04
――あれ?
ということ、じんわりと思い出したのは、そのあとで、病室でふたたびひとりになった時だ。
なにか思い当たることは。そう言われて、司はずっと考えていた。
こうなるまえ。何があったろう。
それをちゃんと思い出そう、思い出す必要がある、と。
記憶にあるのは、学校から戻って、買い物しようと思って、自転車で家を出たこと。途中、自転車で転んだこと。
そこまでははっきりしている。なのにそこからがわからない。
『神隠し』といったって、じゃあそれはどうやって? なんで? である。
記憶は、見知った商店街の中で途切れているのだ。
そのあと、何があったっけ。
そう思った時、ふいに、何かが脳裏にちらついた。
――あれ。
私、そのあと、柚真人に会ってるよね。
話をしてる。
自転車で転んで、それで。
そうだ。
その時ちょうど、柚真人に会った。
なにやってんだ、お前。そんなふうに、声がして。
その後、柚真人が自転車を見てくれて、一緒に家まで帰った。帰って。それから。
それから。そう。
転んだ時の怪我を柚真人がみてくれたんだ。
そして私は。
こういう時に限ってはちゃんと優しくしてくれる。
誰より的確に誰より慎重に誰より丁寧に自分を見てくれている。
なのに。どうして。
この人以外でなくてはいけないのか。
いけないということにいつまで耐えればいいのだろうか。
それともいつかは何かが変わるのだろうか。
いつかはいまここに、自分の胸の中にある気持ちや感情と忘れられるのだろうか。
いつかは、他の、誰かに。
この感情を向けられるんだろうか。
そう、思って。
――妹でなんて、いたくないよ……。妹なんて嫌。……ごめんね柚真人……。あたし……どうかしてるの……っ。
――柚真人が好き……。あたし、柚真兄のことが好きなの……っ。柚真人に好きな人がいても駄目なの、止まらないの、ごめん、なさい……っ。
そう、言ったことを思い出した。
そうして思い出した記憶そのものに愕然とし、そのまま思考が停止した。
うそ。
うそでしょ。
私。なんてことを。
兄に向って、なんてことを言ったんだろう。
なんて、ことを――。
いくら耐え難くても。いくら辛くても。それは口に出すべきではなかった。
表に出してはいけないものだったはずなのに。
そのまま思考が止まっていたのは、どれぐらいだったろう。
たぶん、そんなに長くない。
それから司は、実際にはあの時から二十年以上の時間が経過しているのだということも意識した。その後で自分がみんなの前から姿を消したというのであれば、ずいぶんと過去の話にはなる。
なるけれども、もし、それでも柚真人がそのことを覚えていたなら、自分は忌避されて当然かもしれない。
というか――すっかり考えが及ばなかったけれど、あれからそれだけの時間が経過したというなら、柚真人以外の、他のみんなだって、恋愛や、結婚をしたのかもしれない。
当然、柚真人、だって。
だとしたら、よけいに、自分の居場所なんて、もはや、どこにも、少なくとも皇の家のどこにもあるはずが――ない。
自分の、皇の人間としての資質如何にかかわらず。それ以前の問題として。
私の知らない家族が、増えたりしているのかもしれない。
緋月や飛鳥はなにも言っていなかったけれど、それは司が何も訊かなかったからかもしれない。
いや、そうはいってもあの二人なら、あるいは水月であっても、何かあれば言ってくれるはず、とも言えた。でも。
どうやら自分のまわりの人間が、自分を混乱させないように気を遣っていることはわかっていた。
鎮静剤だって使われてるし。もしかして。いちどきに全部は話せないことがあるのかも――しれない。
ああ。
ああ、わかった。
柚真人が自分を避けたくなるような出来事は、あった。
そう思った。
だけど――。
せめて。
そこに自分の居場所が無くても、もう帰ることができなくなっていても、せめて。
謝れない、だろうか。
もちろん、もしかすると、二度と顔を合わせない方が正解なのかもしれない、とも思った。そして、柚真人の方はそういう判断をしたのかもしれない、と。
謝罪して、許されたい。自分のしでかしたことに気が付いた途端にそう思ってしまったのはたぶん自分の弱さだろう。
それもなんとなくわかった。
弱さで、情けなさで、傲慢さでもあって、我儘だ。
今になって一方的に謝って何になる。一方的に許されたいなんてそれこそ許されない。わかっている、と思う自分が実のところ一番嫌いだ。
だとしても。
取り消して、なかったことにして欲しい、と。
それだけでいいから、言わせて欲しい――。
もちろん、許してはもらえないのかもしれない。
あれから時間も経ったというのであれば、蒸し返さないほうがいいことかもしれない。
いっそこのまま何も無かったことにしておくべきなのかもしれない。
でも、なにより。このまま家族でもあった柚真人とすべてを断絶してしまうのは、耐えられない。
