05
☆
柚真人が本殿に籠ってから3日が経過しようとしていた。
時計はその日の夜もそろそろ午前零時を指そうとしており、皇邸の居間には緋月と飛鳥がいる。そうして拝殿には、笄優麻が張り込んでいた。
当初は飛鳥が、夜の間は寝袋を持ち込んででもと申し出たのだ。けれども結局、張り込みは優麻が引き受けた。自分なら、夜間も休息を必要とせず起きていられるし、夜中の寒さにも頓着せずにいられるから、と優麻は主張した。
拝殿に張り込む必要があるのは、拝殿の本坪鈴がいつになったら鳴るのか分からず、それを聞き逃すわけにいかないからである。
柚真人が本殿に籠って以来、その結果として何が起こるのか皆目見当もつかないので神社の職員には有給を言い渡してあった。なので、現在神社は開店休業中のようなものだ。
だとしても、ぽつぽつ参拝にやってくる人はいるし、日中は飛鳥と緋月が社務所にいる。だからさすがに張り込みまでする必要はなかった。他方、夜の間は神社も閉めるし、誰かが見張りをしていなければ、本坪鈴が鳴ったことがわからない。
柚真人がそうして何をしているのか――は、優麻にも飛鳥にも緋月にもわからなかった。三人ともが、いまはただ、柚真人の命であるからという一点で、それに従うのみである。
「――もう3日が過ぎますわね」
緋月が居間の時計を見遣って、ぽつりと言った。
あれからもちろんのこと、緋月と飛鳥も、皇邸を離れることができないでいる。だから優麻が張り込みをしてくれている間は、皇邸の居室を借りているのだった。
日付が変われば、柚真人が本殿に籠ってから、4日目となる。
その間、食事、睡眠、排泄など、どうしているんだろう――ということも、生身の人間なれば気になるところだった。
しかし、柚真人はいってしまえば普通の人間ではない。優麻が同じように拝殿で張り込みをしていることからしても、そういったことはある程度コントロールはできるのだろう。
もっとも、それにしたってなにがしかの霊力を消費しつつの不眠不休となれば疲労のようなものは蓄積する、とも優麻は言っていた。
とくに柚真人は、本来的には己の本性とは相反する神社の宮司という職に就いており、日常的にあらゆる面で抑制を受けている。そのため、日常的に使わなくてもよい気や体力を消費しているはずではある、ということにはなるらしい。
鬼というものは、人のような寿命はないし、肉体が老いることも無い。しかし、力そのものが尽きれば朽ちて滅びる。ゆえに、現在の柚真人にとっては、人としての気力や体力といったものより、司に対して募らせている想いの方が、大事であるのかもしれない。
「緋月ちゃんは寝ててもいいんだよ。休まないと、そのうち倒れちゃうでしょ」
居間のテーブルを挟んで向かい合い、ただその時を待って時計を睨んでいる緋月と飛鳥だ。しかし飛鳥がそう言うと、緋月はうなだれて大きな嘆息を吐いた。
「眠れると思います? それ、飛鳥さんだって同じでしょうに」
「……」
まあそれはそう。昨日も一昨日も、そうやって朝になった。飛鳥も思った。
「……お腹空かない?」
「……遺憾ながらどんなときでもそうなんですよのよね。目も覚めますし、お茶を淹れて来ましょうか」
緋月は顔を上げて立ち上がり、飛鳥はもう何度目になるかわからないのだが、また、部屋の時計を見た。
主のいない邸宅の居間で、柱に掛けられた古い時計が時間を刻む。その秒針がコチコチと音を立てて回っているのを見つめながら、欠伸を噛み殺す飛鳥だ。
いったい柚真人は何をしているんだ。という話は、緋月や優麻ともうなんどか繰り返していて、ネタが尽きた。
だが、はっきりとしたことはわからないままである。
ただ、司を取り戻すために必要なことをしているのだけは確かで、結局三人はそれを信じるより他になかった。
それとともに、ひとつ気になることがあって。
柚真人が本殿に籠ってから、池の鯉も姿が見えないのである。
池から出られない、と確か柚真人がいっていたと記憶している。では、池の鯉はどこへいったのか。
なにやら柚真人と激しく言い争っていて、その末のことであったから、柚真人がしていることは、池の神使たちともなにか関係があるのだろうとは推察できた。
あの時。
――たかだか神使の分際で!
