勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語


 どこかから何かに呼ばれているような気がしていた。
 そのどこかと何かが何であるかに気がついたのは、 非時香菓の一件から、数日後のことである。


 見慣れた池に、白い鯉がいた。
 しかも普通の鯉ではなく、真っ白なうえに、鰭が長くて、とても美しい鯉だ。それが、三匹。
 ゆらゆらと、澄み切った透明な水の中を、それはそれは美しく優雅に泳いでいる。
 この池が、ずっと自分の家とこの神社にかかわってあることは知っていた。
 けれど、自分の記憶にある限り、ここに鯉はいなかったはず。
 そう思って池の中を覗き込んだら。
 ――巫女!
 ――巫女! 我らの巫女!
 ――やっと気づいてくださったー!
 鯉は、普通喋れないものだ。
 でも水面近くに浮いてきて鰭をばしゃばしゃ口をぱくぱくさせている様子と、声と言葉のようなものがそこから伝わってきたことから、これは彼らが自分に向けて発しているのだろう、ということがなんとなくわかった。
「……それ、私のこと?」
 試しに、鯉に向かって尋ねてみると、より、鯉はばっしゃばっしゃと暴れ出す。なので、どうやらそうなのだろう、と確信をした――司だった。
「……あなたたち、なに?」
 と、さらに尋ねてみると――なお、自分が傍目には何もしゃべるわけでもない池の鯉に話しかけているというかなり妙な行動をしていることは自覚があった。ただ、ここは神社の中なので、まあ問題ないだろう、と思うことにする。
 ――我らは神使である!
 ――である!
 というのが、鯉たちから返った言葉だった。
「神使」
 って、なんだろう。司は思う。自分はこれまでのところはあまりに不勉強だったので、神社に関することではまだわからないことが多い。この鯉も、喋っているのだからただの鯉ではないだろう。あとで柚真人か優麻に聞いてみることにしよう、と司は思った。
 気になるのは、
「あなたたち、いつからここに?」
 ということだった。自分には見覚えのない存在だったからだ。ところが、彼らが答えたことには、
 ――ずっとおりましたぞ!
 ――巫女が生まれた時からずっと!
 ――我らが巫女をお守りできなくて申し訳ありませんでした!
「そうなの?」
 ではなぜ急にこの鯉たちが池に湧いたように思うのだろう。そう司は考えたが、すぐに、なんとなく、ああ、そうか、感じた。
「……もしかして、非時香菓を食べちゃったから、あなたたちが見えるようになった?」
 すると鯉たちがまたくちぐちにわめき立てたので、どうやら正解であったようだ。
 ――それよ!
 ――我らいっしょうの不覚!
 ――あれを此方で巫女が食してしまわれるとは。
 ――あれは鬼子の策略よ。してやられたわ。してやられた。
 ――あの鬼子からとうとう巫女をお守りできませなんだ。くやしいのう。
 ――くやしいのう。
 ――鬼子め。よくも我らの巫女を。
 ――我らは巫女をお守りできませなんだ。
 ところが、そこで司はひっかかった。鬼子鬼子とくりかえされるのが、気になったのだ。しかもこの鯉たちの話し方というか流れの感じからするに、鬼子というのは。思い当たるのが、ひとつしかない。
「……それ。もしかして、柚真人のことを言ってる? 鬼子って」
 ぴしゃ、と。
 水面が静まり返ったのはその時だ。
 そうして少し間を置いて、司の後ろから。
「――なにしてんだ」
 声がかかって、司は振り向いた。
「……柚真人」
 兄の柚真人は、いつもの神職姿――白衣袴でそこに立っていた。
 何をしているんだと訊かれれば。
「池の、鯉が」
「鯉?」
 鬼子と柚真人のくだりと、おそらく柚真人の気配を感じてであろう、鯉がぴゃっと静かになったので、鯉の話はあまり柚真人にしない方がいいんだろうか、と思わなくもなかった。
