08
☆
言われた通りに村を出て、言われた通りのところで車を停めた。
車のエンジンはかけっぱなしで、フロントライトがいま来た方向に向けられ、道路とその両脇に林立する鬱蒼とした樹木が少し先まで見えている。
飛鳥は車を降りて、空を仰いだ。ここまでくると、空も夜の闇色だった。
それでも、少し夜明けが近いのだろうか。フロントライトが照らす路面から顔を上げて空を仰げば、その一隅が、青みをおびていた。音はない。
飛鳥に遅れて、優麻も車を降りてきた。二人は、しんと静かな空気の中で、フロントライトが照らす先を見つめてしまう。
それからほどなくして、
「……あれ」
飛鳥がそう洩らしたのは、あたりに霧が立ち込めてきたように感じたからだ。
「……霧……?」
霧は濃くなり、次第にあたりを覆っていく。
車を停めたのは、柚真人のいうところの境界線、ライトを頼りにした視線の先に、まだうっすらと道の上に垂れているロープが見えているくらいのところだった。しかし、そのロープが、気づけば霧に遮られて見えなくなっている。
そのまま視界がなくなってしまいそうになり、飛鳥はなんとなく車のボディに手をやった。ひんやりとした感触。その向こうにある優麻の姿は、なんとなく見えている。
それでもやや確かめるように、
「……優麻さん? ……いる、よね?」
と呼びかけてしまうと、
「ええ」
そう、優麻が応える声がした。
飛鳥と優麻は車の両脇に立ち尽くすかっこうで、そのまま、霧に包まれた。
もどかしい時間が過ぎていく。
やがて、空の青っぽい明るさが増してきたな――と飛鳥は思った。そうすると、あたりもうっすら青みをおびて明るくなっていく。
ああ。朝が、来るんだ。
ふと、そんなふうに覚えた心地は、思いのほか飛鳥をほっと安堵させるものだった。
あいかわらず自分も車も優麻もあたりも霧に包まれてはいる。それでも、まわりの空気や景色がいちようにきちんと夜明けの明るさを孕んで夜が退いていく気配が感じられることが、人の心になんと安心感をもたらすものか。
その時だ。
ばさ、がさ、と。それまでまったくの無音といってもいいくらいだった世界に、急に音がして、飛鳥はびくっと驚き、音のした方を見た。
「……え。鳥……?」
急に。本当に急に、だ。草むらから、鳥が飛び立ったようだった。
途端――そう認識したせいだろうか。鳥の、さえずる声もするし、そういえば虫の声もする。季節はまだ秋なのだ。
音が、――『戻った』――?
そんなふうに、感じた。
そして、それはおそらく正しかった。
「……ああ。飛鳥くん、ほら」
優麻が言い、その声に飛鳥が優麻に視線を戻した時には、夜明け前に霧に包まれた時よりも、優麻の姿がはっきり見えた。
優麻はまだ点灯していた車のライトが照らす方向を見ており、飛鳥もまたそちらに目を――向けると。
「……」
青い、夜と朝の狭間を満たしながら漂っている霧の向こうに、鮮やかに翻る白い色と、人影が見えた。
それは、もちろん。
「……ゆ」
柚真人と、飛鳥が呼びかける前に。人影はこちらへ向かって歩いてきながら、片手を上げる。
その右手には、宮司の祓えの具である大麻だけが携えられていた。
ああ。
ちゃんと。
皇の、宮司として。
戻ってきたんだな。
飛鳥には、そんなふうに思えた。
その時の飛鳥の表情が、柚真人にはどう見えていたものか。さらさらという大麻の紙垂の束が奏でる音が耳に届くくらいのところまでやってきた柚真人は、
「――なんて顔してやがる。俺は大丈夫だと言ったろう」
そう言って、まるでこどもをなだめるみたいな面持ちで――笑った。
その背後で、霧も晴れていく。
流れて消える煙のように急速に晴れようとしている霧の向こう、道の奥。あたりが夜だった時には見えていたあの垂れ下がったロープがなくなっていることに、飛鳥は少し遅れて気がついた。
宮司の帰還と朝の気配にともなうように、車の後部座席に乗せた女性たちが目を覚ました。
事情を尋ねると、やはり興味本位でやってきて迷い込んだということだったようだ。友人からの頼みで探しに来た神職だというと、彼女たちは余程怖い思いをしたためか素直な反省を示した。
そのまま彼女たちを東京まで一緒に連れ帰った後、彼女たちは家族や警察にも事情を説明しなければならないだろうが、それはまた別の話となる。