そう叫んだ柚真人を見た時、飛鳥は、心底から畏れに近い感情を抱いた。
もちろん柚真人は自分とは違う。普段は友達のような、幼馴染のような関係ではあって、気安く軽口を言い合い、じゃれあったりもしてくれている。けれども、それはあくまで柚真人が飛鳥のために飛鳥に合わせてくれている部分もあってのこととは認識していた。けれど。
あの気迫。あの声。あの眼差し。あの冷気。
ビリビリと空気を震わせるような怒気と、あたりが凍りつくような殺気と威圧感。
ああ、こいつは本気で神使にも喧嘩を売れる。あるいは買う。それだけの力を備えた、人ではない存在なのだと。肌で感じた。
たとえ今、神使との間で何かが起きているのだとしても、あいつなら。ちゃんとすべてを解決するのだろう。そう信じたい。
――お前なら。大丈夫だよな。
一抹は、そこに自分が関わることはできないもどかしさも含みつつ、飛鳥が時計をなお見るともなしに睨んでいると、緋月がお盆の上になにやら載せて台所から居間に戻ってきた。
「――コーヒーとチョコレートにいたしましたわ。たくさん食べるとそれはそれで眠気がきますし」
あくまでも眠気は払っておきたいらしい緋月に、飛鳥はちょっと苦笑した。
緋月は、マグカップをそれぞれの手元に置き、小さな包装に包まれたチョコレートを盛った木製の菓子皿を置くと、自分もまた飛鳥の前に正座をし直した。
「今年で、二十五……二十六年になりますのね」
そう呟くように洩らし、緋月はマグカップを両手で抱えるように持つ。
飛鳥も自分用の置きマグカップを、手に取った。柚真人がなんでもあらかた寛大に好きにしていいといってくれているので、マグカップや食事用の箸など、ここには飛鳥と緋色それに優麻の私用の食器がいろいろと置いてある。
「俺たちも歳を取るわけだ」
そう受けて、飛鳥はちょっと自虐気味にも笑った。
司がこの社から失われた時、飛鳥と緋月は高校生だった。同じ制服を着て、同じ高校に通い、未来がこんなかたちになるとは思わず、柚真人と司との四人で、幼い恋や日々の他愛のない出来事に一喜一憂していた。
それは、懐かしい――というより、もはやどこか愛しさの募る記憶だ。飛鳥にとっても、緋月にとっても。
もとより人間とは違う寿命を生きていると、後程になって告白してきた笄優麻に至っては、時間の感覚や振り返る記憶に対する感慨は違うものかもしれないが――。
「……司ちゃん、さあ」
「……」
「今、どう……なっているのかな」
その時が近いと思うと、考えなければならなくなる。これまでは、状況があまりにもわからなかったので憶測しかできないことは考えないようにしていたことでもあった。それは。
「……わかりませんわ」
緋月が答えた。こればかりは、わからない。
確かにそうなのだ。
「神刀・佐須良が、あの時からわたくしたちのいるこことは違う時間を刻んでいたとして」
それは、未来視の巫女の予言とともに、立ててあった仮説だ。
司は神刀とともにある。その神刀は、複数のこの世のものとは質の違う力や術式が重なり合って乱れた時空の歪みに紛れた。
その果てでふたたび現世に戻るのであれば、神刀は、現世とは違う時間を刻んだはず。
自分たち勾玉の血脈を継ぐ者たちがその理で生み出す結界や、ときおり現世にあらわれ交錯する異界、幽世に属する数多の常世、がそうであるように。
世にいう、神隠し、などもこれに類する。ようするに神刀と司は、神隠しになった、とも言えた。
「それがどういうものであるのかは、時によりさまざまですもの」
例えば、本人にとっては数日の感覚で、何年も行方不明になったりすることがある。あるいは別の世界で同じような時間を刻み続けることもある。はたまた、何十年もの時間を過ごし、つい何日かの誤差で戻ってくることも。
「とにかく、今は。無事にここに戻ってきてくれさえくれれば……なによりもそれが先決ですわよ」
緋月の声色は、決然としていた。
「……それは、まあ、そうだね」
コーヒーのマグカップから立ち上る湯気を、ふう、とひとつ徒に吹いて、飛鳥も同意する。流れて消えていく湯気を目で追いながら、
「司ちゃん、元気だといいなあ」
「消えた時の状況から考えると、無傷、でいて欲しいですわ。そうでなければ、それこそ、どうなっているのか……今まで、考えたくはありませんので、深く考えないようにしてきましたけれど。桜御護の御姫様が、司は無事だとおっしゃっていて下さらなければ、とてもこんな心地ではありませんでしたでしょうね」
「…………」
