07
☆
「……あの、宮司さん」
萌花がふと、柚真人に尋ねた。自分の言葉を神崎夏帆に伝え、この場で、しっかりと彼女を見送った後で。
空はすっかり白み、夜は明けていた。
いわゆるあの世とこの世が交錯し、その境目が少しあやふやになる時間帯の終わりだ。その変わり目の潮にのって、神崎夏帆は今度こそきちんと此岸を離れた。
「夏帆の言っていたこと、本当なんですよね?」
「本当、とは?」
「自殺じゃなかった。事故死だった、って」
萌花の方はどうしてもそれが気になっているらしい。そこは間違いないことなので、柚真人は肯定した。
「はい、事故でした」
「……どうして」
「理不尽なことは、いつ、だれのところにでも、起きえます。ただひとつ言えるのは、あなたのせいではないし、あなたにはどうすることもできなかった、ということでしょう。それもまた、残酷なことかもしれませんが」
萌花は、夏帆に、生きていて欲しかった、と言った。
夏帆には、それで充分だったことだろう。
「……ありがとう、ございました。お手数、おかけしました」
萌花はそういって、頭を下げた。その声は、今になって、やっと少し震えたように、柚真人の耳には聞こえた。
中里萌花が鳥居をくぐって境内を去っていくのを見送ったのち、柚真人は反対方向へむかって踵をかえす。
その時、ふと。
目の前に白いものがチラついた。
天候は夜半から重い曇天で、天気予報でもそのような予報はされていたが、雪――が、舞い出したようだ。
「――…………」
その瞬間、目の前に広がる光景が、柚真人の中で、遠い記憶に重なった。
いつぞやにも、こんなことがあった。
早朝、雪の舞い散る曇天の下で、――あれも確かその年の冬の少し早い初雪だった――あの時は、道ならない恋路の果てに自ら命を絶った女性を、見送った。
あれはまだ自分が高校生になったばかりの頃で、司もこの家にいた。司は、柚真人のしていること、つまりは家の稼業であるのだが、それに強い拒絶反応を示し、日々、怒ったようなそぶりのしたに怯えた顔を隠していたっけ。
伝えられずに、届く先を失う言葉がある。
思えばそれは、自らにも還ってくることだ。
柚真人は夜明けのぼんやりした薄く鈍い青色から、やがてすっかり白くなった雲に覆われた空を見上げた。昇ってきたはずの太陽を厚く隠してその輝きだけをうっすらと通す雲の下で、思うのは、消えてしまった妹のこと。
あの時。
まさかこんなことになるとは予想も出来ず、ただ司のためを思って、司に向けて放った言葉は、司に伝えたい言葉ではなかった。だが本当に伝えたい言葉は、司にだけは向けてはいけない言葉でもあった。だから柚真人は言ったのだ。撤回しろ、自分に触れるな、と。
今になって考えるに、では何をどう伝えるべきだったのか。答えがでているのかと言えば、そうでもない。柚真人は、まだ迷いの中にいる。
それでも、やみくもにでも司を取り戻さなければ、と思っている間は、なりふりかまわず、なにも考えずに、いられた。しかし現在、おそらく再会は間近に現実のものになりつつあるようだ。その可能性がやっと自分のもとにもたらされた時、柚真人はわずかながら怖さを覚えた。現時点で彼女に対して最後に向けたことになる自分の言葉を、そして態度を、彼女はどう受け止めたのだろう。その彼女が、自分に対していったいどう向き合おうとするのだろう。そして何より、ふたたび確かに彼女とまみえたとき、自分は、どうするべきなんだろう。
自分の伝えたい言葉は、まだ行き先を失ってはいないが。
取返しのつかないことになる前に、選択肢を誤るわけにはいかない。
だからといって、怯みはしないが。
ただ、ひとつ。
