勾玉遊戯:緋の杜の鬼と巫女の物語

07
   
 
     ☆

 優麻が女性たちを車まで運んでも、彼女たちは目を覚まさなかった。
 人間にしては長くこの場所にいて、身体が、何某かの機能不全を起こしているのだろうと思われた。ありていに言うと、感受性の強い人間が、心霊スポットなどにいるとよくなる現象の強いやつだ。
 今は処置のしようがない、と柚真人が言うので、そのまま二人は車の後部座席に座らせるかっこうで寝かせておくことにした。
 柚真人は車から少し離れた場所に、祭壇を整え、大麻や供物を並べ終えると、死者祓の儀式を開始する。
 空の禍々しく赤い色をうつす真っ白な神職服で奉書紙をひろげ、唱えるのは、皇の宮司に伝わる黄泉送りのための祝詞――祓詞。皇の祭神である速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)を含む、祓戸大神(ハラエドノオオカミ)――祓戸四神へ向けて奏上する、言霊だ。
 ただ、この場所のこともあわせて考えると、柚真人の負担は大きかろう、と飛鳥は推し量った。
 皇の宮司は、この祝詞をもって、現世から黄泉、根の国へと道をつくる。だがここは、現世とは少し異なる、閉じた異界だ。
 そこから道をこじ開ける。
 柚真人がするのはそういうことで、祝詞を詠唱するにも相当の力が居るだろう。
 さらに、ここから送り出さなければならない死者の数も多く、その死にざまも悲惨なものだ。
 それらを一度、柚真人が受け止め、祝詞に載せて、祓戸大神に伝える。祝詞はそういう役目を果たす。死者の怨嗟や苦痛は、すべて、柚真人の中に落ちてくる。――そういうふうに、柚真人は言う。そして――自分にはそれを受け止められるが、かつて、司はそれを恐れたのだ、と。
 祝詞を奏上する柚真人の声は、その稀有なる容姿にも増して美しい。いつも聞き入る、と飛鳥は思う。とてもその言霊を朗々と張り上げながら、黄泉路を迷う死者の念を受け止めているとは思えない。
 その間、なにか派手な現象が起こるというわけではないのだ。祝詞の奏上は、ごく普通に神社の本殿で行われるものと同じだ。
 ただ、あたりの気配が次第に変わり、禍々しさや濁りが消え、清浄になっていくのが飛鳥にもわかる。
 柚真人が唱える祝詞に導かれて、あの時、ここに置いていってしまった自分の女友達たちも逝けただろうかと――飛鳥は思った。
 そうやって、どれぐらい祝詞の奏上が続いたろうか。これだけ大掛かりな黄泉送りとなると、奏上にあたって何度も繰り返される句がある。その度に、この場所に長く長く溜まりに溜まって淀んでいたものが、薙ぎ祓われるように澄んでいくのと比例して、柚真人が消耗していくのも飛鳥には見て取れていた。
 やがて、かしこみかしこみもうす、という言葉で祝詞はしめくくられ、最後に柏手がふたつ、打ち鳴らされる。
 音は透明度を取り戻した水のようになった空気の中を波紋を描いて響いていき、祓いの儀式は――終わる。
 そのまま、ひょっとするとさすがに柚真人でも倒れるんじゃないかなと飛鳥は従兄弟を慮った。
 飛鳥のすぐ隣で一緒に柚真人を見守っていた優麻も、おそらく同じことを考えていたのだろう、柚真人が柏手を打つと飛鳥より先にひとつ前へ出るようなそぶりを見せた。
 だが、柚真人はひとつ大きく深呼吸し、今一度、背を正したように見えた。
 そして、その後で、言ったのだ。
「――このまま、この常世(とこよ)を閉じる」
 飛鳥は、ぎょっとして柚真人の背中に声を発した。
「――――え?」
 しかし、柚真人は振り向かずに続けた。
「お前たちは、あの子たちを連れて先にこの村を出ろ。俺は、この場所を潰してから外に出る」
「――――は?」
「せっかく綺麗に祓ってのけたのに、またここに物好きな連中に迷い込まれちゃかなわないだろ」
 柚真人は少し冗談めかしつつのようにも言うが――この場所を、潰す? 常世を、閉じる?
 ひっかかったのは、今の柚真人にそんな余力があるのかということと、そんなことが柚真人に可能なのか、ということだ。
 飛鳥の口からは、その疑問が声になって、出かかった。
「だけど、そんなこと――」
 できるのか?
 柚真人は柚真人で、察してだったろう。
 そこで飛鳥と優麻を振り向き、どこか不遜に唇を歪めて見せる。――ああ、その表情。柚真人がやや危険なことをしようとしている顔だ、と飛鳥も察した。その答えを、柚真人の口が紡ぎ出す。
「――ここは常世であり、異界だ。そうであれば、現世(うつしょ)の理は『俺』を縛らない」
 つまり。
 皇の宮司としてではなく。
 異界の理に属するものとして、その力を使う、と。
 柚真人は言っているのである。
 飛鳥の理解では、それは、現在の皇柚真人に対して固く禁じられている行為であるはずだった。
 現在の皇柚真人は、人ではない。それでもなお、皇の巫であり続けることを許されるために、人としての範疇を越える力を行使することは禁じられているはずなのだ。
 だから、そんなことをして大丈夫なのか、と思ってしまったのだが、『ここは異界だ』と柚真人は言った。それが、柚真人の答えなのだろう。