どう――どうしたら、いいだろう。
とりあえず、柚真人に会わなければどうにもならないことだと思った。
ただ、会って、もらえなければ。
緋月と飛鳥の話では、司がしたいようにすればいいというニュアンスであった。でも自分でこのことを思い出してしまった以上、やっぱり柚真人はそれとなく司にだけわかるように司を拒絶しているようにしか思えない。
家に帰ったら。柚真人は会ってくれるんだろうか。
そう思った。
とはいえ、病院にいつまでもいるということもないだろうから、水月の判断によって退院して良いとなればどうでもいったんは家に帰らなくてはならないだろう。
そのはずなのに、戻りたくないなら戻らなくていいというのだから、やっぱり自分は家に帰ることも許されないのかもしれない。
たとえ二十年以上前のことになるとしても、自分のしたことにはそれだけの重さと罪があると自覚もできる。
バカだ、私。
なんで。
あんなこと言っちゃったんだろう。
今更になって司は思ったが、それこそ詮のないことで、取り返しがつかないのはいくら悔いてもかわらなかった。
考えているとふと、目の奥がじんわりしてきて、また、泣きたくなってきてしまい、視界を滲ませながら部屋の中の時計をみる。
緋月と飛鳥が帰ってから数時間ほどが過ぎていて、そういえばそろそろ水月が夕食を持ってきてくれる頃だった。
司は正式な入院患者という扱いでもないらしく、今のところなんでもかんでも水月が面倒を見てくれている。
診査の合間が退屈だろうからと、色んな映像が見られる板状のディスプレイみたいなものも、病院で目が覚めた次の日には持ってきてくれていた。
だけど。
今、水月さんに会いたくないな。そう思った。
なにより彼女は精神科の医師だ。今、こんなに頭がぐちゃぐちゃな状態で彼女と面と向かって、異変を悟られない自信がない。
どうしよう。
ちょっと考えて、司はちょっとだけ屋上にでも逃げようか、と思った。
少し、落ち着かなければ、水月に何かおかしなことを口走ってしまいそうでもある。
水月が部屋に来たときに、司がいなかったら水月が心配はするかもしれない。でも、べつに病院を出るわけじゃないし、部屋にいなさいとも言われているわけでもない。
水月さんごめんなさい。
ちょっとだけ、頭を冷やして、落ち着いてくるだけどから。
そう心のなかで言い訳をすると、司は、ベッドを降りた。そして、スリッパを履いて、病室を出た。
――あれ?
ということ、じんわりと思い出したのは、そのあとで、病室でふたたびひとりになった時だ。
なにか思い当たることは。そう言われて、司はずっと考えていた。
こうなるまえ。何があったろう。
それをちゃんと思い出そう、思い出す必要がある、と。
記憶にあるのは、学校から戻って、買い物しようと思って、自転車で家を出たこと。途中、自転車で転んだこと。
そこまでははっきりしている。なのにそこからがわからない。
『神隠し』といったって、じゃあそれはどうやって? なんで? である。
記憶は、見知った商店街の中で途切れているのだ。
そのあと、何があったっけ。
そう思った時、ふいに、何かが脳裏にちらついた。
――あれ。
私、そのあと、柚真人に会ってるよね。
話をしてる。
自転車で転んで、それで。
そうだ。
その時ちょうど、柚真人に会った。
なにやってんだ、お前。そんなふうに、声がして。
その後、柚真人が自転車を見てくれて、一緒に家まで帰った。帰って。それから。
それから。そう。
転んだ時の怪我を柚真人がみてくれたんだ。
そして私は。
こういう時に限ってはちゃんと優しくしてくれる。
誰より的確に誰より慎重に誰より丁寧に自分を見てくれている。
なのに。どうして。
この人以外でなくてはいけないのか。
いけないということにいつまで耐えればいいのだろうか。
それともいつかは何かが変わるのだろうか。
いつかはいまここに、自分の胸の中にある気持ちや感情と忘れられるのだろうか。
いつかは、他の、誰かに。
この感情を向けられるんだろうか。
そう、思って。
――妹でなんて、いたくないよ……。妹なんて嫌。……ごめんね柚真人……。あたし……どうかしてるの……っ。
――柚真人が好き……。あたし、柚真兄のことが好きなの……っ。柚真人に好きな人がいても駄目なの、止まらないの、ごめん、なさい……っ。
そう、言ったことを思い出した。
そうして思い出した記憶そのものに愕然とし、そのまま思考が停止した。
うそ。
うそでしょ。
私。なんてことを。
兄に向って、なんてことを言ったんだろう。
なんて、ことを――。
いくら耐え難くても。いくら辛くても。それは口に出すべきではなかった。
表に出してはいけないものだったはずなのに。
そのまま思考が止まっていたのは、どれぐらいだったろう。
たぶん、そんなに長くない。
