勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語

05
 
 
「……お前、何者だ」
 落ち着け。
 そう、自らに言い聞かせながら深くひとつ息をする。
 あたりまえだが、これが妹であるはずはない。
 司、ではない。
 落ち着け。
 そして、怒りと嫌悪を孕みながら限界まで抑えた声で、柚真人は問うた。
 本当は、返事など聞きたくもなかったし、その姿から返ってくるであろう声も、聴きたくはなかった。
 その姿をした者は、ご丁寧に一瞬かわいらしくきょとんとしたあと、なにをいっているの? とでもいうような顔になって、答えた。
 案の定、声までそっくりだ。
「……お兄ちゃん。あたしのこと、忘れちゃったの?」
 柚真人はその声を受け止めながら、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「ぬかせ。俺はお前なんざ知らん」
「ええ。ひどい」
「俺は何者かと聞いている。答えないならそのまま消し炭にするぞ」
「そうはいうけどぉ……あたしには手を出せないはずじゃあない?」
「――!」
 ねえ、お兄ちゃん。
 それは、もう一度そう言った。くすくす、と楽しそうに笑いながら。
 それが柚真人を逆なでするということも、ちゃんとわかっているようだ。
 そして妹の姿をそっくり真似た――といっていいのだろう――何かは、そうでいながら、たったいま、手を出せないはず、とも言った。ということは、こいつは知っているということだ。柚真人が、今現在の姿を取っているから相手に手出しができないというわけではなく、相手そのものに手出しができない状態である、そういう――という枷を、はめられているということを。
 むろん、皇の社の宮司として認められる範疇であれば、どのようなものと対峙するのも可能であるが、――それでは、こいつをどうにかするには及ばない、ということか。おそらくは、そういうことでもあるのだろう。
 柚真人は、眉根を寄せて相手を見返した。
 相手との距離は、二メートルほどあるだろうか。たったそれだけのところに、巫女装束を身にまとった司の姿をした何かが立っている。その正体は、現時点でわからない。ただ、あの小箱――が開いて空になっていたことを考えると、小箱の中にこれは潜んでいたはずだ。あの、掌に乗るくらいの小さな箱に。当然、妹の姿は化生あるいは変化。
 一瞬、柚真人は、あいつがいっていたのはこのことか――?
 とも考えた。
 目の前に、妹の姿がある。
 あいつとは、桜のことだ。先日、わざわざ忠告と思しき言葉を柚真人に伝えに来た、退魔の巫女。
 桜はこう言った。
 何を気にかけ、何をすべきか。貴方自身がするべきことを、間違えないようにね。もう、そう遠くないうちに、わかるわよ。
 遠くないうちに、わかるわよ。
 桜がいうなら司のことであろう。
 いや――。
 でも。
 あの時、桜が指摘したのは、柚真人の夢にかかわることであったはず。
 間違えるな。そう言われた時から、心して気は張っているつもりだった。
 ここから先の、日々の出来事の、何が、司の行方に繋がっているか。どうすれば司を取り戻すことができるのか。現状、まったくわからないからだ。
 違うか。
 これは司に繋がる道筋ではない、か。
 惑わされるな、とも柚真人は思った。
「ではこれには答えられるか? お前をここに運んだあの男は何者だ」
 素直に答えるとも思えなくはあった。訊いたのは念のためと、相手の反応を見るためだ。するとそいつは、司そっくりの姿のままに、大きく左右に頭と肩を揺らしながら答えた。
「しらなーい。ご主人様から何もきいてないもの」
 ――主人?