ここからの道筋を、絶対に、ひとつとして、何があっても、間違えないようにしなければならない。
そう、思う。
ふ、と空に向かって息を吐くと、それが白くなって、空気に溶けた。
境内は静まり返っていて、雪が次第にあたりの玉砂利を濡らしていく。
さて、とはいえとりあえずは日々の業務だ。
柚真人がそう思った時だった。
背後から、聞き覚えのある声がする。
「おおーい、ゆまとおー!」
振り向くと、その声の主、見慣れた顔の主がいた。
橘飛鳥だ。
そういえば、そろそろ職員の出勤時間か。いや、まだちょっと早い気がするが。と思った柚真人のところまで、飛鳥は傘もささずに急ぎ足でやってきた。
「てかどうしたの。こんな時間にこんなところで」
飛鳥は自らまだ少々早いのではと心の中に湧いた柚真人の考えを肯定した。
「それは話せばちょっと長いが。お前こそどうした。まだ早いだろう」
柚真人がいうと、飛鳥の返事はこうだ。
「おねがーい。朝ごはん食べさせて」
「は?」
「朝ごはん。今日、ちょっと余裕なくてさー。ほら、新嘗祭の時のご飯の友が、まだ残ってるでしょ」
「…………」
そりゃ、遺ってはいるし、食べてもらえればそれに越したことはないのだが。
それにしても、朝いちでやってきて朝ごはんはないもんだ。
「息子になんとかしてもらえよ、朝飯ぐらい」
と呆れ気味に返すと、飛鳥は情けない声を出した。
「息子ぉ、今反抗期でぇ」
「反抗期ィ?」
橘飛鳥は独身だが実は息子がいる。年齢はまだ高校生で、飛鳥とは同居しているはずだ。この息子がどうして未婚の飛鳥の息子なのかということはまた別の話で、話せば長くなる経緯が――ある。
「しょうがないな。俺もまだだし、これから米炊くからちょっと待ってろ」
ほんとうにしょうがないなあ、という気持ち半分、こいつらしいなあ、という気持ち半分、柚真人は答えた。
☆
「……あの、宮司さん」
萌花がふと、柚真人に尋ねた。自分の言葉を神崎夏帆に伝え、この場で、しっかりと彼女を見送った後で。
空はすっかり白み、夜は明けていた。
いわゆるあの世とこの世が交錯し、その境目が少しあやふやになる時間帯の終わりだ。その変わり目の潮にのって、神崎夏帆は今度こそきちんと此岸を離れた。
「夏帆の言っていたこと、本当なんですよね?」
「本当、とは?」
「自殺じゃなかった。事故死だった、って」
萌花の方はどうしてもそれが気になっているらしい。そこは間違いないことなので、柚真人は肯定した。
「はい、事故でした」
「……どうして」
「理不尽なことは、いつ、だれのところにでも、起きえます。ただひとつ言えるのは、あなたのせいではないし、あなたにはどうすることもできなかった、ということでしょう。それもまた、残酷なことかもしれませんが」
萌花は、夏帆に、生きていて欲しかった、と言った。
夏帆には、それで充分だったことだろう。
「……ありがとう、ございました。お手数、おかけしました」
萌花はそういって、頭を下げた。その声は、今になって、やっと少し震えたように、柚真人の耳には聞こえた。
中里萌花が鳥居をくぐって境内を去っていくのを見送ったのち、柚真人は反対方向へむかって踵をかえす。
その時、ふと。
目の前に白いものがチラついた。
天候は夜半から重い曇天で、天気予報でもそのような予報はされていたが、雪――が、舞い出したようだ。
「――…………」
その瞬間、目の前に広がる光景が、柚真人の中で、遠い記憶に重なった。
いつぞやにも、こんなことがあった。
早朝、雪の舞い散る曇天の下で、――あれも確かその年の冬の少し早い初雪だった――あの時は、道ならない恋路の果てに自ら命を絶った女性を、見送った。
