09
柚真人はじっと水面を見ている。
そのまま、ひとつ、静かに、ゆっくり、深呼吸をしたように見えた。
そして。
「……みつけた」
かすかに零れ落ちて聞こえた、なんともいえない声。
同時に、その身体が、水の中に沈んだ。
いや――沈んだというか、おそらく水の中で膝を折ったのだろう。
水に浸かったのは、柚真人の身体の、胸のあたりまで。
ややあって、水面に波紋をひろげながら、柚真人が水の中から何かを携えて立ち上がった。
「――」
息を呑んだような気配は、颯のすぐ近くにいる優麻のものだった。
その気配からも、柚真人の様子からも、ただならぬものがそこにある、という空気が伝わってくる。
颯の目には、刀身――に、見えた。
わずかに湾曲したかたちの刃が美しい、鋼の色の、一振りの、刀。
それを、柚真人が、うやうやしい感じで両手に捧げ持つように水の中から持ち出したのだ。
その時にはさすがに水音がして、波紋が水面全体にひろがり、ぽたぽたと散り落ちる水滴からも波紋は幾重にも重なった。
ぴたぴた、ぽたぽた、という水滴の音は、どこかちりちりと鳴る鈴の音みたいだ。
一方で、少し信じられない心地も、颯にはあった。
そんなもの、自分たちがこの場所を捜索した時には間違いなく無かったはずだ。
あれば、いくらなんでも気がつかないはずがない。あんな、刃渡りにしてゆうに一メートルはあるだろう、刃物なんて。
そう、刃渡りはそのくらいあると見受けられた。
皇の御神刀は、普通の日本刀よりは少し大ぶりのものであるのかもしれない。ただ、どうして刀身だけなのだろう、鞘と束といったものはもともと無いものだったんだろうか、とも颯は思った。
でもそれは、今、颯が疑問に思って柚真人や優麻に尋ねたところであまり意味のないことなんだろう。そこに、いま、それがあること。ただそれだけが確かな事実だ。
水の中で柚真人がその刀身を捧げ持っている姿は、何かの儀式か、あるいは祭礼のようである。
だが――。
――あ???
そう思ったのは、颯だけではあるまい。
同じことは、優麻も、柚真人ですらも、きっと感じたはずだ。
少なくとも颯の目の前では、信じられないことが起こった。
柚真人の手の上にあった刀の刀身が。
なんといえばいいだろう。
ゆらり、と蜃気楼のように一瞬揺らいだように見えた。
そうして、確かに、今、そこにあったはずの、刀身が、陽炎のようになって――消えたのだ。
まるで、空気に溶けるように。今この目でみていたものがそもそも幻影であったかのように。
ええ???
と、颯は思う。
消え、た?
なんで?
いまの、なに?
そう戸惑う颯の思考をかき消すように、
「――柚真人さん!」
意外なほど大きな声で呼んだのは、優麻だ。
颯はびくっとなって一度優麻を振り向いたものの、優麻の視線がかわらず柚真人に注がれているのを見て、また柚真人を見た。
柚真人は、――一瞬、茫然、と呆けたようだったが。
すぐさま一転、厳しい形相になって、ぐ、と奥歯を噛み締めた。
同時にそれまで捧げていた手を下ろしながら、
「――クソ!!!」
下ろした手を、柚真人は水面に叩きつけるようにしてから、強く握りしめた。
一体何が起こったのか、颯にはわからない。いや最初からずっとわからないことの連続ではあるのだが、ただ、今の柚真人からするとこれはなにか想定外の出来事なんだろうと推測できた。
その時だ。
たぶん柚真人は、いったん水から出ようとして体の向きを変えた。
しかしその途中で、ふいに。
本当にふいに、がくん、と。
どういうわけかぷつりと糸の切れた人形のようになり、ばしゃ、という大きな水音とともに水の中に倒れ込んで――しまった。
☆
「――ダメだよ」
急に、すぐ近くで声がした。
「――!!?」
その声に驚いて、あたりを見渡した。
なに。
だれ。
だれかいるの。
そう思ってきょろきょろして、自分の後ろに、声の主がいることに気がついた。すぐにわからなかったのは、その声の主が、小さな子供で、自分の目線より低いところにいたからだ。
もっといえば、こども、というか男の子――なのだろう。歳は、小学生か、それより少し小さいくらいか。