 柚真人はその単語を聞きとがめた。
「それがあの男か?」
「違うわ。そんな男がいたのなら、それは、ご主人様が選んだただの運び屋じゃないかしら。あたしはずっとあの小さな箱の中に入っているように言われていたから、よくはわからないけど。だからー、しらなーい、って言ったでしょ?」
 少しこちらを小馬鹿にしたように、そいつは言った。ただ、そのあたりから、相手の話し方や態度が司とはまったく違ってきていて、正直なところ柚真人も助かった。
 いくら違う、別物だ、と頭ではわかっていても、言動や仕草までもをそっくりに真似られては、気持ちの悪さが半端ない。抑えきれない怒りも溜まる。
 そもそも、何かの姿を真似る怪異や化生というのは少なくないが。相手が司の姿を取っているところからして、その姿かたちについてはこちらの記憶と感情を抜いているものと推測できた。そして司は、柚真人にとって、もっとも大事な存在であると同時に、もっとも――正体不明の存在相手にこれを認めるのは遺憾だが――自分の色欲や肉欲に繋がる存在である。
 化生は、そこを突いてくるのだ。人を、誑かすために。
「なら、主人とは?」
 重ねると、今度は、相手はちょっとむっとしたようだった。司の顔をした何かが、唇を蠱惑的に尖らせる。拗ねたように、
「いちいちうるさいわよ、お兄ちゃん」
「そりゃ、お前に気を遣ってやる道理はないからな。ついでにもうひとつだ。お前は、ここに何しにきた」
 まあ、それはさすがに訊かなくともといったところであったろう。相手はいったん口を噤み、ふん、という感じで柚真人を見てから。
「あたし? あたしは――ねえ――……お兄ちゃんを、食べにきたの」
「……クッ――ソ気色の悪いことを言ってくれる」
「なんで? 嬉しいでしょ? ついでに交尾してあげてもいいわよ?」
「――ハ、余計にクソだ。まどろっこしいこと言ってないで、さっさと正体を現したらどうだ。その姿で俺とやりあう気じゃあるまい」
「だから、交尾ならしてあげるっていってるのに。ねえ――そうしない? お兄ちゃん、したいんでしょう、この身体と」
「なわけあるか」
「その方がうんとずっと気持ちよくいられるのに。あたしに食べられているあいだ。絶頂したままでいられるわよ。……でも――」
 柚真人の視線の先で、司の姿をしたものは、するりと衣服を脱ぎ出した。
 しかしそれと同時に、ぶち、という何か嫌な音もした。
 なんだ、と柚真人は眉をひそめたが、それは一瞬のことだった。ぶちぶち、ぶちぶち、と音は続き、それにともない、目の前の司の姿が変化する。この音は、肉が弾けるような音だ。柚真人がそう思うのと同時に、司の、つまりは少なくとも人のかたちをしていたものの、主に下半身があちこち弾けながらかたちを変えていく。
 それを見ながら、柚真人はとっさに踵を返していた。一歩、二歩、と後退り、自分の左手に玄関までの廊下が見えたところでそちらの方へと走り出す。
 このままでは、動きが取れなくなる、なるべく広いところへ、と思ったからだった。
 同時に相手の正体もわかった。
 男の欲を記憶から抜き取り、その姿を真似て、誘い、食べる。――クモだ。
 柚真人は、屋敷を出て、神社の本殿と拝殿の横を抜け、参道の中ほどまで走り出た。
 そして振り返ると、拝殿と同じほどの大きさとなった禍々しい色合いのクモが、まわりのものをなぎ倒すように破壊しながらあらわれる。
 ここは、このクモの化生が生み出した結界の中だ。だから、まわりの景色は幻影のように写し取られて柚真人の目に映っているだけで、現実の世界で同じようなことが起こっているわけではない。結界の中にあるものがいくら壊されようが問題はないが――。
 訂正する。クソどころじゃない。
 柚真人はそう、内心で噛みしめた。前世ぶんの記憶も含めて大概のことには平常心でいられる自信がある柚真人だが、反吐が出るとはこのことだ。
 クモは、異様に生々しい質感で大きな腹を揺らしているものの、その腹の上から人間の上半身をはやしている。つまり本来ならクモの頭がある部分に、相変わらず司の姿をした、しかも裸の上半身がついているのである。
 さすがに目の前にその白い裸身が晒されているのは、それが化生の姿だとしても、否応なく堪えるものがあった。
 むろん同時に吐き気を催すような気持ち悪さや嫌悪感もあり、なんともいいようのない心地を、柚真人は抑える。あと、自分の記憶をも多少呪った。化生は、こちらの中にあるものを抜き取って具現化している。だからこれは、ある意味では自分の中にある妄想を鏡で見せられていることにもなるのだ。
「悪趣味な」
 柚真人はひとりごちるように呟いた。
 相手は、正確に柚真人の弱みを突こうとはしている。ということは。クモは、先ほど、主人といった。なれば主人は、柚真人のことをよく知っているというべきだろう。司に関することも含めて。
 そしてこれだけの化生が、主人という。それはいったい何者なのか。
 柚真人は、目の前に迫るクモの巨体と妹のものと見える素っ裸の上半身を睨みつけながら推測した。化生に主人と呼ばれるとすると、それを捕らえて支配するか、自ら生み出すか、といったところだろう。
 前者とするとこれだけのものを捕らえるのは難しい。後者とするなら――クモ――虫――ならば、蟲毒か。