05
帰路に就いたとき、車内の時間のデジタル表示は午前2時ちょっとすぎを示していた。
山に入った時には日付を越えていて、あの場にはもっと長くいたような気がするから、今日という禁忌の日には、山の中は異界であると同時に時間の流れも現世とは切り離されたところにあるのだろう。もっとも、今の柚真人と優麻もまた、同じような幽世の時間を生きる身ではあるが。
村の領域を出ると、優麻が運転する車はふたたびライトを灯し、高速に乗る。
その間も、柚真人は黙って助手席に身体を沈めていた。そんな柚真人の横顔を、優麻はちらりと目で見遣る。
山の主の前を辞する時、柚真人は山の主に尋ねていた。
――その巫女は、剣を刷いていたか。
と。
山の主は肯と言い、
――恐ロシイ剣トトモニ在ッタ。
と答えた。
その答えの意味を、おそらく噛みしめているのだろう――柚真人は。こんなことがあるんだろうか、と優麻も思う。
同じように柚真人も感じているはずだ。しかし推定される時代に山の怪異を鎮めに来て、荒事を起こさずに場を収めた、『恐ろしい剣』と『共に在っ』た巫女となるとやはり思い当たるのはひとりしかいない。
「……俺と出逢う前から、変わらないんだな、彼女は」
そんなふうに、やっと、ふと、柚真人が呟いた。柚真人の方から何か声にしてくれなければ、そのことに優麻から触れるつもりはなかった。優麻とて、同じように、いやひょっとしたらその彼女よりずっとひたすらに変わらずいま隣にいる者を負い続けてきたのではあるけれど、柚真人にとっての優麻と彼女ではその存在がもつ意味も意義も経緯も変遷も違う。
「貴方と出逢う前、ですか」
対する柚真人は、小さく、どこか遠慮がちなくらいに小さく、ふ、と頷いた。
『緋の禍鬼』は、草薙の巫女と出逢って惹かれてより以降は、ずっと彼女のことを見ていた。そ
『緋の禍鬼』の記憶の中に、この山での出来事は刻まれていなかった。だから山の主が語った巫女が彼女であるのなら、『緋』と出逢う前の出来事であると推測できるのだ。
それにしても、そんなことがあるだろうか。
こんな、ときに。こんな、ところで。
千年以上もの時を越え。偶さか触れた彼女の痕跡。
だからこそ、それは柚真人の心を焼くだろう――と、優麻は考えた。
今の柚真人は、必ず、必ず、未来にふたたび彼女を取り戻す、と。それを頼りに、生きている。
その確信を抱くからこそ、今は彼女への募る想いや悔いや怒りや焦りを黙らせて、平静を保っていられているのである。
彼女が消えたその日から、柚真人が『こう』なるまでにもかなりの時間や説得を要した。荒れて手のつけようのない鬼の前世を持つ異能者を、なんとか宥めすかして前を向かせるのが、どれほど大変であったか。優麻をもってしても。その頃のことを思えば、今のこの瞬間に心の中まで穏やかでいろとはとても言えない。
それに――山の主が言い、柚真人もそう言ったように、彼女の、言葉には代えがたい力、美しく清浄な空気を、優麻も良く知っている。それを愛した、『緋』の気持ちは。己が柚真人に向ける気持ちと、同じではないが似てはいるはずである。
「……」
柚真人が、なにか呟いた。
と、優麻は思った。
それは聞き取れたようでも、聞き違いのようでも、あるいは自分が勝手に拾ったが実は聞き落しただけの、言葉のようでもあった。
「……」
問い返そうとは、思わない。
そのまま優麻も、黙って車を走らせた。
☆
ご報告をします。
そう言われたので、咲山誠は、とある神社を訪れた。
相手は、ご希望があれば、どこへでも行きますよといってくれ、話を通してくれた弁護士からもうちの事務所を使ってくれてもかわないと言われたのだけれど、なんとなく、あの時に出会った、青年宮司がどんなところに勤めているのか見てみたいような好奇心が勝った。
神社は都内郊外の、大きな坂の上にあり、規模は大社というほどではないもののどこにでもあるいわゆる神社よりは少し規模が大きくひろびろとしているなという印象だった。
訪れると、あの青年宮司が出て来て、誠は社務所に通された。神社の境内で、ちゃんとした神職の衣服で身なりを整えている人物を見ると、なるほど紛うことなき宮司であるなと、少しの威厳や神秘感さえ伴って感じるから不思議だ。――自分が親の代から譲り受ける妙な因習のある山すら、売り払いたいと思っている自分なのに。