まったく気が付かなかった。
いつのまにか、自分の背後のあたり、人の足でなら三歩ほどくらいであろう後ろに、その子供が立っていたのだ。
「――それは、ダメ」
その子が、もう一度、くっきりはっきりとそう言った。
そして、はっとした。
ダメ、というのは、自分が今手を伸ばしてわずかに触ってみた、この実のことだろうか。そう思った。
他に、思いあたることもない。
見渡す限りの生垣のような木々が、白い花とともに生らせている、金色の、ちいさな蜜柑みたいな実。
「――これに、触っちゃ、ダメ? ということ?」
振り返って、男の子に聞いてみる。
すると男の子は真顔で大きく頷いて、
「触ってもダメだし、食べたらもっとダメ」
と言った。
ひとつくらいなら食べてもいいだろうか――と思ったのを、子供に見透かされたようだった。そう意識すると、急に自分でも我に返った。
そうだ。そんなことをしてはいけないはずなのに、なんで目の前にある得体の知れない果実など食べたいと思ってしまったのか。
「――ごめんなさい。触らないし、食べたりしないわ」
そう答えると、あらためて男の子の方に向き直った。
男の子は、白衣に白い袴を身に着けていた。
その姿を見て、なぜだか、小さな神主さんみたいだな、と思った。
それにしても、この子はいままでどこにいたんだろう。
人の気配なんて、まるでしなかったのに。
ここに、住んでいる子供だろうか。
そう、内心で首を傾げると。
「――ぼくはね。ここで、きみを待っていたんだ」
にこ、と男の子が笑って言った。
その、笑顔を。
どこかで、いつか、見たことがあるような気がした。
☆
「――柚真人さん!」
先ほどよりももっと大きく声を張ってその名前を呼びながら、優麻も水の中へ入って行った。
颯には、止める間もなかった。
優麻はほどなく水の中から柚真人を引き上げ、颯があっけにとられて突っ立っているところまでやってきた。
その身体を抱きかかえながら跪くかっこうになった優麻は、自身ももちろんずぶぬれだが、それにもまして頭の先まで冷水に浸かってびっしょりになっている柚真人の白い頬をぺちぺち叩く。
「――柚真人さん」
颯も、すぐ傍から屈みこんだ
柚真人は気を失っているようだった。
その、血の気の失せた顔色や、仰のいた首筋を見て、颯は急に不安になる。
「――どう、したんです。救急車、とか。呼びましょうか」
ちょっと我ながら間の抜けたこと言ってるなと感じつつ、しかし普通はそうするのが最善だろうと、颯としては思ったのだ。
しかし優麻は、柚真人を抱きかかえ、その顔容に目を落としたまま、
「それにはおよびません。――いったん、神社にもどりましょう」
「――いいんですか。えっと、探していた、さっきのあの……刀とかは? あれは、どうなったんです?」
尋ねた颯に、優麻は答えた。
「少なくとも、もうここには存在しません。ですが、おそらく――」
思い当たる節はあるような口ぶりだった。
その後、柚真人は優麻がそのまま車まで運び、帰りの運転は颯がした。
皇邸に戻ってくると、橘や暁の神職たちが三人を出迎えたが、柚真人の意識はまだ戻らないままだった。
帰宅までの道すがら、颯は運転するのに必死だったし、優麻もとくに何も説明を重ねてはくれなかったから、颯としては、事情は変わらずわからない部分が多いままだ。
けれども、皇邸までたどりつくと、ひとまず陵の仕事はここまでで良いと優麻からいわれてしまい――。
その後、あの場所が、あの刀が、どうなったのか。颯が知ることができたのはもう少しあとのことになる。
ただ、ひとつ。
今回の件を通して、自分が皇の当主に対して持っていた印象が、少し、――いや、かなり変わった。
というよりも、皇柚真人その人に、自分が囚われたような気がした。颯自身の感覚が、以前から、皇柚真人という人を前にするたびに警告のように畏れていたのは、こういうことだったのかも知れない。
得体の知れなさ、底知れなさ、自分が面と向かうには余る力がそこに在る。あるいは忌避すべき危険な存在。
そう感じるのに、相反して、惹きつけられ、魅了され、目を離せなくなるような。
それは、そんな感覚だった。
