「僕が父上と同じように早く死ぬかもしれないことは、否定できない」
その声には虚勢もなければ、自分の運命へ抗おうとする意地もなかった。ただ、いつか訪れるかもしれない結末を長いあいだ見つめ続けてきた人間だけが持つ静かな諦念が滲んでいる。
まるで、遠い昔から知っていた事実を、改めて確かめるような口調だった。
透子は胸の奥を掴まれたような息苦しさを覚えた。
宵が何度も離婚を口にしたことも、自分を遠ざけようとしたことも、好きになってはいけないと繰り返していたことも、そのすべてが一本の線となって繋がっていく。
宵は透子を拒んでいたのではなく、失うことを恐れていたのだ。
自分が先にいなくなる未来を。誰かを残してしまう未来を。そして、その痛みを透子へ背負わせてしまうことを。
だからこそ手放そうとしていたのだろう。愛してしまう前に。手放せなくなってしまう前に。傷つける側になる前に。
「だから離そうとしたんだよ」
宵はふっと笑った。その笑みはどこか頼りなく、どうしようもない失敗談を思い出した人のようでもあった。
「遠ざければいいと思ったんだ。僕がいなくなった時、その方が傷は浅いはずだって」
雨音が絶え間なく降り注いでいる。
どこからか鈴の音が聞こえた気がした。その音に紛れるように、宵は透子へ視線を向ける。
まっすぐ見つめることはしなかったけれど、その眼差しに宿るものだけは隠しようがなかった。
優しくて、温かくて、だからこそ胸が苦しくなる。
「でも無理だった」
自嘲するように呟いたあと、宵は肩の力を抜いた。
「透子は僕のことが大好きで仕方ないから」
「旦那様……!」
透子は思わず声を上げた。こんな話をしている時に言うことだろうか。もっと他にあるはずなのに、この人はどうしてこういう時まで意地悪なのだろう。
けれど宵は少しも悪びれない。
「たぶん僕に置いていかれたら毎日泣くし、そのたびに周りを困らせると思う」
抗議しようとした声は声にならなかった。
否定したかった。そんなことはないと言いたかった。けれど、それを口にしてしまえば涙まで零れそうで、うまく言葉にならない。
宵はそんな透子を見て、どこか満足そうに笑った。
それから表情を改める。冗談も皮肉も消えた眼差しは、驚くほど真っ直ぐだった。
「でも、透子は顔を上げるよ。ちゃんと前を向くし、ちゃんと笑う。僕の分まで長生きして、僕がいなくなったあともきっと歩いていく」
そう言いながら、宵は軍刀の切っ先を男へ向ける。
「そういう子だ」
透子は唇を噛んだ。
宵の言葉が胸の奥へ静かに落ちていく。
それは励ましとも違った。慰めでもない。
ただ当たり前のことを告げるように、宵は透子が前を向いて歩いていけると信じている。その信頼が、どうしようもなく嬉しかった。
悲しみも苦しさも消えたわけではない。それでも今だけは、それらすべてを包み込んでしまうほどの温かさが胸の内に広がっていた。
透子はそっと息を吐く。泣きそうになるのを堪えるように。
男は理解できないものを見るような顔をしていた。
けれど宵はそんな男を見つめながら、冷え切った笑みを浮かべる。
「愛されたかったくせに、誰も愛さなかったお前には、この気持ちは一生分からないだろうね」
その言葉が落ちた瞬間、男の顔が憤怒に歪んだ。
儀礼殿が震える。黒い糸が床を這い、柱を這い、まるで怒りそのものが形を持ったかのような勢いで天井へ向かって噴き上がる。
その声には虚勢もなければ、自分の運命へ抗おうとする意地もなかった。ただ、いつか訪れるかもしれない結末を長いあいだ見つめ続けてきた人間だけが持つ静かな諦念が滲んでいる。
まるで、遠い昔から知っていた事実を、改めて確かめるような口調だった。
透子は胸の奥を掴まれたような息苦しさを覚えた。
宵が何度も離婚を口にしたことも、自分を遠ざけようとしたことも、好きになってはいけないと繰り返していたことも、そのすべてが一本の線となって繋がっていく。
宵は透子を拒んでいたのではなく、失うことを恐れていたのだ。
自分が先にいなくなる未来を。誰かを残してしまう未来を。そして、その痛みを透子へ背負わせてしまうことを。
だからこそ手放そうとしていたのだろう。愛してしまう前に。手放せなくなってしまう前に。傷つける側になる前に。
「だから離そうとしたんだよ」
宵はふっと笑った。その笑みはどこか頼りなく、どうしようもない失敗談を思い出した人のようでもあった。
「遠ざければいいと思ったんだ。僕がいなくなった時、その方が傷は浅いはずだって」
雨音が絶え間なく降り注いでいる。
どこからか鈴の音が聞こえた気がした。その音に紛れるように、宵は透子へ視線を向ける。
まっすぐ見つめることはしなかったけれど、その眼差しに宿るものだけは隠しようがなかった。
優しくて、温かくて、だからこそ胸が苦しくなる。
「でも無理だった」
自嘲するように呟いたあと、宵は肩の力を抜いた。
「透子は僕のことが大好きで仕方ないから」
「旦那様……!」
透子は思わず声を上げた。こんな話をしている時に言うことだろうか。もっと他にあるはずなのに、この人はどうしてこういう時まで意地悪なのだろう。
けれど宵は少しも悪びれない。
「たぶん僕に置いていかれたら毎日泣くし、そのたびに周りを困らせると思う」
抗議しようとした声は声にならなかった。
否定したかった。そんなことはないと言いたかった。けれど、それを口にしてしまえば涙まで零れそうで、うまく言葉にならない。
宵はそんな透子を見て、どこか満足そうに笑った。
それから表情を改める。冗談も皮肉も消えた眼差しは、驚くほど真っ直ぐだった。
「でも、透子は顔を上げるよ。ちゃんと前を向くし、ちゃんと笑う。僕の分まで長生きして、僕がいなくなったあともきっと歩いていく」
そう言いながら、宵は軍刀の切っ先を男へ向ける。
「そういう子だ」
透子は唇を噛んだ。
宵の言葉が胸の奥へ静かに落ちていく。
それは励ましとも違った。慰めでもない。
ただ当たり前のことを告げるように、宵は透子が前を向いて歩いていけると信じている。その信頼が、どうしようもなく嬉しかった。
悲しみも苦しさも消えたわけではない。それでも今だけは、それらすべてを包み込んでしまうほどの温かさが胸の内に広がっていた。
透子はそっと息を吐く。泣きそうになるのを堪えるように。
男は理解できないものを見るような顔をしていた。
けれど宵はそんな男を見つめながら、冷え切った笑みを浮かべる。
「愛されたかったくせに、誰も愛さなかったお前には、この気持ちは一生分からないだろうね」
その言葉が落ちた瞬間、男の顔が憤怒に歪んだ。
儀礼殿が震える。黒い糸が床を這い、柱を這い、まるで怒りそのものが形を持ったかのような勢いで天井へ向かって噴き上がる。