そうだった。
最終的には、頼りにしたのは、勾玉の血脈の未来を見守る、預言の姫巫女の言葉だ。
そうしてその言葉はかならず違えず未来を語るという確信。
その夜も、やがてそのまま更けていった。
知らせの鈴は、まだ鳴らない。
☆
柚真人が本殿に籠ってから3日が経過しようとしていた。
時計はその日の夜もそろそろ午前零時を指そうとしており、皇邸の居間には緋月と飛鳥がいる。そうして拝殿には、笄優麻が張り込んでいた。
当初は飛鳥が、夜の間は寝袋を持ち込んででもと申し出たのだ。けれども結局、張り込みは優麻が引き受けた。自分なら、夜間も休息を必要とせず起きていられるし、夜中の寒さにも頓着せずにいられるから、と優麻は主張した。
拝殿に張り込む必要があるのは、拝殿の本坪鈴がいつになったら鳴るのか分からず、それを聞き逃すわけにいかないからである。
柚真人が本殿に籠って以来、その結果として何が起こるのか皆目見当もつかないので神社の職員には有給を言い渡してあった。なので、現在神社は開店休業中のようなものだ。
だとしても、ぽつぽつ参拝にやってくる人はいるし、日中は飛鳥と緋月が社務所にいる。だからさすがに張り込みまでする必要はなかった。他方、夜の間は神社も閉めるし、誰かが見張りをしていなければ、本坪鈴が鳴ったことがわからない。
柚真人がそうして何をしているのか――は、優麻にも飛鳥にも緋月にもわからなかった。三人ともが、いまはただ、柚真人の命であるからという一点で、それに従うのみである。
「――もう3日が過ぎますわね」
緋月が居間の時計を見遣って、ぽつりと言った。
あれからもちろんのこと、緋月と飛鳥も、皇邸を離れることができないでいる。だから優麻が張り込みをしてくれている間は、皇邸の居室を借りているのだった。
日付が変われば、柚真人が本殿に籠ってから、4日目となる。
その間、食事、睡眠、排泄など、どうしているんだろう――ということも、生身の人間なれば気になるところだった。
しかし、柚真人はいってしまえば普通の人間ではない。優麻が同じように拝殿で張り込みをしていることからしても、そういったことはある程度コントロールはできるのだろう。
もっとも、それにしたってなにがしかの霊力を消費しつつの不眠不休となれば疲労のようなものは蓄積する、とも優麻は言っていた。
とくに柚真人は、本来的には己の本性とは相反する神社の宮司という職に就いており、日常的にあらゆる面で抑制を受けている。そのため、日常的に使わなくてもよい気や体力を消費しているはずではある、ということにはなるらしい。
鬼というものは、人のような寿命はないし、肉体が老いることも無い。しかし、力そのものが尽きれば朽ちて滅びる。ゆえに、現在の柚真人にとっては、人としての気力や体力といったものより、司に対して募らせている想いの方が、大事であるのかもしれない。
「緋月ちゃんは寝ててもいいんだよ。休まないと、そのうち倒れちゃうでしょ」
居間のテーブルを挟んで向かい合い、ただその時を待って時計を睨んでいる緋月と飛鳥だ。しかし飛鳥がそう言うと、緋月はうなだれて大きな嘆息を吐いた。
「眠れると思います? それ、飛鳥さんだって同じでしょうに」
「……」
まあそれはそう。昨日も一昨日も、そうやって朝になった。飛鳥も思った。
「……お腹空かない?」
「……遺憾ながらどんなときでもそうなんですよのよね。目も覚めますし、お茶を淹れて来ましょうか」
緋月は顔を上げて立ち上がり、飛鳥はもう何度目になるかわからないのだが、また、部屋の時計を見た。
主のいない邸宅の居間で、柱に掛けられた古い時計が時間を刻む。その秒針がコチコチと音を立てて回っているのを見つめながら、欠伸を噛み殺す飛鳥だ。
いったい柚真人は何をしているんだ。という話は、緋月や優麻ともうなんどか繰り返していて、ネタが尽きた。
だが、はっきりとしたことはわからないままである。
ただ、司を取り戻すために必要なことをしているのだけは確かで、結局三人はそれを信じるより他になかった。
それとともに、ひとつ気になることがあって。
柚真人が本殿に籠ってから、池の鯉も姿が見えないのである。
池から出られない、と確か柚真人がいっていたと記憶している。では、池の鯉はどこへいったのか。
なにやら柚真人と激しく言い争っていて、その末のことであったから、柚真人がしていることは、池の神使たちともなにか関係があるのだろうとは推察できた。
あの時。
――たかだか神使の分際で!
