勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語

04

     ☆

「つかさはさあ」
 板の間にぺたんと座って向き合っている、男の子が口を開いた。
「つかさはさ、どうしてここにいるの?」
 名前を聞いたら、おもいだしてほしいと言われた。
 その後で、だ。
 思い出して欲しい、ということは。そのまえに、わからないのかと問い返されたことと併せて考えても、自分は、この男の子の名前を知っているということなんだろう。
 でも、自分には思い当たる節がない。
 この年頃の子供が、自分の身近にいたであろうか。もっとも、自分の名前さえこの男の子にいわれて、そうだっただろうか、と思ったくらいなのだから、自分の記憶もいまはあてにならない状況ではあったのだけれども。
 どうして――。
 考えてみた。どうしてだったろう。
 そもそもここはどこだろう。
 ふと気がついたら、自分はこの建物のこの部屋の中にいたのだ。その前は――。
 思い出そうとすると、にぶく、頭が痛んだ。
 何かが、瞼の奥にちらついた。
 なんだったろう。なにがあったろう。どうやってここに来たんだろう。
 なに、か。
 耳の奥に、遺っている。
 声、か。音、か。
 誰かの、声だ。


「……おれには、触れるな。……もう二度と」
 「お前は、おれの妹だ」
 頭の奥。瞼の裏。
 から。
 瞬くように、よみがえる。
 「妹だ」
 そう。
 そう言われた。
 その瞬間の、なんともいえない絶望感。
 と。
 後悔。
 と。
 罪悪感。
 そう。
 それから。
 目の前で、その人が倒れた。倒れて、そして。
  ――見つけた。
 そんな声がした。
 ――見つけたぞ。
 声は、ひとつではなかった。
 ――こんなところに潜んでおったとは。
 ――ひとのこどもの皮をかぶっておったとは。
 ――小賢しい結界なぞにも守られおって。
 ――みなのもの、ここにおったぞ。
 ――裏切りもののなれの果てじゃ。
 ――二度とこのようなよみがえりもできぬよう肉片ひとつになるまで引き裂いてやれ。
 ――我が先じゃ。
 ――いや、儂よ。
 ――待て、こちらこそ。そやつにどれほど眷属をほろぼされたか。肉片ひとつでもまだおさまらぬわ。
 ――それをいうたら妾もよ。
 ――永遠になぶりものにしてくれる。
 ――裏切者じゃ。
 ――うらぎりものじゃ。
 ――かかれ、みなのもの。
  耳もとにたくさんの喚きがみちた。
 どれもこれも、ぞっとするような敵意や害意、毒々しい怨嗟を孕んだものだった。
 そうして、あたりの空気が一変する。
 嫌な気配に首を巡らせると、まるであたりのなにもない空間があちこちぼろぼろとやぶれてほころびるように破けたかと思うとそこから次々と見たことも無いようなおどろおどろしい――生き物? ――化け物? ――妖怪? ――怪異? なんと呼んだらいいものかわからないようなものが雪崩れ込んできて。
 でも、恐怖ですくみ上ったのはほんの短い時間だった気がする。
 なぜならそのおどろおどろしい、禍々しい、絶対に良いものではない、悪意と害意と毒々しい瘴気にまみれたものたちが、自分ではなく、自分の目の前で倒れたその人に向かって行くのがわかったからだ。
 それらの意識は、すべてその人に向いていた。少なくともその時は。このままではその人がこれらのものに襲われる、とんでもないことになる、とわかった。だから。
 だめ、と思った。
 やめて、と。
 いくらその人でも、今の状態で、こんなものに襲われたら、どうにもならない。
 だめ。どうにかして、たすけないと。
 どうにかして、守らないと。
 でも、どうやって。
 あたしなんかが、どうやって。
 なんにもできない。その術がない。わからない。
 その人は、ずっとあたしを守ってきてくれたのに。
 あたしにはなにもできない。なんの力もない。
 ただの、臆病な厄介もの。
 でも。それでも。いやだからこそ。
 その人だけは。
 あたしのために、あたしのせいで、なんてだめ。絶対にだめ。
 守らないと。
 触らないで。
 その人に触れないで。その人は。
 おまえ、たちの。そんな、汚い手で、汚い欲で、汚い力で、触れていいものではない。触れていいものではない――。
 その瞬間。