柚真人はじっと水面を見ている。
そのまま、ひとつ、静かに、ゆっくり、深呼吸をしたように見えた。
そして。
「……みつけた」
かすかに零れ落ちて聞こえた、なんともいえない声。
同時に、その身体が、水の中に沈んだ。
いや――沈んだというか、おそらく水の中で膝を折ったのだろう。
水に浸かったのは、柚真人の身体の、胸のあたりまで。
ややあって、水面に波紋をひろげながら、柚真人が水の中から何かを携えて立ち上がった。
「――」
息を呑んだような気配は、颯のすぐ近くにいる優麻のものだった。
その気配からも、柚真人の様子からも、ただならぬものがそこにある、という空気が伝わってくる。
颯の目には、刀身――に、見えた。
わずかに湾曲したかたちの刃が美しい、鋼の色の、一振りの、刀。
それを、柚真人が、うやうやしい感じで両手に捧げ持つように水の中から持ち出したのだ。
その時にはさすがに水音がして、波紋が水面全体にひろがり、ぽたぽたと散り落ちる水滴からも波紋は幾重にも重なった。
ぴたぴた、ぽたぽた、という水滴の音は、どこかちりちりと鳴る鈴の音みたいだ。
一方で、少し信じられない心地も、颯にはあった。
そんなもの、自分たちがこの場所を捜索した時には間違いなく無かったはずだ。
あれば、いくらなんでも気がつかないはずがない。あんな、刃渡りにしてゆうに一メートルはあるだろう、刃物なんて。
そう、刃渡りはそのくらいあると見受けられた。
皇の御神刀は、普通の日本刀よりは少し大ぶりのものであるのかもしれない。ただ、どうして刀身だけなのだろう、鞘と束といったものはもともと無いものだったんだろうか、とも颯は思った。
でもそれは、今、颯が疑問に思って柚真人や優麻に尋ねたところであまり意味のないことなんだろう。そこに、いま、それがあること。ただそれだけが確かな事実だ。
水の中で柚真人がその刀身を捧げ持っている姿は、何かの儀式か、あるいは祭礼のようである。
だが――。
――あ???
そう思ったのは、颯だけではあるまい。
同じことは、優麻も、柚真人ですらも、きっと感じたはずだ。
少なくとも颯の目の前では、信じられないことが起こった。
柚真人の手の上にあった刀の刀身が。
なんといえばいいだろう。
ゆらり、と蜃気楼のように一瞬揺らいだように見えた。
そうして、確かに、今、そこにあったはずの、刀身が、陽炎のようになって――消えたのだ。
まるで、空気に溶けるように。今この目でみていたものがそもそも幻影であったかのように。
ええ???
と、颯は思う。
消え、た?
なんで?
いまの、なに?
そう戸惑う颯の思考をかき消すように、
「――柚真人さん!」
意外なほど大きな声で呼んだのは、優麻だ。
颯はびくっとなって一度優麻を振り向いたものの、優麻の視線がかわらず柚真人に注がれているのを見て、また柚真人を見た。
柚真人は、――一瞬、茫然、と呆けたようだったが。
すぐさま一転、厳しい形相になって、ぐ、と奥歯を噛み締めた。
同時にそれまで捧げていた手を下ろしながら、
「――クソ!!!」
下ろした手を、柚真人は水面に叩きつけるようにしてから、強く握りしめた。
一体何が起こったのか、颯にはわからない。いや最初からずっとわからないことの連続ではあるのだが、ただ、今の柚真人からするとこれはなにか想定外の出来事なんだろうと推測できた。
その時だ。
たぶん柚真人は、いったん水から出ようとして体の向きを変えた。
しかしその途中で、ふいに。
本当にふいに、がくん、と。
どういうわけかぷつりと糸の切れた人形のようになり、ばしゃ、という大きな水音とともに水の中に倒れ込んで――しまった。
☆
「――ダメだよ」
急に、すぐ近くで声がした。
「――!!?」
その声に驚いて、あたりを見渡した。
なに。
だれ。
だれかいるの。
そう思ってきょろきょろして、自分の後ろに、声の主がいることに気がついた。すぐにわからなかったのは、その声の主が、小さな子供で、自分の目線より低いところにいたからだ。
もっといえば、こども、というか男の子――なのだろう。歳は、小学生か、それより少し小さいくらいか。
