勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語


「正直俺も助かったと思ってはいるんだがな……」
 柚真人はそんなふうに言い、盃をとりあげ、あおった。
 テーブルを囲んでいるのは、優麻と水月。
 三人は、ちょっとした秘匿を含む会話のために、神社からさほど遠くない商店街の中の飲み屋に集合して、吞んでいる。
 柚真人が二人に話しているのは、結局、柚真人の手の届かないところで柚真人自身と司を守った、もうひとりの自分についてのことだった。
「……ただ、俺自身の認識としては別人のようでもあるから、俺としては変な気持ちだ。悔しいようでもあるし、恩義を感じるようでもあるし、負けたなと思う部分もある。あいつは、俺にできなかったこと、俺の手からこぼれおちたことのすべてを救って、片づけていった――ってわけだ」
 柚真人はそういって肩を落とした。
 自分とは違う――正確には違うわけではないのだが――自分から切り離され、現世に生まれ変わった人としての理からも解放されたことで自由を得た、人としての『皇柚真人』
 非時香果を司に渡したのも、柚真人の手の届かないところで司を守ろうとしていたのも、司の中に封じられていた力の暴走の原因となるものをその記憶ごと連れ去ったのも、彼だったのだ。そう、柚真人は二人に説明した。
 もちろん、それが実際に柚真人に事実として把握できたというわけではない。でも、司が持っていた本来ならありえない非時香菓や、霊力の暴走や穢れを浴びた痕跡のない司の様子からして推察するに、そうとしか考えられなかった。 おまけに司は、過去に皇邸で起きた事件やそれ以前の子供時代の記憶もほとんど喪失していたのだ。
「だとしても、結局その『柚真人』くんだって、あなたでしょう」
 と、水月が言う。
 彼女は、飲み屋の片隅のテーブルで、チューハイのグラスを傾けていた。 昔は派手で華やかだった彼女も、いまやすっかり落ち着いた雰囲気だ。
「それに、以来、例の夢も見ていないのなら、……『柚真人』くんは目的を果たしたのだろうし、それはそれで、よかったんじゃないかしら」
 夢、とは、もちろん柚真人が時々水月に相談していた例の夢のことだ。
 司が戻ってきて以来、あの夢をまったく見ない。柚真人はこの席でそのことも水月に伝えてあった。
「……でもまあ、今でもちょっとぞっとするんだよ。すんげえ不本意ながら」
 それは、柚真人の今現在の正直な気持ちだった。
「俺は、かといってあいつの行動そのものは把握できていなかったわけで。あいつがいなかったら……いなかったらってのも変な話ではあるんだが、俺自身の認識だけでは取りこぼしていたことがいくつもあったんだな、と」
 そういう正直な本音や弱音のようなものを、柚真人は、普段、他人には見せたり聞かせたりしない。
 吐き出せるのは、目の前にいるのがこの二人であるからこそだった。
「後から考えれば、ということはそれはあるでしょう。でも、だからあなたと彼は一対でひとつの存在だったわけで、夢のことも考えれば、無意識化では繋がっていたといった方がいいわ。であれば、それも含めてあなた自身の抜け目のなさってことになるんじゃないかしら。司ちゃんは無事だったし、非時香菓のことについてはこれから考えなくちゃいけない問題もあるかもしれないけど、そこまで柚真人くんが考え込むこともないわ」
 水月はそんなふうに言ってくれる。 目の前の、つまみの皿にも手をだしながら。
 対する優麻は、
「……といいますか、むしろ柚真人さんは、非時香菓のことで、やられたと思っているんじゃないですか。ですから、その事実を素直に受け止められないのでしょう」
 そんなふうに冷静に指摘してきて、柚真人はテーブルに頬杖をついて鼻から息を吐きだした。
 少し、酒が回っている気もする。
 まあ、こんな気分で酒を飲むのは、柚真人にしてもいささか久しぶりのことだった。 柚真人は基本的に酒に酔うということがないが、気持ちが緩んでいたり、多少酔いの感覚に身を任せてもいいかなという意識がある時は別だ。そして今はどちらかというとそういう気分でもあった。
「……それも、無くはない」
 というのが、優麻の指摘を受けた柚真人の答えだ。