 それらのものが、いっせいにこっちを見た。見た、というか、それらの意識が、いっぺんに、ざあっと、こっちを向いた。そう感じた。
 ――おまえ。
 ――巫女か。
 え。
 ――剣の巫女か。
 ――こんなところに。
 ――こんなところに。
 ――お前が先だ。
 ――巫女だ。
 ――巫女は。
 ――穢してころせ。
 ――犯してころせ。
 ――肉は儂にくれ。
 ――我にも。
 ――巫女のにく。
 ――若い娘だし、これは美味いぞ。
 ――では妾は血を。いただこうかの。
 ――穢してからだぞ。
 ――犯してからよ。
 ――ふたたび穢れてゆくさまを、そやつに見せてやろう。
 ――おおそれがよい。
 ――それがよいな。
 ――巫女を捕えろ。
 鳥肌が立つどころではなくぞおっとしたのを覚えている。全身を、視線と意識で、ねっとりとなめまわされたようで。
 けれども咄嗟に、それらの興味が一時的にであれ何であれこちらに移ったのは好都合なのではないかと思った。
 もし、これらが自分を追ってきてくれたら、ひとまずここから引き離せるかもしれない。
 だから足がすくみそうになるのは堪えて立ち上がり、走った。走ったら、それらは目論見通りざあっと自分についてきた。
 その瞬間に閃いたのは、本殿にある、御神刀。
 もちろん扱ったことはない。
 得体のしれない化け物たちには巫女だ巫女だと連呼されたが、そもそも自分はそれに足るようなものを持ち合わせていない。
 ただ、それ
 でも生まれた神社が御神体として祀っている神刀であれば、なんらかの武器になるのではないかと思ったのだった。だから屋敷を出て、本殿に向かうと、もうほとんど必死で御神刀を手に取った。
 途端。
 あ。
 ああ。
 この、神刀。
 この、刃を。
 自分は、知っている。
 触れるのは、初めてではない。
 そう思った。
 そして。
 この、昏い感情を知っている。
 このおぞましく醜く辛く、哀しみと怒りにも満ちた感情を、知っている。
 それを、この神刀は、その身に幾重にも封じている。
 それが、この神刀が神刀たるゆえん。
 この神刀に、自分は、触れてはならなかったのだ。
 触れれば、呑まれる。
 神刀が封じているものに。
 それは。
 自分の全部が、黒い闇色の何かに呑まれていくような。
 絶望。憎悪。憤激。
 刀に触れた瞬間に、それらがどっと自分の中に押し寄せてきた。それらは怒涛のような奔流で、とっさには押し返せない。有無を言わせない圧力でもって。浸食されて、心がくろぐろと灼けはじめ、ずぶずぶ爛れ穢れていく。
 だめ、いや。
 これは、だめ。
 おぼれてしまう。
 入ってこないで。あたしの中に入ってこないで。
 

 荒れ狂う嵐のような情動と、暗く淀んで重くまとわりくような怨念じみたもの。それがぐるぐると自分の中で渦を巻く。 
 つかさは耐えられなくなって、板の間に両手をついた。
 吐きそうだった。息がつまった。
 この世のあらゆる苦悶や悲嘆、悔やみと恨み、心痛、怨嗟、そういったものが自分の中に落ちてきてしまったような心地がした。
 同時にわかってもいた。これは、あの神刀が帯びていたものだ。触れた途端にそれはわかった。あの刀は、現世の穢れの全てを封じているのだ。
 そうして。
 自分の中の。どこかで。何かに。――封じられていた記憶に。
 ヒビが、入る。
「――いや……」
 我知らず、呟いたつかさの手の甲に、幼く小さな掌が被せられた。
「つらかったね。つかさは、つよく共鳴したんだ」
「きょ……なに……?」
「佐須良の穢れに、ね」
「……さ……?」
「もともと、きみの御霊には、御霊そのものに刻まれた、ある疵がある。きみのなかには、そもそも佐須良が長らく現世で封じ続けてきたものと同じものが眠ってた。それもあって、きみは佐須良が抱えていたものに呑まれてしまったんだ。……苦しかったろう」
 言われていることの内容は、あまりよくわからなかった。というか、理解がおいついていかなかった。
 その一方で、重ねられた掌からは、ふしぎと穏やかな温かさが感じられ、今はそれが辛うじて自分の正気をつなぎ止める浮き玉のようだった。小さなこどもの掌なのに、どうしてだろう。ひどく――優しい温かさで、泣きたくなる。
「――あのときも、そうだったね」
「――」
「つかさは、あの時も、ぼくを守ろうとしてくれた」
 あの時?
