勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語

03
 
 
 グラスの中身を飲み干すと、柚真人は次の飲み物をオーダーしてから、水月にこぼした。
「毎度、やり残したことがある、と言われる。それがなんなのか――それだけでも、わかればな、と思うんだが」
 そう。
 子供の姿の自分の夢を見ることはもちろんなのだが、なによりもそれが、柚真人の気がかりになるところだった。
 やり残したことがある。
 その言葉は、どこか警鐘のような響きを柚真人の胸に残していた。いつも。それはとても大事なことのような気がして、なにか、ひっかかりを覚えるのだ。しかし、柚真人自身が考えても、わからない。自分の中から返ってくる答えがない。自分のことであるはずなのに。
 なれば、自分と『柚真人』がずっと隔てられていたせいで、なお思考としてそこに分断があるものと仮定してみるとしよう。
 だとして、『柚真人』がそこまで執着することがあるとすれば、それはやはり司のことではないだろうかと思う。
『柚真人』は、夢の中では、ぼくはきみ、きみはぼくだよ、ともいう。
 そうであれば、むしろなおさら。
 もしその感覚が正しいのであれば、よけいに、『柚真人』がいうやり残したこと、そのために夢の中にあわられて、何度でも自分と逢う理由を、柚真人自身も知らなければならないような気がするのである。
 この夢が、自分自身の中で生み出された罪悪感や自責からの何かなら、自分自身にそれが手繰れないはずはない。そう思い、一度は水月に正式な診察もしてもらったのだ。しかし水月は、柚真人の中にかつてのような精神的な問題はない、と診断した。
 水月は、神職能力をもたないだたの医者だ。だから、心霊的な見地から、魂の在り方や、前世現世の分断などはわからない。
 まあ、精神医学的な見地から前世の研究を行っている人間や研究機関もあるけれど、そちらも水月の専門分野ではない。
 だとして、自分に診られる範疇での医学的な見地からは、現在の皇柚真人はただひとつ、正常なひとつの精神としてそこにある。幻覚や幻聴に悩まされるような兆候もない、と。
 とすると、答えは。
 柚真人の夢の中に現れる『柚真人』は今の柚真人とは別の――別の、というのも妙な話だし、それはそれで正確な表現ではないのだろうが――かつては柚真人とともにあった人格、ということになる。
「そもそも、俺があいつを喰って取り込むまで。あいつはずっと眠り続けていたんだぞ。俺はあいつを守っちゃいたが、その間、あいつはうんともすんともいわずに、全部俺に預けてた。それが、急に目覚めて俺に向かってあれこれ喋り出す、なんてことがあるか?」
 それも、柚真人の中にある疑問だ。
 なにしろ、柚真人は今の自分になるために、分かたれた人の部分である自分を喰い殺した。その感覚も、自覚も、ちゃんとある。それは偶さか、鬼から人に生まれ変わったはずだった皇柚真人の霊魂が、暁圭吾の手によって、ふたたび意図的、人為的に人と鬼とに分けられたから出来たことでもあった。
 柚真人の問いに、水月は応じて、言う。
「逆に、それは本当に、『そう』なの? ……逆に、柚真人くんが、『そう』思い込もうとしているということはない? つまり、引き継いだ前世の記憶に引きずられて、自分は人ではないものなんだ、と」
 まあ、その可能性も水月からは考えられることなのだろう。
 だが、と。
 柚真人はすっぱり答えた。火を見るよりも明らかな答えが、水月の目の前にはあるはずで。
「――それなら、俺は人の理になお縛られているはずだ。今の俺を見て、そうは思わないだろ?」
「……まあ、そうよねえ」
「それに、俺が人なら本庁の鎮護官どもだって何度も俺に警告じみたことはしないだろうし、監視もしないだろうさ。なにより、今の俺は奴らに信用されていない」
 大学時代から容姿をすこしも変えていない柚真人を見れば、水月にも答えは明白だった。今の皇柚真人の中には、人の魂はない。純粋にして、かつて最凶を誇った鬼の御霊だけがある。
 水月は唸り、少し考えるような仕草をした。
 その後で、カウンターテーブルの上に載せた指の爪を覆ったネイルで、とんとんと何度かテーブルを叩き、
「じゃあ――たとえば、それこそ幽霊みたいなものだとは――考えられないかしら」