三人が、その後、朝もすっかり明けた頃になって神社に帰りつくと、暁緋月が神社を預かりながら待っていた。そして優麻は、柚真人と飛鳥を神社で降ろすと、自分の仕事に戻っていく。
これも――皇神社の日常だ。
「は――――……さっすっが、に! ねむい」
帰社してそのままの出勤となる飛鳥が、柚真人と肩を並べて神社の参道に向かいながら呟くと、
「ああ――そうか。少しくらいなら寝ててもいいぞ」
と、柚真人が苦笑いを含ませたような声で言った。
柚真人のその反応に、飛鳥は欠伸を噛み殺しながら思う。
そうか、と柚真人が言うのは、今の柚真人には飛鳥と同じような睡眠は必要がないからだ。
とはいえ、深夜から朝にかけての出来事を思えば柚真人にも相当の消耗はあるはずだし疲労も感じているだろう。それでも、飛鳥ほどには疲弊も消耗も感じない。
数十年前、同じ場所で、飛鳥を助けた。その時から、ほとんど変化のない姿。それを見つめて、飛鳥は言葉にならない嘆息のようなものを飲み込んだ。
その姿はもとより、生き様こそが、美しい。彼の姿の美しさは、そこに苛烈にして孤高不屈の魂を宿すための器であるからこそなんだろう、と思う。
自分の、かつての恋敵――たりうると自分が一方的に思っていただけでとても叶うような相手ではなかったと後になって思い知らされてしまったが――であり、従兄弟であり、友人であり、上司であり、主であり、憧憬もを抱かせる者。そんな縁が彼との間にあることを、今は――愛しくすら、思う。
だからこそ。
願うだけしかできることがなくとも、飛鳥も諦めずにいたい。
「そうさせてもらおうかなあ――俺もたいがいおじさんにもなってきちゃったもんでねえ」
欠伸のかわりに返す言葉に、飛鳥は、これまでの来し方を思って込める。
ああ、柚真人。
どうか、どうか。
お前の、縁が。
この先、必ず。
彼女に繋がって――いますように。
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言われた通りに村を出て、言われた通りのところで車を停めた。
車のエンジンはかけっぱなしで、フロントライトがいま来た方向に向けられ、道路とその両脇に林立する鬱蒼とした樹木が少し先まで見えている。
飛鳥は車を降りて、空を仰いだ。ここまでくると、空も夜の闇色だった。
それでも、少し夜明けが近いのだろうか。フロントライトが照らす路面から顔を上げて空を仰げば、その一隅が、青みをおびていた。音はない。
飛鳥に遅れて、優麻も車を降りてきた。二人は、しんと静かな空気の中で、フロントライトが照らす先を見つめてしまう。
それからほどなくして、
「……あれ」
飛鳥がそう洩らしたのは、あたりに霧が立ち込めてきたように感じたからだ。
「……霧……?」
霧は濃くなり、次第にあたりを覆っていく。
車を停めたのは、柚真人のいうところの境界線、ライトを頼りにした視線の先に、まだうっすらと道の上に垂れているロープが見えているくらいのところだった。しかし、そのロープが、気づけば霧に遮られて見えなくなっている。
そのまま視界がなくなってしまいそうになり、飛鳥はなんとなく車のボディに手をやった。ひんやりとした感触。その向こうにある優麻の姿は、なんとなく見えている。
それでもやや確かめるように、
「……優麻さん? ……いる、よね?」
と呼びかけてしまうと、
「ええ」
そう、優麻が応える声がした。
飛鳥と優麻は車の両脇に立ち尽くすかっこうで、そのまま、霧に包まれた。
もどかしい時間が過ぎていく。
やがて、空の青っぽい明るさが増してきたな――と飛鳥は思った。そうすると、あたりもうっすら青みをおびて明るくなっていく。
ああ。朝が、来るんだ。
ふと、そんなふうに覚えた心地は、思いのほか飛鳥をほっと安堵させるものだった。
あいかわらず自分も車も優麻もあたりも霧に包まれてはいる。それでも、まわりの空気や景色がいちようにきちんと夜明けの明るさを孕んで夜が退いていく気配が感じられることが、人の心になんと安心感をもたらすものか。
その時だ。
ばさ、がさ、と。それまでまったくの無音といってもいいくらいだった世界に、急に音がして、飛鳥はびくっと驚き、音のした方を見た。
「……え。鳥……?」
急に。本当に急に、だ。草むらから、鳥が飛び立ったようだった。
途端――そう認識したせいだろうか。鳥の、さえずる声もするし、そういえば虫の声もする。季節はまだ秋なのだ。
音が、――『戻った』――?