 あの時って、
 どの時?
「ぼく『たち』は、そのことをずっとちゃんと知ってたよ」
 同じことが。
 ああそうか。
 同じことが前にもあった――。
 あたしはそれを、忘れてた。ずっと。だって。こわかったの。この力が。自分のしたことが。それを知られてしまったことも。
 でも。あの時。あの時も。
 何か。抉り出されるみたいに、記憶の綴じ目が開かれた。そうだ。自分はもっと前にもこの刀に触れていた。触れてその穢れに呑まれて。
 逃げなさい。そう言われたけど出来なかった。目の前で何が起きているのかわからなかった。いやわかっていたのかもしれないけれど理解は及ばなかった。ただただ、なにか恐ろしく穢らわしいことが起きているのが感じられた。
 知らない男の人がやってきて、母様とーーーに乱暴をはじめた。母様は床のうえに押し倒されて服を脱がされていた。白い神職の装束を。ーーーはそれを止めさせようとしたけれど男の人に殴られて吹き飛んだ。
 逃げなさい、とまた言われた。男の人がこっちを向いた。そのときなぜか、ーーーに似てる人だと思った。それと、こわい、と。ーーーが呻いて立ち上がった。男の人はそれに気がついてーーーの方をみた。だめ。止めて。母様とーーーから離れて。そう思ったとき父様の声がして。父様が男の人に向かっていった。そこから何もかもめちゃくちゃだった。
 男の人と父様がもみくちゃになる。母様が裸で逃げ惑う。ーーーが男の人に捕まって、殴られて蹴られてごろごろ転がってきた。ーーーて駆け寄るとーーーもあたしに逃げろっていう。でもあたしがここから逃げられたとしてもその後でーーーや父様と母様がどうなるか。嫌な予感しかしなかった。ーーーたちを助けないと。やめてやめて。ーーーと父様と母様にひどいことをしないで。あなたは誰。なんでそんなことするの。そんな目でーーーと父様と母様を見ないで。
 そう思いながら震えていたとき、その刀が目についた。助けてあげるよ。そう言われているように感じた。だからあたしは、その刀があった、祭壇に、力の入らない手足で這って行って。
 そうして。
 そこから先の記憶は少し途切れてる。
 途切れてるというか、紗がかかったようにどこか遠い感じがあった。気がついたら血まみれでーーーがあたしを抱きしめていた。
 もういい。もういいんだよ。そう言いながら。何がいいの。そう思ったとき、ーーーの向こうにさらに真っ赤な血溜まりが見えた。床一面が真っ赤だった。まるで血の池がそこにあるみたいに。そしてそこに横たわる人。父様と母様とあの男の人。もうぴくりとも動かない。みんな、みんな寝てるみたいに。でも知ってた。これはあたしと刀がやった。あたしがやったの。あたしが。あたしが。
「あ……あ」
 それで守った、ですって?
 違う。
 あたしは無力にも諾諾と呑まれただけ。
 刀の中にあったものに。とてつもなくおぞましい穢れに。
 ただ、あたしも確かにそれを知っていて。その、おぞましくおそろしい穢れの基となるもの、声にもならないような怨嗟を、知っていて。知っているはずがないのに知っていて。
 だから滅ぼしたかったの。何もかも焼払いたかったの。許せなかったの。それで刀を振るったの。破邪の刃の使い方を、識っていたから。
「あ……あたし………………っ」
 忘れていたのか、逃げていたのか。おそらくはその両方なのだろう。
 そうしてまた、同じことを繰り返した。
 守らなきゃ、なんてよくいえたのもだ。
 これはそんなものじゃない。自分はこの力を制御できない。抑えてもおけない。
神刀からこの身に流れ込んできたものと、それに触発されてこの身の裡からもとめどなく溢れ出してくるもの。くろぐろととした穢れの凝りに自分が溺れ、正気が塗りつぶされていく。
「あたしが……っっっ……ぅ、ぁあ……っっ……」
「それはちがうよ。ここまでのことは、なにひとつきみのせいではない。それなのにきみを守れなかったのは、ぼくたちだ」
 ぼく、『たち』?
