勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語

05
 
     ☆

 病院の屋上は、全面ではないがちょっとしたスペースが庭園のようになっている。
 もちろんフェンスはちゃんとあるし、基本的にはそれらは乗り越えられないような設計になっていた。
 外に出ると空もあたりも、もう暗かった。もちろん電灯や足許を照らすためのフットライトのようなものもいくつか点いている。けれど、屋上への出入り口のところに、ここは面会時間が終わると施錠されてしまうと注意書きがしてあって、その刻限までもあと三十分ほどである。
 まだ少し、涙が出てくる。
 それを掌でぐいぐい拭ってから、司は大きく息を吸った。空気はひんやりと冷たく、まだまだ冬の匂いがした。どこか水っぽいような、でも乾いた誇りのような、独特の匂いだ。
 それから、兄の――柚真人のことを思った。
 緋月と飛鳥には会った。じゃあ兄も、だいぶ歳上になってしまったんだろうか。
 想像はできない。どんな大人になっているのかも。
 緋月と飛鳥は、すごく変わった、という印象ではなかった。でも大人にはなっていて、司のほうが少しあやされているような雰囲気はあった。学校の先生と向き合っているみたいに。
 そう思うと、自分はどうすればいいのかなあ、と改めて思った。
 当たり前だが学校――には戻りようがないだろうし、これからどうすればいいんだろう。皇の家に戻れなくなったとして、じゃあどこに行けばいいんだろう。
 単純に、純粋に、柚真人に会いたいな、と思った。
 許されないことをしてしまって、取り返しもつかないとわかっていても、司にとって柚真人は、唯一絶対の信頼がおけて、自分の世界の中においてもっとも強く自分を惹きつける眩しい光のようなものだったのだ。
 その絶対の信頼と自分を守ってくれていた存在を失った。自業自得とはいえ、司にとってはそれが大きい。
 自分の兄は、人として、一番近くで見つめつづけるには眩しすぎた。
 ずっとその傍にいて、庇護されていた自分は、それに灼かれて他のものがもう見えない。
 司の恋とは、そういう――ものだ。
 その感覚は、ともすると一般的な恋とはすこし違うのかもしれない。
 相手のことを思う時、胸にあるのは甘いものではなく、焦げてぼろぼろになった自分というものの残骸だ。
 だからこの先も、この想いは抱えていかなくてはならないだろう。
 二度と表には出さない。
 金輪際、相手に向けてはならない。
 でも、自分の中から取り除くことはできない。
 唯一無二のものとして焼きついてしまったものだから。
 へんな、失恋。
 でも。
 兄離れ、って思えば、まだなんとか、自分に言い聞かせられるのかな。
 同じことよね。
 同じ、ことよ。
 そう思いながら、司がまた、すこし自分の眼頭のあたりからあふれてきた涙を拭った時だった。

 ――うまそうなにおいがするえ。

 ぼそぼそとした声色だったが、そんなふうに背後から聞こえた気がした。

 え? 
 なに?

 そう思って振り返る。
 司が屋上に出てあたりを見渡した時、他に人影はなかったはずだ。
 屋上の庭園風なところは、すこしベンチや植え込みがあったりするが、病院なだけあって、人が隠れたりすることができるようなもの影はなく、見通しは良い。
 司が振り向いた方向には、フェンスと夜になりかけている空とその夜に沈む街並みが見えるはずであった。
 だが、そこには何か妙な黒っぽい凝りがあった。そこだけに、なにか黒っぽいもやのようなものが固まって集まっているみたいに。
 
 ――おまえ。いいにおいがするえ。

 言葉であり、声。司にはそう認識できるものは、その黒い影のような凝りから発せられていた。
 なにあれ。
 オバケ……。
 司の現在の語彙の中から出てくる表現では、そうなる。
 ただ、その時、司は、自分の中に少しの違和感を感じた。
 以前なら、自分はもっとああいうものに怯えたと思う。
 怯えて、動けなくなったり、もっとぞわぞわと自分の中を何かが這いまわるみたいな嫌悪感と恐怖感を感じたはずだ。司はなによりああいうものが嫌いで、もっと、こわくてこわくて仕方がなかったはずだった。
 でも、今は。
 即座に、怖い、という感情がわかない。
 異物だ、とは思ったものの。忌避すべきものだ、とは思ったものの。
 きもちわるい、こわい、なにより、にげなきゃ、とは思わない。
 それよりも、なに? という疑問の方が強かった。
 あれは、なに? なんで、こんなところに。
 いや、狙いが自分だということは感じた。そしてあれは、ここにいるべきようなものでもないとわかる。どこから湧いたのだ。そして、どうして自分を見つけたのだ。

 ――そのちにく、ちとわけてくれんかの。

 そんなふうな言葉が、届いた。
 ちにく。
 血肉か。
 ということは、どうやら、司を食べたがっているようだ。

 ――おまえのちにく。く、く、くいたいな。

 オバケ、だけど。
 人の霊ではないようだと思った。
 司が認識している限りで、人の霊はそんなことはいわない。
 人の霊ではないなら、なんだろう。妖怪、とか? 
 司は、霊能を継ぐ神社にその職能を継ぐに足る能力をもって生まれた巫女ではあった。でも神社で学んだことは、この世にある生き物の生死と生き物の霊に関することだけで、それ以外のことについての知識は無い。
 じり、と影のような凝りが蠢き、これ、私を襲う気だ、と思った。
 どうしよう。
 以前みたいに、やみくもに怖いとは思わないけど、どうしたらいいかわからない。
 確実なのは、このままでは確実に襲われる、ということだった。し、このまま襲われたら、あまり良くないことになりそうな気がする。
 また、じり、ぞろ、と影が蠢く。
 とりあえず逃げるべきだろうか。
 明るい病院の建物の中に。
 この手のものは、基本的に、明るい光が苦手なことが多いように思う。よくは、知らないけど。
 司がそう、考えた時だ。
「――おい、お前。いったい何に手を出そうとしているかわかってんだろうな」
 明瞭で、涼しく空気を裂くように響く。
 そんな、声がした。
「!?」
 屋上庭園の暗いフェンスよりの方にいる黒い凝りのほうを見ていた司が、また振り返ると、そこには病院から屋上へ出るためのドアがあって、そのドアのところに誰かが立っていた。
 そちらの方向が明るいのでやや逆光になっているが、すらりとした背格好の男性だということは判別できる。
 いや。
 というよりも。
「――退け」
 よく通る声が、その場に響いた。
 その瞬間、その男性が発した、気迫――のようなものが、司の目には、揺らぎ立ち上る燐光のように見えた。
 司は驚いて瞠目した。
 こんなもの、いままでには見たことがなかったので、なに、これ、と思ったのだ。
 ただ、その淡い光のようなものはとても清冽で、発せられたところから波紋を広げるようにあたりの空気のまでもを変えていく。
「もう一度いう。――退け!」
 うううという苦しそうな呻きとも悶えともつかないものが聞こえた。
 そして、司が今一度、今度はまた正体不明の黒いものに目を遣るのと、その黒いものが、さらさらと流れる砂か、風にほどける煙のように消えていくのとが、ほぼ同時だった。
 司は、やや信じられないものを見る心地で、その人物に目を戻す。
 誰、と思ったが。
 答えはわかってもいて。
「――柚真人…………?」
 その名前が、自分の口をついて出ていた。