 柚真人はまた、はーあ、とため息のような息を吐く。
「……確かに、まったく、してやられたよ」
 決定的な選択は司に預けられていたとはいえ、司が『ああいう』行動をとることは、『柚真人』には予測できたことだったろう。
 だから柚真人は、先を読まれたような、出し抜かれたような、あいつに気をまわされたような、そしてまんまと乗せられたような気がしているのである。
おまけに、最終的に決定的に司を守り抜いたのは、たぶんあいつだという認識もある。それが――どこか、悔しいのだ。
 つまり。
 これは、嫉妬なんだろう。
 もちろん、あれは自分の一部でもあって、自分自身に嫉妬というのも変であるのはわかってる。
 だが、自分からしてみれば、司をめぐって別れて行動したもう一人の人間がいたようなものなのだ。
 その『柚真人』は、おまけに、結果として現状のようなかたちで柚真人自身といくらかの柚真人の不手際をもそれとなく救い、司を託した。この世に残り、司を得たのは自分だけれど、より司を大事に扱ったのは、果たしてどっちなんだ、というような変な心地がするのである。
 柚真人がそんなふうに愚痴ると、
「それは――彼もまた、司さんの兄だった、ということでしょう。そこに、甲乙も優劣もありませんよ」
 優麻はそう返してきて、なだめるように柚真人を見た。
 ちなみに、優麻が手元に置いているのは、ストレートの焼酎だ。この三人、三人三様、酒には強いが、好みが違う。 つまみも、てんでバラバラに頼んで相互に皿をつついている。ポテトサラダ、もつ煮、揚げ出し豆腐、といった具合に。まあ、気楽な飲み方といえば気楽な飲み方ではあった。
「とはいえ、柚真人さんがそうまで本気で悔しがる姿を、私もついぞ見た記憶がありません。なので、それが向かう相手としては、むしろ相応しいのではないかという感じもしますよ。あなたにとって、あなた以外に敵など存在しないでしょう。それでも悔しいなら、まあ、ひとまずは存分、嫉妬なさることです」
「…………お前、俺の現状わかってんのか」
 柚真人は空になった盃に、銚子を取り上げて酒を注いだ。むろん手酌だ。
「ただ、そうはいってもあなた自身の最初の判断がなかったら、事態は違っていたかもしれない。だから結局、ことのすべての基点はあなたにあるわ、柚真人くん」
 と、水月。
「……それはそうなんだろうが」
 柚真人はそこでひとつ言葉を区切った。
 そして、吐き出す。 つまるところの、この胸のつかえ、鬱屈、どうにも気分がおさまらないことの、本質を。
「……俺が、助けられるなんて。それも、司のことで」
 自分だけでは、片手落ちになっていた。その可能性が頭を過るのが、結局のところ、いまさらになって、不甲斐なくて、情けなくて、時間差で臓腑にこたえているのである。
  とくに、ほかでもない司のことなのに、と思うから、さらに自分自身にはらわたが煮えくり返るような気持ちが募ってしょうがない。 嫉妬に、くわえて。 そして最終的に困ったことには、この感情は、今の自分には危険で――困る。
「大丈夫。それは全部済んだことよ。そしてほかでもないあなた自身が成し遂げたこと」
 水月はそうも言ってくれる。
 そう。
 そこは、それでいいんだ。ということは柚真人もわかる。頭では。
 ただ、らしくなく埒もない嫉妬も含めて、胸に去来する想いは複雑で――だから二人を呼び出して、らしくもなくこの態を晒している柚真人だ。
 ともいえた。
「それでも、自信はあるのでしょう。まさかだからといって譲る気だというわけではないのでしょうし――」
 優麻の台詞は、素知らぬ顔で柚真人をちくりと刺すものだ。
「ぬかせ」
 と、柚真人は渋い顔でうそぶく。
「それとこれとは話が別なんだよ」
「そうでしょうか」
「そうなんだよ」
「非時香菓まで持ち出されて?」
「……それでも。あいつが兄なら、俺も兄だよ。なおさら譲れるか」
 と返してみるが、刺された胸が痛むのもまた事実。たとえ霊果をもって託されたとしても。自分が、兄、であることをなげうつことは果たして彼女に対する愛情だと言えるのか。この身は、彼女を――妹を守るためにあるはずだ。
 この心地に整理がつくまでには、しばらくかかりそうだった。