 そういえばこの子はさっきもそう言った。
 なんで、たち、っていうんだろう。
 たち、って。
 いったい、誰のことをいっているの。
 いろいろなことがいっぺんに頭の中に吹き上がってどうにかなりそうだし、このままきっとどうにかなる。そんな状態であるはずなのに、その柔らかい声だけがふしぎと穏やかに感じられ、胸の底に落ちてきた。
「ぼくもまた、わかっていたのにすべてをきみにおしつけてしまった。……ごめんね」
「――」
「大丈夫だよ。つかさは、大丈夫」
「――」
 床板に手をついてうずくまっていたつかさは、今度はその手に抱き寄せられたと感じた。
 目の前にいた男の子が、そうやってつかさをなだめるようにしてくれてる。
 相手はほんのこどもの姿をしているのに、年上の人か、おとなの人にそうされるみたいに、つかさは、頭の後を、よしよしとされるみたいに撫でられていて。
「……っ」
 その手つき。この温度と感触を。
 知って――いいえ。覚えて、いる。
 つかさは、弾かれたように顔をあげた。
 すぐ目の前に男の子がいる。
 つかさと目が合うと、男の子はにこっと笑い――。
「……ぁ……」
 ああ。
 そうだ。
 あなた。
 あなたを。
 知ってるわ。
 どうして。
 今の今までわからなかったんだろう。
 わからない、と思ったんだろう。
 そんなはずなかったのに。
 そう思った途端、頭に響く声があった。
 ――おれに、触れるな。
 ――もう、二度と。
 ――お前は、おれの妹だ。
 途端に胸が軋んで痛み、泣きたくなり、つかさは顔を歪ませた。
 でも。
「……ぉ」
 けれどつかさの口から何か音がこぼれるより早く、
「……ごめんね。それはぼくの役割ではない。だから託していくことにするよ。それより、ぼくがしなくちゃいけないのは」
 つかさの目の前で、彼が手指を動かす。それが何を意味するのかはわからないが、その仕草は何かの呪いのようだった。
 そして、続けてその口が紡ぐ。なにか、静かな言葉を。
 それは本当に小さく呟くような音だったので、つかさにははっきりとは聞き取れなかった。ただ、抑揚や韻律で、祝詞だ、ということは分かった。それと、『祓戸大神(ハラエドノオオカミ)』と何度か聞こえた。
「――本来、きみのちからはこうして使う。きみのためを思って、まだ伝えていなかったからと、勇さん――きみの父様が、ぼくに教えていってくれたのに、おそくなってごめん」
「――」
「手を出して」
 つかさを、強制的にではなく、穏やかに従わせる声色だった。
 つかさは、促されるままに、半ばはどこか茫然としたままでありながらも、両手を中空に差し伸べた。
「――生魂(イクタマ)、足魂(タルタマ)、玉留魂(タマトマルタマ)、国常立命(クニトコタチノミコト)」
 これも祝詞のひとつだ。
 そう思った時、司の両手には、いったいどこから現れたものか、ひとふりの剣があった。
 刀ではなく、剣だ。
 左右対称の造形をしていて、鞘は無い。古いものであるとわかる。材質は不明だ。
 鈍い銀色をしているが、鉄とも青銅ともつかない。
 ただ、重さがなかった。
 少なくともつかさにとっては。
「これが、きみの草薙の剣。草薙の巫女は、こうして、祓いの力を剣にして振るう。代々、力を継いだ草薙の家の巫は、自分の中にこういう剣を持っているのだそうだ。ぼくは、それ以外には草薙の社が受け継いできたものについては知らないけれど、――巫女は、剣そのものであると同時に鞘でもあるといえるのかもしれないね」
 ということは、これは、いま、自分の中から出てきたということだろうか。
 信じられない。
 そんな心地で、つかさは彼を見た。
「――あたしの、ちから?」
「そうだよ。きみは皇の巫女であると同時に、草薙の巫女だからね。きみの父様は、草薙の社の跡取りだった。そしてきみは最後の巫女。きみは、そのことも忘れているんだろうけど」
「――」
「いいんだ。忘れていることはもう二度と思い出さなくていい。ただ、この力の使い方だけは覚えていて。きみにはちゃんと力がある。きみの中に凝る穢れごと、ぼくがいま、この剣として引き出した。これできみの力はきみの意に反して暴れることはない。ちょっとの練習とか修練は必要だけどね。きみの中にあって、皇の佐須良に共鳴したものは、もともと、かつての草薙の巫女のものだ。だからこれでいいんだと思う。ほら。いまは楽に――なったでしょう?」
