程度は、正直に告白するしかないかと吐いた。
自分はそんなに強くない。弱さから逃げているところもあるし、どう考えても司には理解できていないことがある。なによりも、自分はまずなによりも彼女を傷つけたくないのだ。
「耐えさせるつもりもないから、俺は、駄目だといってる」
「…………耐えられない、って、なに。どうして、決めるの?」
「どうって……そこに議論の余地はないよ。……それでも、お前の居場所はここにある。だから、そこは安心していいんだ、司」
「……柚真人のことで、耐えられない、なんてこと、ないよ。私には。……たぶん、だけど」
だからそのたぶんが問題だと言っているのに、と内心舌打ちしたくなる柚真人である。
かつてはその苛々をそのまま妹にぶちまけ返してしまい、後悔した。今は、諭すくらいの余裕と冷静さは保てる。
「お前がそういったとしても。……俺とお前の触れたい、には差がありすぎる」
「……」
「その差を、俺は言うんだよ。…………ただ、道を外れるだけじゃない。一度でもそうなってしまったら、俺はきっともう兄としてでは止まれない。そうしたら俺は、お前にお前の知らない顔も見せなきゃならない。……覚えているんだろう、俺がお前に言ったこと」
「…………」
「それに、……お前は、まだ、未成年だ」
そう言えばさすがに自分が含めることがわかってもらえるだろう、と思った。
けれども、こちらはもうだいぶ苦しい顔をしているのに、司の答えは、
「今の柚真人からしたら、私はこども……っていうこと?」
「……」
「たしかに、……歳は16だし、未成年だけど……そういう意味だったら、この身体って、もう成長しないよね?」
「!」
「それに、私は柚真人とずっと、この先ずーっと、一緒にいるって決めて、そうしたの。だから……未成年、っていうのは……意味ある?」
「……」
「それは、この先、どれだけ経っても、変わらないんじゃないかと思うんだけど」
どうやら逆に目が出た。
こういう時だけ、司は、妙に生真面目に誠実な物言いをしてくる。
「……確かめてくれればいいのに」
「…………お前、いいのに、とか簡単にいうな。そうしたら、戻れないんだぞ。なかったことには出来ない。お互いに、この先、永遠にも等しい時間があるのに。もし、お前が耐えられなかったら――」
ぐ、と柚真人はその先を飲み込んだ。
それから、少し言葉の先を変える。
「だとしても、もっと時間をかけたっていいだろう。お前が、俺とともにある道を選んだ以上、先は長い。うなるほど時間はある。なにより、こんな……勢いで、お前に後悔をさせるわけにはいかない」
「……」
「それに、繰り返すが今の俺は人でもない。お前は巫女で、巫女には御霊の清浄さが不可欠だ。そういう意味でも、そうやすやすとはお前に触れられない。もし、ほんの少しでもお前に拒否や嫌悪の意が生じたら、それは穢れとなりお前を巫女でなくしてしまう。……間違えることはできない。それも言ったはずだな」
少し、長い沈黙があった。
さすがに司もきちんと受け止めざるを得ないだろう。
しかし司もなお、
「拒否なんて、しないよ」
「そう言えるのは、お前が見ているのが、お前の兄だからだよ。お前は、俺の、欲を知らない」
「――」
「でもそれでいいんだ。俺は、そういう、お前の知らない俺自身からもお前を守る必要があるし、守りたい。兄として」
「――」
「俺は。お前の兄でない俺は。…………いいか。強欲で手がつけられない。俺はお前の、なにもかもが欲しいし、お前に誰よりも愛されたい。欲は深いし、際限もない。それを表に出して見せて、お前に耐えられないと言われるのは、俺だって怖い」
「あの」
「なんだ」
「あのさ。……それじゃ、柚真人がそういうのは……私が妹だから、じゃなくてなの?」
「……」
「妹だから、じゃなくて。私が、そういう……柚真人のことを、受け入れられないと思ってるから? ってこと?」
「……」
「あの。なら。ならね、………………柚真人は、その……私も同じことを考えるとは思わないの?」
「――」
「それじゃあ、いつまで待っても無駄ってことだよね? だけど……私だって、その…………ゆ……柚真人のこと、好き、だから…………柚真人に、他の誰かを好きになったりして欲しくないし、やきもちだってやくし、もっと、ちゃんと、柚真人のこと、知りたいよ。柚真人が、教えてくれるなら、だけど……その、柚真人が、知られたくないとかって、思うことも。全部。……それは、考えてみてはくれないの?」
真率きわまりない妹の眼差しを見返して。
このままでは通じなさそうだな、と思った。
それとも、そう思うことが逃げなのか。
わからない。ただ、もう、限界だ。己が耐えることがではなく、彼女にそういうことを思わせるのも言わせるのもそんな顔をさせるのもこんな声を聞くのも。
もちろん、これは、試す、わけにはいかないことだ。手を出した瞬間に、戻れない不可逆なことになる。
だから、そうなるくらいなら、封殺しようとしていたのだ。
司の言うことは正しい。妹だから、ではない。もはや。いや、ないわけでもないが、妹だからであると同時に、司そのものが大事だからだ。
けれども。
「――司。じゃあ」
柚真人は手を伸ばして――くしゃ、と司の前髪に触れた。こどもの頃、そうやって頭をなでたように。
そうして、
「これで足りるなら、もう休め。そうで――なければ」
言いながら、司の隣に並んで立つと、足を止めた。
「お前がそこまで言うのなら、……ついてこい」
これは、司に、置かれている状況をきちんと認識させるための宣告。
言ったら、あとは振り返らずに歩き出す。廊下へ出ると、背後の司には、
「気が変わったなら、俺が振り向く前に距離をとって、自分の部屋に戻れ。……俺は、追いかけたりしないから」
そうもつけ足して。