 あるいは――別の考え方をすれば。柚真人がすべてを祓いのけたこの場所は、ある意味、柚真人の支配下に落ちたともいえる。となれば、人ではない柚真人が、密かに狩り場として利用することもできてしまう。
 そのように考える人間は、残念だが、味方であるはずの他の勾玉の血脈の継承者たちや統率機関の中にもいるだろう。その疑念を消すためにも、この場所を二度と現世と繋がれないようにしてかたをつける必要も、柚真人にはあったのかもしれない。
 今の柚真人は、『人』ではなく。『鬼』、なのだ。
 柚真人には――鬼としての前世があった。それが人として生まれ変わった『皇柚真人』から引き剥がされて、今の皇柚真人が生じた。それだけでなく、柚真人は自身で前世を覚醒したのち、なおひとつの躰の中に在り目覚めぬままでいた、自分を――喰った。
 前世に人として生まれ変わることを望み、長い時を越えてようやく人としての生を得たというのに、ひとつの躰の中で分かたれた前世の自分が、現世の自分を喰うことで鬼に戻ることを――選んだのだ。
 けれども、柚真人がそのような選択をして人から鬼に還ったのは、司のためでこそあったともいえた。
 司については、未来視の巫女が、生きていると断言していた。そして司は皇の神刀とともにある、とも。
 なのに皇の神刀は行方不明で、柚真人や未来視の巫女がどれほど探してもみつからない。
 他になんの手がかりもなく神刀を探し続けて、そこにひとつの仮説が立ったのだ。皇の神刀は、ともすると、時空を跳んだのではないか――と。ゆえに、今、この時という時間軸上には存在すらしていないのではいか。
 これはべつだん荒唐無稽なことではなかった。
 司は、失踪時、神刀とともに、この世のものではないものたちと退魔の巫たちとの、すさまじい乱闘に巻き込まれている。そこではありとあらゆる異界から現世にむかって孔が空き、退魔のために複数の術式が動いた。強力な術は、理を曲げる。例えば宇宙空間で小さな恒星がひとつ生まれたり消えたりするような力が、行使されるのだ。それが入り乱れたような状態のなかに、神刀があったのなら。あるいは。
 問題は、では、神刀はどこへ飛んだのか。
 どれほどの時空がねじれて、いつ、どこに神刀は現れるのか、ということになる。
 未来、であることは確実だった。
 なぜなら神刀は常にただひとつしかこの世に存在しないからだ。
  時間は不可逆を示している。
 しかし、その時点がわからない。これはおそらく、以前にも皇の神刀が行方不明になった時と同じ現象なのだろうとも思われた。
 柚真人が、自分が人として存在することを棄てる、と判断したのはそのためだ。未来視の巫女にもまだ判別がつかない、何時、に自分が応えるため。
 人の生や能力には人としての限界値がある。しかし柚真人には、それを越えることを可能とする手段があった。鬼であれば、その身は人のように老いることがない。ゆえに人よりはずっと長くこの世に在れるし、まして柚真人は神族にも匹敵する力を前世に内包している。
 たったひとりになったとしても。そのまま、この世で、どこまでも生きてでも、司を待ち続けるために。
 柚真人は人であることを棄てた。
 ただ、柚真人にしてみれば、それは司の本当の『兄』である『柚真人』を己が喰い殺したということにもなる。人である自分と、鬼である自分を選ぶにあたって、柚真人にとってそのことは多少気がかりになったようではあった。
 それほどの想いを見せつけられては、飛鳥としては、もはや太刀打ちなどできるものではないと引き下がるよりほかはない。柚真人が鬼としての自分を選び取ったことで、勾玉の血脈の継承問題をめぐる騒ぎもあった。その時には飛鳥も柚真人の傍にいたので、柚真人が神社本庁や宮内庁、他の血脈の継承者や鎮護官たちからどのような弾劾を受けたのかも知っている。それでも柚真人は揺るがなかった。その決断の固さ、重さ、苦しさ、難しさ、強さを思うと。
 どうかその手が、彼の全てを賭けてもまだ足りない――血を吐くほどの激しく切ない想いの先にある大切な彼女に届きますように、と。
 祈るような気持ちで彼を見守るのが、飛鳥にできるせいぜいだ。
 むしろ、今は。
 自分にそれが出来ている間に、柚真人の想いが報われるのを見届けたい。
 飛鳥はそう願う。
 だから今も、柚真人の身を、案ずるのだ。それくらいしか、飛鳥に出来ることはない。
「――早く行け」
 と、柚真人は言った。
「俺のことなら心配はしなくていい」
「――でも」
「――」
「――大丈夫だ。俺を誰だと思ってる。あと――そうだな、この村に入ってくる時に、三つの徴があっただろう。その外側まで出て、待っていてくれ。そこが、境界線だ」
 飛鳥と優麻は顔を見合わせた。
 柚真人が大丈夫だというのであれば、大丈夫だ。
 今はそれを信じるよりほかにない。また、柚真人がそう言った時、その言動を違えたことは一度もない。
 飛鳥は頷くと、優麻とともに車に乗り込んだ。意識のない女性二人は、後部座席にシートベルトで固定する。そうして自分は助手席に座り、ドアを閉める前に、もう一度柚真人へ向けて、
「――必ず戻れよ! 絶対だぞ! 待ってるから!」
 飛鳥は、赤い空の下で、柚真人が応えて軽く手を上げながら頷く後ろ姿を見た。