そんなふうに、感じた。
そして、それはおそらく正しかった。
「……ああ。飛鳥くん、ほら」
優麻が言い、その声に飛鳥が優麻に視線を戻した時には、夜明け前に霧に包まれた時よりも、優麻の姿がはっきり見えた。
優麻はまだ点灯していた車のライトが照らす方向を見ており、飛鳥もまたそちらに目を――向けると。
「……」
青い、夜と朝の狭間を満たしながら漂っている霧の向こうに、鮮やかに翻る白い色と、人影が見えた。
それは、もちろん。
「……ゆ」
柚真人と、飛鳥が呼びかける前に。人影はこちらへ向かって歩いてきながら、片手を上げる。
その右手には、宮司の祓えの具である大麻だけが携えられていた。
ああ。
ちゃんと。
皇の、宮司として。
戻ってきたんだな。
飛鳥には、そんなふうに思えた。
その時の飛鳥の表情が、柚真人にはどう見えていたものか。さらさらという大麻の紙垂の束が奏でる音が耳に届くくらいのところまでやってきた柚真人は、
「――なんて顔してやがる。俺は大丈夫だと言ったろう」
そう言って、まるでこどもをなだめるみたいな面持ちで――笑った。
その背後で、霧も晴れていく。
流れて消える煙のように急速に晴れようとしている霧の向こう、道の奥。あたりが夜だった時には見えていたあの垂れ下がったロープがなくなっていることに、飛鳥は少し遅れて気がついた。
宮司の帰還と朝の気配にともなうように、車の後部座席に乗せた女性たちが目を覚ました。
事情を尋ねると、やはり興味本位でやってきて迷い込んだということだったようだ。友人からの頼みで探しに来た神職だというと、彼女たちは余程怖い思いをしたためか素直な反省を示した。
そのまま彼女たちを東京まで一緒に連れ帰った後、彼女たちは家族や警察にも事情を説明しなければならないだろうが、それはまた別の話となる。
三人が、その後、朝もすっかり明けた頃になって神社に帰りつくと、暁緋月が神社を預かりながら待っていた。そして優麻は、柚真人と飛鳥を神社で降ろすと、自分の仕事に戻っていく。
これも――皇神社の日常だ。
「は――――……さっすっが、に! ねむい」
帰社してそのままの出勤となる飛鳥が、柚真人と肩を並べて神社の参道に向かいながら呟くと、
「ああ――そうか。少しくらいなら寝ててもいいぞ」
と、柚真人が苦笑いを含ませたような声で言った。
柚真人のその反応に、飛鳥は欠伸を噛み殺しながら思う。
そうか、と柚真人が言うのは、今の柚真人には飛鳥と同じような睡眠は必要がないからだ。
とはいえ、深夜から朝にかけての出来事を思えば柚真人にも相当の消耗はあるはずだし疲労も感じているだろう。それでも、飛鳥ほどには疲弊も消耗も感じない。
数十年前、同じ場所で、飛鳥を助けた。その時から、ほとんど変化のない姿。それを見つめて、飛鳥は言葉にならない嘆息のようなものを飲み込んだ。
その姿はもとより、生き様こそが、美しい。彼の姿の美しさは、そこに苛烈にして孤高不屈の魂を宿すための器であるからこそなんだろう、と思う。
自分の、かつての恋敵――たりうると自分が一方的に思っていただけでとても叶うような相手ではなかったと後になって思い知らされてしまったが――であり、従兄弟であり、友人であり、上司であり、主であり、憧憬もを抱かせる者。そんな縁が彼との間にあることを、今は――愛しくすら、思う。
だからこそ。
願うだけしかできることがなくとも、飛鳥も諦めずにいたい。
「そうさせてもらおうかなあ――俺もたいがいおじさんにもなってきちゃったもんでねえ」
欠伸のかわりに返す言葉に、飛鳥は、これまでの来し方を思って込める。
ああ、柚真人。
どうか、どうか。
お前の、縁が。
この先、必ず。
彼女に繋がって――いますように。