それから司は、実際にはあの時から二十年以上の時間が経過しているのだということも意識した。その後で自分がみんなの前から姿を消したというのであれば、ずいぶんと過去の話にはなる。
なるけれども、もし、それでも柚真人がそのことを覚えていたなら、自分は忌避されて当然かもしれない。
というか――すっかり考えが及ばなかったけれど、あれからそれだけの時間が経過したというなら、柚真人以外の、他のみんなだって、恋愛や、結婚をしたのかもしれない。
当然、柚真人、だって。
だとしたら、よけいに、自分の居場所なんて、もはや、どこにも、少なくとも皇の家のどこにもあるはずが――ない。
自分の、皇の人間としての資質如何にかかわらず。それ以前の問題として。
私の知らない家族が、増えたりしているのかもしれない。
緋月や飛鳥はなにも言っていなかったけれど、それは司が何も訊かなかったからかもしれない。
いや、そうはいってもあの二人なら、あるいは水月であっても、何かあれば言ってくれるはず、とも言えた。でも。
どうやら自分のまわりの人間が、自分を混乱させないように気を遣っていることはわかっていた。
鎮静剤だって使われてるし。もしかして。いちどきに全部は話せないことがあるのかも――しれない。
ああ。
ああ、わかった。
柚真人が自分を避けたくなるような出来事は、あった。
そう思った。
だけど――。
せめて。
そこに自分の居場所が無くても、もう帰ることができなくなっていても、せめて。
謝れない、だろうか。
もちろん、もしかすると、二度と顔を合わせない方が正解なのかもしれない、とも思った。そして、柚真人の方はそういう判断をしたのかもしれない、と。
謝罪して、許されたい。自分のしでかしたことに気が付いた途端にそう思ってしまったのはたぶん自分の弱さだろう。
それもなんとなくわかった。
弱さで、情けなさで、傲慢さでもあって、我儘だ。
今になって一方的に謝って何になる。一方的に許されたいなんてそれこそ許されない。わかっている、と思う自分が実のところ一番嫌いだ。
だとしても。
取り消して、なかったことにして欲しい、と。
それだけでいいから、言わせて欲しい――。
もちろん、許してはもらえないのかもしれない。
あれから時間も経ったというのであれば、蒸し返さないほうがいいことかもしれない。
いっそこのまま何も無かったことにしておくべきなのかもしれない。
でも、なにより。このまま家族でもあった柚真人とすべてを断絶してしまうのは、耐えられない。
どう――どうしたら、いいだろう。
とりあえず、柚真人に会わなければどうにもならないことだと思った。
ただ、会って、もらえなければ。
緋月と飛鳥の話では、司がしたいようにすればいいというニュアンスであった。でも自分でこのことを思い出してしまった以上、やっぱり柚真人はそれとなく司にだけわかるように司を拒絶しているようにしか思えない。
家に帰ったら。柚真人は会ってくれるんだろうか。
そう思った。
とはいえ、病院にいつまでもいるということもないだろうから、水月の判断によって退院して良いとなればどうでもいったんは家に帰らなくてはならないだろう。
そのはずなのに、戻りたくないなら戻らなくていいというのだから、やっぱり自分は家に帰ることも許されないのかもしれない。
たとえ二十年以上前のことになるとしても、自分のしたことにはそれだけの重さと罪があると自覚もできる。
バカだ、私。
なんで。
あんなこと言っちゃったんだろう。
今更になって司は思ったが、それこそ詮のないことで、取り返しがつかないのはいくら悔いてもかわらなかった。
考えているとふと、目の奥がじんわりしてきて、また、泣きたくなってきてしまい、視界を滲ませながら部屋の中の時計をみる。
緋月と飛鳥が帰ってから数時間ほどが過ぎていて、そういえばそろそろ水月が夕食を持ってきてくれる頃だった。
司は正式な入院患者という扱いでもないらしく、今のところなんでもかんでも水月が面倒を見てくれている。
診査の合間が退屈だろうからと、色んな映像が見られる板状のディスプレイみたいなものも、病院で目が覚めた次の日には持ってきてくれていた。
だけど。
今、水月さんに会いたくないな。そう思った。
なにより彼女は精神科の医師だ。今、こんなに頭がぐちゃぐちゃな状態で彼女と面と向かって、異変を悟られない自信がない。
どうしよう。
ちょっと考えて、司はちょっとだけ屋上にでも逃げようか、と思った。
少し、落ち着かなければ、水月に何かおかしなことを口走ってしまいそうでもある。
水月が部屋に来たときに、司がいなかったら水月が心配はするかもしれない。でも、べつに病院を出るわけじゃないし、部屋にいなさいとも言われているわけでもない。
水月さんごめんなさい。
ちょっとだけ、頭を冷やして、落ち着いてくるだけどから。
そう心のなかで言い訳をすると、司は、ベッドを降りた。そして、スリッパを履いて、病室を出た。

