勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語

06
 
 
 翌朝。
 飛鳥は居間のテーブルに突っ伏した状態で目を覚ました。
 緋月は、居間の畳の上に、行儀よく枕を置いて毛布を掛けてきちんと仮眠していた。
 柚真人が神社を空けているあいだ、宮司代行をしなければならない飛鳥は、
 ――まだ、鈴は鳴ってないのか。
 思いながら、沐浴場を借りて潔斎をすることにする。
 それを済ませると、白衣と袴に着替えて、日供祭(にっくさい)を執り行う。
 日供祭は、どこの神社でも毎日欠かす事の出来ない毎朝の儀式だ。
 拝殿で行うので、その前に緋月に声を掛けた。
 緋月には拝殿に行く、ついでに優麻の様子も見てくる、とも言い置いて、拝殿へと向かった飛鳥だった。その間に、緋月はたぶん朝食を用意してくれるだろう。
「うわ、さむ!」
 皇邸の玄関を出ると、朝の冷気が全身に沁みた。
 この寒さの中、夜通し拝殿にいてくれる優麻には頭が下がる、と飛鳥は思う。
 邸宅と、神社の境内とを繋ぐ小道を抜ける。その際、神池の傍を通って、今日もあの白い鯉たちは居ないな、思った。
 池から飛鳥の進行方向右手の方に、拝殿と幣殿、そして本殿がある。飛鳥は本殿にもちらりと目線をやったが、その光景はいつもと変わらなかった。
 いったい、いつまで――。
 そんな不安が、飛鳥の胸を過った時。
 
 がらん。

 という音がした。
「!?」
 いつものように静寂に満たされていた神社の境内に。
 がらん、と。
 耳馴染んだ、少し重たく鈍い、金属の音がする。

 がらん。
 がらん。

 がらん。
 がらん。

 ついで、拝殿の扉が開いて、優麻が飛び出してきた。
 ちょうど拝殿に向かおうとしていた飛鳥と、優麻の目が合う。
「――優麻さん、これ!?」
 拝殿の軒、本坪鈴へと、二人が一緒に目を遣ると、くすんだ黄銅色をした鈴が大きく揺れていた。そこに誰もいないのに。当然、風もほとんどない。だが鈴と、鈴から垂れ下がっている鈴緒も揺れている。がらん、がらん、と音をたてながら。
「――」
「――」
 いまいちど、飛鳥と優麻が交わした視線は一瞬だった。
 それだけで、二人はともに頷くと、優麻は拝殿の脇をまわって本殿へ。飛鳥は邸宅の方へ取って返して、玄関から中に呼びかける。
「――緋月ちゃん! ――緋月ちゃん!!!」
 鈴の音は、おそらく皇邸の中までは聞こえまい。しかし飛鳥の呼び声で何事か察しただろう緋月は、台所から飛び出してきた。
「鈴が鳴ってる!」
 飛鳥が境内の方を指先さすと、緋月があわてて、草履を履いた。その間ももどかしく、飛鳥はまた、神社の境内の方へ向かって駆け出した。遅れて、緋月がついてくる。
 そのころには、鈴はもう鳴りやんでいた。
 しかし確かに鈴は鳴った。
 鳴ったのだ。