「……ゆうれい?」
「そう」
 水月は大きく頷いた。
「高校生だったころ、君の身体の中には、ふたつにわかれた人格が生きていた。そうよね? その時には、何某かの障害……君は、私の父が現代医療を代替手段にして施した霊的な呪術の一種だというけど……とにかくそういうものがあって、君は別の人格であり存在となってしまった『柚真人』くんは、覚醒することができなかった。そのくびきのようなものから、『生』と『死』の境界線を越えたことで、逆に解放されて、『柚真人』くんは『柚真人』くんとしてその意思を外に、君に、伝えられるようになった――とか」
「……俺が、自分でそうと認識できていないのに?」
「自分自身だからこそ、なんじゃない? そして、君が、君だから。……柚真人君は、死者とその御霊のことについてなら、誰よりよくわかっていると思っているでしょう? それに、自分自身についても、自分のことなんだから、わからないことなんてあるはずがないと。でも、そんなはずはない、という思い込みは、存外、自分を強く拘束して視野を狭くするものよ」
「つまり、俺自身の中に、あれの――……幽霊――普段は、そういう言い方はしないけどな? が――いる状態、ってことか?」
 柚真人は、眉根を寄せて、水月の言葉を咀嚼しようと試みた。
 確かに、生きている時に縛られていた障害から、死ぬことによって解放されるという例はある。主には、それは人の御霊がその属する肉体に縛られるから、ということになるが、施された呪術もあるいはそれに類する障害といえば障害なのかもしれない。もっとも、他者から施された呪術は肉体だけでなく御霊にも及ぶことの方が多く、そこが厄介なところなのだが――『緋の禍鬼』としての記憶と力に覚醒した柚真人自身の霊力が、『柚真人』を呪縛した暁圭吾の力を凌げば、あるいは。考えられない話、でもない。
 柚真人は、死者を祓う巫だ。
 道を迷い、何かをこの世に遺して引きずる死者の御霊を黄泉路に送る。
 けれどもそれは、あくまで柚真人と対峙する存在に対して、である。
 自分の中に、自分の幽霊がいる、などということもは、言われてみれば、考えない。
「なにか、やり残した目的がある、というんでしょう?」
 水月は、柚真人にそうも向けた。
「それって――むしろ、幽霊っぽいって思ったけど。私はね。……だって、幽霊って、そういうものじゃない?」
「――……」
 やり残したこと。
 もう、少しの間だけ。
 柚真人は、自分の中で、自分――というか、『柚真人』が繰り返す言葉を、反芻した。
 ――幽霊、ねえ。
 案外と、正しい線なのかもしれない。
 そう思えは、夢の中の子供の姿をした――あるいは子供の姿のままであるのがその御霊の在り方なのか――『柚真人』のふるまいに、ひとつの筋を感じられなくもなかった。
 ただ、柚真人にとっての問題の本質の方は、そこではない。だとしたら、『柚真人』のいう、やり残したこと、というやつは、どうしたら聞き出せるだろう、ということが、どうしたってやはり問題になってくる。
 聞き出さなければならない気がするのに。それを知らなければならないような気がするのに。
 『柚真人』には、肝心のその部分をは、こちらに伝える気がないということか。
 そう、柚真人が考えを巡らせていると、オーダーしていた飲み物が、カウンター向こうから差し出された。タンブラー型のグラスの中身は、ハイボールだ。
 その時、いまさらもいまさらになって、水月がふと思いついたとでもいうように、訊いてきた。
「――そういえば柚真人君、今日、車じゃないのね?」
  柚真人は、軽く瞠目して水月のことを見返してしまった。
 ちなみにこのテーブルでアルコールをオーダーするのはこれで三杯目だ。
 車だったら問題だろう。
 柚真人はグラスを手元のコースターの上へと運びながら、それこそいまさらだなあと表情をそこから苦笑へと変えて応えた。
「だから、帰りは運転手を呼んである」
「――あら」
「そろそろ来るんじゃないかな」
 誰の事かは、水月にであればすぐにわかるだろう。
 それでなくとも、こんな時にこんなところに柚真人が運転手などと称して呼ぶ人間は、限られている。
 水月は、
「へえー。ひさしぶり!」
 といって、ちょっとかなり楽しそうな表情に――なった。