あれはまだ自分が高校生になったばかりの頃で、司もこの家にいた。司は、柚真人のしていること、つまりは家の稼業であるのだが、それに強い拒絶反応を示し、日々、怒ったようなそぶりのしたに怯えた顔を隠していたっけ。
伝えられずに、届く先を失う言葉がある。
思えばそれは、自らにも還ってくることだ。
柚真人は夜明けのぼんやりした薄く鈍い青色から、やがてすっかり白くなった雲に覆われた空を見上げた。昇ってきたはずの太陽を厚く隠してその輝きだけをうっすらと通す雲の下で、思うのは、消えてしまった妹のこと。
あの時。
まさかこんなことになるとは予想も出来ず、ただ司のためを思って、司に向けて放った言葉は、司に伝えたい言葉ではなかった。だが本当に伝えたい言葉は、司にだけは向けてはいけない言葉でもあった。だから柚真人は言ったのだ。撤回しろ、自分に触れるな、と。
今になって考えるに、では何をどう伝えるべきだったのか。答えがでているのかと言えば、そうでもない。柚真人は、まだ迷いの中にいる。
それでも、やみくもにでも司を取り戻さなければ、と思っている間は、なりふりかまわず、なにも考えずに、いられた。しかし現在、おそらく再会は間近に現実のものになりつつあるようだ。その可能性がやっと自分のもとにもたらされた時、柚真人はわずかながら怖さを覚えた。現時点で彼女に対して最後に向けたことになる自分の言葉を、そして態度を、彼女はどう受け止めたのだろう。その彼女が、自分に対していったいどう向き合おうとするのだろう。そして何より、ふたたび確かに彼女とまみえたとき、自分は、どうするべきなんだろう。
自分の伝えたい言葉は、まだ行き先を失ってはいないが。
取返しのつかないことになる前に、選択肢を誤るわけにはいかない。
だからといって、怯みはしないが。
ただ、ひとつ。
ここからの道筋を、絶対に、ひとつとして、何があっても、間違えないようにしなければならない。
そう、思う。
ふ、と空に向かって息を吐くと、それが白くなって、空気に溶けた。
境内は静まり返っていて、雪が次第にあたりの玉砂利を濡らしていく。
さて、とはいえとりあえずは日々の業務だ。
柚真人がそう思った時だった。
背後から、聞き覚えのある声がする。
「おおーい、ゆまとおー!」
振り向くと、その声の主、見慣れた顔の主がいた。
橘飛鳥だ。
そういえば、そろそろ職員の出勤時間か。いや、まだちょっと早い気がするが。と思った柚真人のところまで、飛鳥は傘もささずに急ぎ足でやってきた。
「てかどうしたの。こんな時間にこんなところで」
飛鳥は自らまだ少々早いのではと心の中に湧いた柚真人の考えを肯定した。
「それは話せばちょっと長いが。お前こそどうした。まだ早いだろう」
柚真人がいうと、飛鳥の返事はこうだ。
「おねがーい。朝ごはん食べさせて」
「は?」
「朝ごはん。今日、ちょっと余裕なくてさー。ほら、新嘗祭の時のご飯の友が、まだ残ってるでしょ」
「…………」
そりゃ、遺ってはいるし、食べてもらえればそれに越したことはないのだが。
それにしても、朝いちでやってきて朝ごはんはないもんだ。
「息子になんとかしてもらえよ、朝飯ぐらい」
と呆れ気味に返すと、飛鳥は情けない声を出した。
「息子ぉ、今反抗期でぇ」
「反抗期ィ?」
橘飛鳥は独身だが実は息子がいる。年齢はまだ高校生で、飛鳥とは同居しているはずだ。この息子がどうして未婚の飛鳥の息子なのかということはまた別の話で、話せば長くなる経緯が――ある。
「しょうがないな。俺もまだだし、これから米炊くからちょっと待ってろ」
ほんとうにしょうがないなあ、という気持ち半分、こいつらしいなあ、という気持ち半分、柚真人は答えた。