 その本坪鈴のある拝殿を傍らに、二人も本殿へ向かった。
 本殿は、拝殿とそれに併設されている幣殿のさらに後ろ手にある。先に優麻が到着していたためか、本殿の扉は開いていた。
 そうして――。
 本殿に至るための階を二人が登って、扉の奥に見たものは。
「――っ…………」
「な……」
 飛鳥と緋月は絶句した。
 本殿の広さは、畳にして六畳間ほどである。その中が、血まみれだった。
 壁も、床も、あたり一面が飛び散ったような真紅の飛沫にまみれていたのだ。
 そしてとくに大きく血で汚れている床の上には、見覚えのある漆黒の袍。それは柚真人の神職服で、ここに柚真人が入った時にはその身に纏われていたはずのものであったはずだった。
 どうやら柚真人はそれを脱ぎ捨てて床に広がったようだ。
 そうして柚真人自身は――。
「お、い」
「ゆ……まと、さま……!?」
 緋月の声はほとんど悲鳴だった。
 まさかこんな、悪夢みたいな光景を、見ることになろうとは思わなかった。
 だが。
「――俺は、平気…………だ……っ……」
 微かに、低く。手負いの獣が呻くみたいに。
 そんな声が返ってきた。
 むろん、とはいえ全然そのようには見えなかった。
 柚真人が声を発すると、ひゅうという音がして、ごぼ、とこの口許からも血が溢れた。
 袍を脱いだせいで柚真人は白衣に袴の姿だったがそのどちらもがやはり血に塗れて真っ赤であるし、まるで何かにあちこちから何度も繰り返し引き裂かれたようにぼろぼろだ。もちろんのこと、その白衣や袴の下、柚真人自身にも傷は見える。
 その傍らには優麻が跪き、柚真人を支えようとしていたが、柚真人は床に蹲っているといえばいいのか、血だまりに沈んでいると言えばいいのか――。
「そんな、ことより。――つかさ、を」
「!」
「!?」
 つかさ、と言われて二人はようやく気がついた。
 柚真人の黒い袍。その下に、人の身体の一部と思しきものが見えている。
 それは、裸の手足と見えた。
「つ……司!? ですって!?」
 緋月がそちらに駆け寄った。
 黒色の袍を、その傍に屈みこんでわずかばかり持ち上げてみると、全裸の身体があった。
 そこでそのままいったん袍を下ろして身体を覆いなおし、緋月はその身体の顔のあたりを確認しようとした。
「この血は、なに」
 思わず茫然の態で洩らしたのは、飛鳥だ。
 そこに含まれたものを察してのことか、
「……司は、無事だ。……無事な、は、ず」
 柚真人が、切れ切れに喘ぎながら紡ぐのが、飛鳥の耳にも緋月の耳に聞こえた。
「……でも。……柚真人さま。……これ、は…………」
 司の姿と顔を袍の下で確認した緋月は、掛け値なしに息を呑まされて驚愕せざるをえなかった。
 なぜなら――。
 そこに一糸まとわぬ裸で倒れていたのは、間違いなく司だった。
 意識はないが、呼吸はしている。
 まるで眠っているように。
 けれども、これは。
 自分の記憶にまったく違わぬ、司だ。緋月は思った。
 つまり、司はここから消えたときのまま。16歳の、ままなのだ。
「……水月に、連絡、を。……司、を。……診て、やって、く……」
 柚真人が、続けるのが聞こえた。
 そうだ。
 救急車、を。と緋月は思った。
 それに、司が無事で、柚真人がこの様子だとするとこの血は柚真人のものということになるだろう。手当は柚真人にも必要なはずだ。
 というか、柚真人の身に、いったい何が起こったというのか。
 この本殿で、四日の間、柚真人は何をしていたというのか。
 わからなかった。推測のしようもなかった。
 いますぐにでも質したいことはたくさんある。
 歯噛みしながら緋月が立ち上がりかけ、
「いま――救急を呼びますわ」
 そう言って電話ができるところまで行こうとしたところ、それよりも早く、優麻が、自分の携帯を取り出した。
 するとやおら、柚真人が、ぐっ、と身を起こした。そうして、携帯を持つ優麻の手に、自分の手をかけると、
「――呼ぶのは、水月で、いい。それと……漣(さざなみ)も」
「――」
「…………俺なら、このままで、大丈夫、だ。……どのみち、人の、医療など……いまの、俺には、無意味…………」
 ずるっ、と柚真人の身体がすべり、柚真人はまた、床に沈むように倒れ込んだ。
 どさ、と鈍い音がした。
「柚真人さま!」
「柚真人!」
 く、と柚真人の顔が苦痛であろうものに歪むのが、その場にいた誰の目にも見て取れた。
 当たり前だ。柚真人とて傷を負えば痛みはあるし、これほどの出血量でまともでいられるわけがない。
 それでも、
「ゆう、ま。……はや、く」
 重ねて水月と、それから鎮護官への連絡を、柚真人は要求する。
「わかりました」
 応えて、優麻は、片手は柚真人に差し伸べつつ、もう片方の手で携帯のアドレスを開いた。
 水月を呼ぶのは、もともと、水月が、こういう稼業をしていて一般の医者には関わらせられないが医者が必要な事態が生じた時の暁の家の者であるためだろう。
 漣には、この事態を報告する必要があるからか。
「…………取り戻したぞ」
 柚真人はなお苦しそうな息の下から、そう、吐き出した。
「…………司と、佐須良(サスラ)を。取り、戻した…………っ……」
 その時、床の血だまりの中に、のぼりつつあった朝陽の光をちらりと跳ね返すものが見え――。
 優麻も飛鳥も緋月も、同時に、それが血に塗れた刀身の刃であることに気がついた。