 しかし柚真人はこの社の宮司である。そうであれば、いいも悪いもないのだろう――とも思って、司は答えたのだ。
「池に、鯉がいるなって、さっき気づいたの。そうしたら、なんか呼ばれているみたいだったから、なにかなーって思って」
「ふうん?」
 す、と柚真人の目が細くなるのを司は見た。
 あ。これあまり気分がよろしくない時の兄の反応だ、とわかる。
 しかし柚真人は続けた。
「それで? なにか、言われたか? そいつらに?」
「!」
 その問いで、司は、柚真人にもこの鯉の声は聞こえるのだとわかった。まあ、社の宮司であり、今は人でもない桁の外れた霊力の主である柚真人たれば当然といえば当然であったかもしれないが。
「自分たちは、神使だって」
「……ああ」
「神使って、なに?」
「……まあ、簡単に言えば神社の祭神の使いだな。神社にいて、人と神との間を橋渡しする。それでいて、神社を守っている神に属する御霊を持つ存在」
「そうなんだ。それで…………………………あの。なんだか、柚真人とは、仲が悪そうね???」
 それで、というところまでは、神使に言われたことをさらに柚真人に話そうと司も思っていた。けれども柚真人の様子をうかがい、さらには傍から伝わる神使と名乗った池の鯉たちの気配を感じて比べるに、どうも妙な緊張感がある、と判断して、続けた言葉がそうなった。どう考えても、これらの鯉と、柚真人との間には何かがあるだろう。
「まあ、良くはない」
 と、柚真人。
 そして、司に問う。
「他には?」
「え?」
「他には、何か言われたか?」
 鬼子鬼子とわめいていたことと、それに絡んでなにか必死に彼らが悔しがり、司に対して謝っているようだなあ、と感じたことは言わない方が良さそうだと司は確信した。
「う、ううん」
 柚真人に嘘をつくのは苦手だ。九割九分九厘見抜かれてしまうから。だがこの時の柚真人は、それきり深く追求してはこなかった。
 そのかわりに、視線で司を少し越して言うことに、
「――おい、お前ら。わかってんだろうな。こいつに、ちょっとでも余計なこと言ったら次は絶対に三枚おろしにしてやるからな」
 三枚おろし。
 鯉に言ったんだろうなあ。
 司は思った。
 池の水面はぴたっと凪いだきり、反応がない。鯉たちの声も聞こえない。だが、柚真人の声が鯉に届いているのは確かであった。
 同時に、鯉とそれはそれは剣呑な感じで真面目に会話しているらしい兄の姿が面白くて、司はちょっと笑ってしまった。
 ふふ。
 と、司がどうにもこらえきれずに失笑すると、柚真人が急にその空気を和らげて司へと視線を戻し、両手を腰にもっていきながら肩を落とす。
「――なにがおかしい」
 柚真人は言うが、司にしてみれば事情がよくわからないので、柚真人がめずらしく妙にムキになっているなあ、くらいの認識であった。
 ただ、神使が柚真人を鬼と呼ぶこと、どうもその柚真人をあまり良く思っていない上に若干怖がっているような感じもすること、が気になるには気になった。司には、好意的であるようなのに。
 しかも司としては彼らとはつい今しがたが初対面という認識であるにもかかわらず、だ。
「べつに。おかしくはないけど。柚真人がそういう……感情を表に出すのって、あんまりないから」
 司がつとめて無難に返すと、柚真人はどこか気の抜けたような表情になって、
「誰のせいだと思ってんだ」
 と呆れたような声を出した。
 この時司は、たぶん、自分が非時香菓を食べてしまったということを指して言っているのだろうな、と思った。この神社の神使だという鯉の姿や声を感じ取ることが急に出来るようになっていたのも、そうのせいだったようだから。

      ☆ 
 
 司が、もう少しこの神使たちとうちとけて。
 宮司の目も盗んで、ちゃんとした話が聞けるようになるまでには、まだちょっと時間が必要――だった。