まったく気が付かなかった。
いつのまにか、自分の背後のあたり、人の足でなら三歩ほどくらいであろう後ろに、その子供が立っていたのだ。
「――それは、ダメ」
その子が、もう一度、くっきりはっきりとそう言った。
そして、はっとした。
ダメ、というのは、自分が今手を伸ばしてわずかに触ってみた、この実のことだろうか。そう思った。
他に、思いあたることもない。
見渡す限りの生垣のような木々が、白い花とともに生らせている、金色の、ちいさな蜜柑みたいな実。
「――これに、触っちゃ、ダメ? ということ?」
振り返って、男の子に聞いてみる。
すると男の子は真顔で大きく頷いて、
「触ってもダメだし、食べたらもっとダメ」
と言った。
ひとつくらいなら食べてもいいだろうか――と思ったのを、子供に見透かされたようだった。そう意識すると、急に自分でも我に返った。
そうだ。そんなことをしてはいけないはずなのに、なんで目の前にある得体の知れない果実など食べたいと思ってしまったのか。
「――ごめんなさい。触らないし、食べたりしないわ」
そう答えると、あらためて男の子の方に向き直った。
男の子は、白衣に白い袴を身に着けていた。
その姿を見て、なぜだか、小さな神主さんみたいだな、と思った。
それにしても、この子はいままでどこにいたんだろう。
人の気配なんて、まるでしなかったのに。
ここに、住んでいる子供だろうか。
そう、内心で首を傾げると。
「――ぼくはね。ここで、きみを待っていたんだ」
にこ、と男の子が笑って言った。
その、笑顔を。
どこかで、いつか、見たことがあるような気がした。
☆
「――柚真人さん!」
先ほどよりももっと大きく声を張ってその名前を呼びながら、優麻も水の中へ入って行った。
颯には、止める間もなかった。
優麻はほどなく水の中から柚真人を引き上げ、颯があっけにとられて突っ立っているところまでやってきた。
その身体を抱きかかえながら跪くかっこうになった優麻は、自身ももちろんずぶぬれだが、それにもまして頭の先まで冷水に浸かってびっしょりになっている柚真人の白い頬をぺちぺち叩く。
「――柚真人さん」
颯も、すぐ傍から屈みこんだ
柚真人は気を失っているようだった。
その、血の気の失せた顔色や、仰のいた首筋を見て、颯は急に不安になる。
「――どう、したんです。救急車、とか。呼びましょうか」
ちょっと我ながら間の抜けたこと言ってるなと感じつつ、しかし普通はそうするのが最善だろうと、颯としては思ったのだ。
しかし優麻は、柚真人を抱きかかえ、その顔容に目を落としたまま、
「それにはおよびません。――いったん、神社にもどりましょう」
「――いいんですか。えっと、探していた、さっきのあの……刀とかは? あれは、どうなったんです?」
尋ねた颯に、優麻は答えた。
「少なくとも、もうここには存在しません。ですが、おそらく――」
思い当たる節はあるような口ぶりだった。
その後、柚真人は優麻がそのまま車まで運び、帰りの運転は颯がした。
皇邸に戻ってくると、橘や暁の神職たちが三人を出迎えたが、柚真人の意識はまだ戻らないままだった。
帰宅までの道すがら、颯は運転するのに必死だったし、優麻もとくに何も説明を重ねてはくれなかったから、颯としては、事情は変わらずわからない部分が多いままだ。
けれども、皇邸までたどりつくと、ひとまず陵の仕事はここまでで良いと優麻からいわれてしまい――。
その後、あの場所が、あの刀が、どうなったのか。颯が知ることができたのはもう少しあとのことになる。
ただ、ひとつ。
今回の件を通して、自分が皇の当主に対して持っていた印象が、少し、――いや、かなり変わった。
というよりも、皇柚真人その人に、自分が囚われたような気がした。颯自身の感覚が、以前から、皇柚真人という人を前にするたびに警告のように畏れていたのは、こういうことだったのかも知れない。
得体の知れなさ、底知れなさ、自分が面と向かうには余る力がそこに在る。あるいは忌避すべき危険な存在。
そう感じるのに、相反して、惹きつけられ、魅了され、目を離せなくなるような。
それは、そんな感覚だった。