ところが、社務所で報告を受けてたところによると、山はやはり売らない方が良いと思うという話であり――。
「売っても、咲山さんに直接なにかがあるとか、そういうことはないはずです。山との関係において言えば、の話ですが。ただ――咲山さんが聞き及んでいる通り、今まで守られてきた約束事は守らないと、人がいなくなったり、山が枯れたりはします」
します、と断言するんだなあ、と誠は思った。
宮司の青年は、大したことでもないような面持ちで、語るが。
「それは――ええと、どういう……?」
誠が首を傾げると、宮司は誠に入れてくれたお茶をすすめながら、
「説明を、してもいいのですが……咲山さんは、あまりその手のお話には触れたくないものとお見受けします。ならば、知らないままの方がいいのではないかと思います。起きた事実、起きる事実、だけをきちんと認識していただければ、いいかと」
「……それって、その、いなくなった人のこと、とかですか」
「そうですね。それ以前に、山に入ってはいけない日を守る、これまで続いてきた祭禮を怠りなく続ける、といったことも、です。これは、あの集落に人がいる間は誰かに任せてもかまいませんし、外から他の誰かが行っても、変わりはありません。大事なのは、その約束事だけです」
「……」
「馬鹿馬鹿しいとか、今どきありえない怪談だ、というお気持ちはお察しします。だとしても、起こることは起こります。山を他人に売り渡しても、たとえば開発事業などで人や業者が入るようになっても。そういうものが往々にして成功しない土地、とか、どうしても事故や不幸が起きてしまう土地、人が入ってもやがてなぜか廃墟にもどってしまう土地、などは他にも例があるでしょう」
「……」
「売って、山から逃れるのも自由です。咲山さんに責任はありません。ただ、――あそこは『そういう』山です。それは、どうにもしようがありません。……それと、それとこれとは別にして、山の売却について村人がどういう行動を起こすかは、私にはわかりません。村の人たちは村の人たちで、山を畏れているようですので」
「……畏れて……」
「はい」
「……あの。……では、昔、いなくなったと記憶している子供の頃の、あの友達の子は……」
結局、誰も探さなかった。禁忌を破ったからだと誰もが諦め気味だった。自分が一番、そんなことあるわけないだろうと思っていたその一点を、誠は宮司に向けてみた。
宮司は少し言葉を探したような間のあとで、
「そうですね……山のものになった、とでも言えばいいでしょうか。他に出ている行方不明者にしても、今も、生死は不明でしょうが、だとしても取り戻すことはできません。村の人たちは、そのことを知っていた。そしてそれは今後も同じです。そういう決まりだから、と認識する他はないでしょう」
「……はあ……」
「私から言えるのは、そういうことです。売却するしないの自由は、咲山さんにあります。ただし、もし売却が成立した場合には、咲山さんの家が守ってきた言い伝えを、きちんと伝えて守ってもらうべきだと、私としては思います」
それは、おそらく。
山での出来事について。村人たちの言い分について。
信じるも信じないも、自由ではある、ということなのだろう。
その時、誠は、はじめにこの青年に逢ってこの話をしたとき、何もかわらないかもしれないがそれでもいいかと、この青年が言っていたことを思い出した。
もしかしたら、その時すでに、こういう答えを、この青年――宮司は、なんとなく予想していたのかもしれない。
社務所を後にするとき、誠はふと、もうひとつ思うことがあって、宮司に尋ねた。
それは、
「あの――じゃあ、あの村から、人がいなくなったら――山は、どうなるんです? 祭禮のようなことを、誰も、しなくなったら」
自分は、村の妙な雰囲気を嫌って都会に出た。だが、それでなくとも自分の故郷はもういわゆる限界集落にも近い状態であるはずだ。田んぼや畑はあるものの、それを預かる農家はみんな老齢だろう。
すると宮司は、なんでもないことのように、するっと答えた。
「人がいなくなれば、人のよりつけない山に『戻る』だけですよ」