「!」
 言われて、そういえば、と意識した。
 いつのまにか。
 あれほど苦しかった身の裡が、嘘のように凪いでいる。
 でも。
「――ねえ。どうしてそんなことを知っているの」
 尋ねると、彼はまた、にこ、と柔らかく笑った。
「『ぼく』、が。いろいろなことを思い出したからかなあ。そして、ぼくが自由になれたから。でも、きみはもういい。きみは、あくまでもきみでしかないから。あの日の記憶も、ぼくが引き受ける。それにまつわる――きみの辛さも、苦しさも」
「――」
 よく、わからない。つかさはそう思った。
 あるいは少々ははぐらかされているのかもしれない。でも――彼の言葉なら無条件にでも信じるべきなのだろうとつかさは知っていた。
「剣をきみの中に還すときは、ひふみ祓(ハラエ)で。唱えてみて。――声にしなくても、大丈夫」
 ひふみ祓。
 祝詞の基礎の基礎なので、それはなんとかわかる。
 言われた通りに心中で、ひふみ祓の詞を唱えると――今の今まで手の上に在った剣が、燐光を帯び、揺らぎ、消えた。つかさの手の中に鎮まるように。あるいは陽炎か蜃気楼であったみたいに。
「剣はきみの中に還っても、きみの中に在り続ける。それがきみの祓いの力だからね」
 言われたつかさは、なんとなく自分の胸に手を当ててみた。あの剣が。この身のうちに?
 そんなことが、あるんだろうか――? 
 思うが、彼の言葉に限っては、疑う意味も理由もなかった。
 だって。彼は。
 だがつかさはふと気がついた。
 楽なっただろうと言われた自分は確かに楽になりはしたが、反対に彼の方が、どこか苦しそうだ。顔色も、よくない。
 やや血の気を失せた顔色で、ひどく疲れたように肩を大きく上下させるその様子は――なにか、おかしい。
 急につかさの表情がくもり、うかがうように彼を見たことに、彼も気がついたようだった。
「――はは。そろそろこっちが限界みたいだ」
 虚勢のようであるとはすぐにわかった。
 だがそれは彼も誤魔化す気はないようだ。
 そして、もう一度大きく深呼吸するみたいに肩で息をして、彼が言うには。
「あと、ふたつ。まだやることが――ある」
 続けて何かしようとしている。それを悟って、つかさは止めようとした。
「――まって。少し休んだほうが」
 明らかに無理をしているのが見て取れる。けれども彼は横に小さく首を振る。
「それはできない。時間が無いんだ。ぼくのちからも、もうあまり。これ以上は、継ぎ足してもらうわけにもいかないしね――」
 おそらく、さきほどつかさに施した何かの呪――祝詞でつかさの中から剣を出したり、つかさがみたび刀剣の力に狂わされそうになったのを止めたりしたことが、彼の体力なり霊力なりを削ったんだろう。
 だがそんなことにはかまわずに、
「ひとつは、これ」
 身に着けた白い着物の袂から、彼が何か取り出した。
「――それって」
 一振りの枝だった。
 彼の着物の袂に入れておけるほどの長さで手折られた。
 枝には、見覚えのある濃いつやつやとした緑色の葉がついている。
 それから、あの――彼が、触れてはだめだよといった、金色の、みかんのような実。
 差し出してくるということは、つかさに受け取れということなんだろうか。先ほどは咎められたはずなのに、今は、触れてもいいということだろうか。つかさは迷った。
「これは、非時香菓(トキジクノカグノコノミ)だよ」
 聞き慣れない音だった。
 つかさは眉根をよせた。
 てっきり、自分の知らない種類の蜜柑か、金柑の一種なのかなと思ったものだったのに。
「とき……?」
「詳しく説明している時間は無さそうだから省く。これを、きみに」
「触っても、いいの?」
 彼が頷いたので、つかさはそれを受け取った。
 鼻先を、やはり独特な甘い香りがくすぐった。本当に、いい匂いがする。
「これを、持ち帰って欲しい。ただし、ここでは絶対に口にしては駄目だ。絶対に、ここで食べてはいけない。約束できる?」
「――……」
 約束できる?