そう叫んだ柚真人を見た時、飛鳥は、心底から畏れに近い感情を抱いた。
もちろん柚真人は自分とは違う。普段は友達のような、幼馴染のような関係ではあって、気安く軽口を言い合い、じゃれあったりもしてくれている。けれども、それはあくまで柚真人が飛鳥のために飛鳥に合わせてくれている部分もあってのこととは認識していた。けれど。
あの気迫。あの声。あの眼差し。あの冷気。
ビリビリと空気を震わせるような怒気と、あたりが凍りつくような殺気と威圧感。
ああ、こいつは本気で神使にも喧嘩を売れる。あるいは買う。それだけの力を備えた、人ではない存在なのだと。肌で感じた。
たとえ今、神使との間で何かが起きているのだとしても、あいつなら。ちゃんとすべてを解決するのだろう。そう信じたい。
――お前なら。大丈夫だよな。
一抹は、そこに自分が関わることはできないもどかしさも含みつつ、飛鳥が時計をなお見るともなしに睨んでいると、緋月がお盆の上になにやら載せて台所から居間に戻ってきた。
「――コーヒーとチョコレートにいたしましたわ。たくさん食べるとそれはそれで眠気がきますし」
あくまでも眠気は払っておきたいらしい緋月に、飛鳥はちょっと苦笑した。
緋月は、マグカップをそれぞれの手元に置き、小さな包装に包まれたチョコレートを盛った木製の菓子皿を置くと、自分もまた飛鳥の前に正座をし直した。
「今年で、二十五……二十六年になりますのね」
そう呟くように洩らし、緋月はマグカップを両手で抱えるように持つ。
飛鳥も自分用の置きマグカップを、手に取った。柚真人がなんでもあらかた寛大に好きにしていいといってくれているので、マグカップや食事用の箸など、ここには飛鳥と緋色それに優麻の私用の食器がいろいろと置いてある。
「俺たちも歳を取るわけだ」
そう受けて、飛鳥はちょっと自虐気味にも笑った。
司がこの社から失われた時、飛鳥と緋月は高校生だった。同じ制服を着て、同じ高校に通い、未来がこんなかたちになるとは思わず、柚真人と司との四人で、幼い恋や日々の他愛のない出来事に一喜一憂していた。
それは、懐かしい――というより、もはやどこか愛しさの募る記憶だ。飛鳥にとっても、緋月にとっても。
もとより人間とは違う寿命を生きていると、後程になって告白してきた笄優麻に至っては、時間の感覚や振り返る記憶に対する感慨は違うものかもしれないが――。
「……司ちゃん、さあ」
「……」
「今、どう……なっているのかな」
その時が近いと思うと、考えなければならなくなる。これまでは、状況があまりにもわからなかったので憶測しかできないことは考えないようにしていたことでもあった。それは。
「……わかりませんわ」
緋月が答えた。こればかりは、わからない。
確かにそうなのだ。
「神刀・佐須良が、あの時からわたくしたちのいるこことは違う時間を刻んでいたとして」
それは、未来視の巫女の予言とともに、立ててあった仮説だ。
司は神刀とともにある。その神刀は、複数のこの世のものとは質の違う力や術式が重なり合って乱れた時空の歪みに紛れた。
その果てでふたたび現世に戻るのであれば、神刀は、現世とは違う時間を刻んだはず。
自分たち勾玉の血脈を継ぐ者たちがその理で生み出す結界や、ときおり現世にあらわれ交錯する異界、幽世に属する数多の常世、がそうであるように。
世にいう、神隠し、などもこれに類する。ようするに神刀と司は、神隠しになった、とも言えた。
「それがどういうものであるのかは、時によりさまざまですもの」
例えば、本人にとっては数日の感覚で、何年も行方不明になったりすることがある。あるいは別の世界で同じような時間を刻み続けることもある。はたまた、何十年もの時間を過ごし、つい何日かの誤差で戻ってくることも。
「とにかく、今は。無事にここに戻ってきてくれさえくれれば……なによりもそれが先決ですわよ」
緋月の声色は、決然としていた。
「……それは、まあ、そうだね」
コーヒーのマグカップから立ち上る湯気を、ふう、とひとつ徒に吹いて、飛鳥も同意する。流れて消えていく湯気を目で追いながら、
「司ちゃん、元気だといいなあ」
「消えた時の状況から考えると、無傷、でいて欲しいですわ。そうでなければ、それこそ、どうなっているのか……今まで、考えたくはありませんので、深く考えないようにしてきましたけれど。桜御護の御姫様が、司は無事だとおっしゃっていて下さらなければ、とてもこんな心地ではありませんでしたでしょうね」
「…………」
そうだった。
最終的には、頼りにしたのは、勾玉の血脈の未来を見守る、預言の姫巫女の言葉だ。
そうしてその言葉はかならず違えず未来を語るという確信。
その夜も、やがてそのまま更けていった。
知らせの鈴は、まだ鳴らない。