帰路に就いたとき、車内の時間のデジタル表示は午前2時ちょっとすぎを示していた。
山に入った時には日付を越えていて、あの場にはもっと長くいたような気がするから、今日という禁忌の日には、山の中は異界であると同時に時間の流れも現世とは切り離されたところにあるのだろう。もっとも、今の柚真人と優麻もまた、同じような幽世の時間を生きる身ではあるが。
村の領域を出ると、優麻が運転する車はふたたびライトを灯し、高速に乗る。
その間も、柚真人は黙って助手席に身体を沈めていた。そんな柚真人の横顔を、優麻はちらりと目で見遣る。
山の主の前を辞する時、柚真人は山の主に尋ねていた。
――その巫女は、剣を刷いていたか。
と。
山の主は肯と言い、
――恐ロシイ剣トトモニ在ッタ。
と答えた。
その答えの意味を、おそらく噛みしめているのだろう――柚真人は。こんなことがあるんだろうか、と優麻も思う。
同じように柚真人も感じているはずだ。しかし推定される時代に山の怪異を鎮めに来て、荒事を起こさずに場を収めた、『恐ろしい剣』と『共に在っ』た巫女となるとやはり思い当たるのはひとりしかいない。
「……俺と出逢う前から、変わらないんだな、彼女は」
そんなふうに、やっと、ふと、柚真人が呟いた。柚真人の方から何か声にしてくれなければ、そのことに優麻から触れるつもりはなかった。優麻とて、同じように、いやひょっとしたらその彼女よりずっとひたすらに変わらずいま隣にいる者を負い続けてきたのではあるけれど、柚真人にとっての優麻と彼女ではその存在がもつ意味も意義も経緯も変遷も違う。
「貴方と出逢う前、ですか」
対する柚真人は、小さく、どこか遠慮がちなくらいに小さく、ふ、と頷いた。
『緋の禍鬼』は、草薙の巫女と出逢って惹かれてより以降は、ずっと彼女のことを見ていた。そ
『緋の禍鬼』の記憶の中に、この山での出来事は刻まれていなかった。だから山の主が語った巫女が彼女であるのなら、『緋』と出逢う前の出来事であると推測できるのだ。
それにしても、そんなことがあるだろうか。
こんな、ときに。こんな、ところで。
千年以上もの時を越え。偶さか触れた彼女の痕跡。
だからこそ、それは柚真人の心を焼くだろう――と、優麻は考えた。
今の柚真人は、必ず、必ず、未来にふたたび彼女を取り戻す、と。それを頼りに、生きている。
その確信を抱くからこそ、今は彼女への募る想いや悔いや怒りや焦りを黙らせて、平静を保っていられているのである。
彼女が消えたその日から、柚真人が『こう』なるまでにもかなりの時間や説得を要した。荒れて手のつけようのない鬼の前世を持つ異能者を、なんとか宥めすかして前を向かせるのが、どれほど大変であったか。優麻をもってしても。その頃のことを思えば、今のこの瞬間に心の中まで穏やかでいろとはとても言えない。
それに――山の主が言い、柚真人もそう言ったように、彼女の、言葉には代えがたい力、美しく清浄な空気を、優麻も良く知っている。それを愛した、『緋』の気持ちは。己が柚真人に向ける気持ちと、同じではないが似てはいるはずである。
「……」
柚真人が、なにか呟いた。
と、優麻は思った。
それは聞き取れたようでも、聞き違いのようでも、あるいは自分が勝手に拾ったが実は聞き落しただけの、言葉のようでもあった。
「……」
問い返そうとは、思わない。
そのまま優麻も、黙って車を走らせた。
☆
ご報告をします。
そう言われたので、咲山誠は、とある神社を訪れた。
相手は、ご希望があれば、どこへでも行きますよといってくれ、話を通してくれた弁護士からもうちの事務所を使ってくれてもかわないと言われたのだけれど、なんとなく、あの時に出会った、青年宮司がどんなところに勤めているのか見てみたいような好奇心が勝った。
神社は都内郊外の、大きな坂の上にあり、規模は大社というほどではないもののどこにでもあるいわゆる神社よりは少し規模が大きくひろびろとしているなという印象だった。
訪れると、あの青年宮司が出て来て、誠は社務所に通された。神社の境内で、ちゃんとした神職の衣服で身なりを整えている人物を見ると、なるほど紛うことなき宮司であるなと、少しの威厳や神秘感さえ伴って感じるから不思議だ。――自分が親の代から譲り受ける妙な因習のある山すら、売り払いたいと思っている自分なのに。