 何度か、かつてどこかでも聞いたことのある気がする、懐かしいものだとつかさは思った。
 今度はつかさが、こくんとしっかり頷く。
「どんなにか食べたいと思っても、駄目だよ。いいね? かならず、かならずちゃんと、持って帰ること」
 また、こくん、と。つかさは頷いた。
 だけど。
 そうはいうけど。
 帰れるのだろうか。帰る。ここから。どうやって。どこに。
 結局ここがどこだかもわからないのに。
 帰り、たい。
 急に不安を覚えたつかさに、彼は続けた。
「これは、きみのたすけになるかもしれないと思って、預ける。だけど、どうするかは、自分で決めていいからね。これが――ぼくにできる、きみにしてあげられる、最後のことだ。つかさ」
 名前を呼ばれた瞬間に、胸に生じた、痛みのようなものはなんだろう。
 ぎゅっと、胸が締めつけられた。つかさ。そう、呼ばれて。
 声の優しさ? いや。懐かしさ、だ。
「あとの、ことは。『彼』にまかせる。だから、きみはこの先、かならず、幸せに生きてほしい。ぼくのことは、二度とふりかえらなくていい。きみが、幸せなら、それでいいから。――ぼくだって、ぼくの方だって、同じく、ただそれだけを思っていままでここに留まってた。どうか。ちゃんと。自分のために、これをどう使うか、考えて。不要と判断したら社の池に戻せばいい。不要と思ってもいいんだよ。いいね?」
「――」
 それが。
 訣別をまとわせた言葉であることは理解できた。
 ああ、だから。
 名前を呼ばれて、胸が痛んだのだ。
 彼は、いってしまう。つかさにもそれはわかっていたのだ。だが――わからないことは、まだある。
 どうして。二度と逢えないようなことをいうの。あなたは、誰と誰の話をしているの。ここはどこで。どうやってここから、出られるというの。
 それは、つかさの口から言葉になって出てはこない。
 ただ、このまま彼を見送るしかないのだろうということと、このまま見送るしかないなんていやだという気持ちが、つかさの中にはあった。
 何も言えないつかさの前で、彼が膝をついてゆっくり立ち上がる。
「まっ――」
 待って。そう言おうとしたのだけれど。
「きみは、ここで待っていて。必ず、連れ戻すから」
「――」
 裾を払うような仕草で、袴をただす。そうして彼は、ここにつかさを導いた時とは異なり、ひとりで歩き出し、階を降りていった。
 その時だ。
 つかさは、少し目を擦った。そうしたところ、次の瞬間には、たしかにひとりだったはずの彼の隣に誰かいる。
 背丈は、彼と同じくらいだろうか。ならば同じ歳くらいのこどもであろう。そうして、彼と同じように、白い着物を身に着けている。お互いに、手を繋いで。
 誰、と思ったが。同時に、彼のとなりにいるのが誰か、自分は知っている、とも思った。
 彼はそこから、いまいちどつかさを振り返り。
「――きみが、抱えきれない記憶だけ。一緒に、ぼくがつれていく。――きみはすべて忘れていい。泣き止むことができないきみは、ずっとぼくと一緒だよ」
 ああ。そうだ。彼の隣にいるこどもは、ずっとずっと泣いている。
「――じゃあね」
 彼が、そう言って。あとはもう振り返ることなく歩き始める。どこへ行こうというのか、傍らのこどもの手をひいて、漆黒の玉砂利の上を。
 その時になって、やっとつかさは、彼の小さな背中に向かって声を発した。
「――――――まっ――待って! おいて…………おいてかないで…………ねえ! ――――柚真人! お……お兄ちゃん――――!!!」
 しかしもう、彼は振り返ってはくれない。
 昼と夜の間の色をしたまま変わらぬ空の下。遠ざかっていくその後ろ姿を縋るように見つめていると、やがてそれがぼんやり薄れ。
 空気に溶けるように、消えていく。
 ――あ、あれ。
 違う。
 ぼんやりとかすんでいくのは、自分の視界か。
 遠くなる。すべての感覚が。
 ――な、に?
 なんで。
 急に。
 いけない。
 つかさは、これだけは必ず持ち帰れと言われた、金色の実のなる枝をせめて絶対手放すことがないように抱きしめた。

 気が。
 遠のく。

 たすけて。
 たすけて、柚真人。
 薄れゆく意識の中で、つかさは、ふたたび、どこかで自分を呼ぶ声をがしたと思った。
 とても懐かしくて、優しくて、泣きたくなるような、声が。