ところが、社務所で報告を受けてたところによると、山はやはり売らない方が良いと思うという話であり――。
「売っても、咲山さんに直接なにかがあるとか、そういうことはないはずです。山との関係において言えば、の話ですが。ただ――咲山さんが聞き及んでいる通り、今まで守られてきた約束事は守らないと、人がいなくなったり、山が枯れたりはします」
します、と断言するんだなあ、と誠は思った。
宮司の青年は、大したことでもないような面持ちで、語るが。
「それは――ええと、どういう……?」
誠が首を傾げると、宮司は誠に入れてくれたお茶をすすめながら、
「説明を、してもいいのですが……咲山さんは、あまりその手のお話には触れたくないものとお見受けします。ならば、知らないままの方がいいのではないかと思います。起きた事実、起きる事実、だけをきちんと認識していただければ、いいかと」
「……それって、その、いなくなった人のこと、とかですか」
「そうですね。それ以前に、山に入ってはいけない日を守る、これまで続いてきた祭禮を怠りなく続ける、といったことも、です。これは、あの集落に人がいる間は誰かに任せてもかまいませんし、外から他の誰かが行っても、変わりはありません。大事なのは、その約束事だけです」
「……」
「馬鹿馬鹿しいとか、今どきありえない怪談だ、というお気持ちはお察しします。だとしても、起こることは起こります。山を他人に売り渡しても、たとえば開発事業などで人や業者が入るようになっても。そういうものが往々にして成功しない土地、とか、どうしても事故や不幸が起きてしまう土地、人が入ってもやがてなぜか廃墟にもどってしまう土地、などは他にも例があるでしょう」
「……」
「売って、山から逃れるのも自由です。咲山さんに責任はありません。ただ、――あそこは『そういう』山です。それは、どうにもしようがありません。……それと、それとこれとは別にして、山の売却について村人がどういう行動を起こすかは、私にはわかりません。村の人たちは村の人たちで、山を畏れているようですので」
「……畏れて……」
「はい」
「……あの。……では、昔、いなくなったと記憶している子供の頃の、あの友達の子は……」
結局、誰も探さなかった。禁忌を破ったからだと誰もが諦め気味だった。自分が一番、そんなことあるわけないだろうと思っていたその一点を、誠は宮司に向けてみた。
宮司は少し言葉を探したような間のあとで、
「そうですね……山のものになった、とでも言えばいいでしょうか。他に出ている行方不明者にしても、今も、生死は不明でしょうが、だとしても取り戻すことはできません。村の人たちは、そのことを知っていた。そしてそれは今後も同じです。そういう決まりだから、と認識する他はないでしょう」
「……はあ……」
「私から言えるのは、そういうことです。売却するしないの自由は、咲山さんにあります。ただし、もし売却が成立した場合には、咲山さんの家が守ってきた言い伝えを、きちんと伝えて守ってもらうべきだと、私としては思います」
それは、おそらく。
山での出来事について。村人たちの言い分について。
信じるも信じないも、自由ではある、ということなのだろう。
その時、誠は、はじめにこの青年に逢ってこの話をしたとき、何もかわらないかもしれないがそれでもいいかと、この青年が言っていたことを思い出した。
もしかしたら、その時すでに、こういう答えを、この青年――宮司は、なんとなく予想していたのかもしれない。
社務所を後にするとき、誠はふと、もうひとつ思うことがあって、宮司に尋ねた。
それは、
「あの――じゃあ、あの村から、人がいなくなったら――山は、どうなるんです? 祭禮のようなことを、誰も、しなくなったら」
自分は、村の妙な雰囲気を嫌って都会に出た。だが、それでなくとも自分の故郷はもういわゆる限界集落にも近い状態であるはずだ。田んぼや畑はあるものの、それを預かる農家はみんな老齢だろう。
すると宮司は、なんでもないことのように、するっと答えた。
「人がいなくなれば、人のよりつけない山に『戻る』だけですよ」

