宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その刹那、宵の刀が走る。
 雨に濡れた刃が白い光を拾い、黒い糸の束を断ち切った。断たれた糸は黒い灰となって舞うが、すぐに別の糸が伸び、宵の左腕へ絡みつく。
 穢れが深く食い込んだ時、宵の顔が歪んだ。それでも、止まらない。

「透子に触るなって言ったよね」

 刃がさらに深く影へ迫る。

「一度で理解できないの、哀れだな」

 男は後退しながらも、口元に笑みを残していた。

「婚姻は家のものだ。女は名を納め、家に従い、役割を果たせばいい。そうして家は続き、秩序は保たれる」
「うるさい。誰にも選ばれなかったからって、選ばれる人間を妬むなよ」
「何だと」
「透子は自分で選ぶ。泣いても、傷ついても、怖がっても、最後には自分の足で立つ」

 宵は刀を構え直す。

「お前みたいに、古い札と女の怨念にしがみついて偉くなった気でいる能無しとは違う」

 男の顔が、初めてはっきり歪んだ。
 黒い糸が床から噴き上がり、宵の足元を縫い止める。さらに別の糸が、背後から肩を貫くように絡みついた。宵は苦しげに息を詰めたが、刀を握る手は緩めない。

「南雲の男は、昔から愚かだ」

 男は宵の剣戟を躱しながら、不敵に嗤う。

「暁臣もそうだった。家を繋ぐ術を否定し、女の名などというくだらぬものに情けをかけ、己の家すら守れず死んだ」

 宵の刃が、一瞬だけ止まった。
 透子は息を呑む。
 影の男はそこを見逃さなかった。

「お前も同じだろう、南雲宵。穢れをその身に引き受ける短命の一族。長くは生きられぬと分かっていながら、愛しい者など作るとは滑稽だ」

 黒い糸が、さらに宵の左腕へ食い込む。

「愛しい者ができても守れず、置いてゆく。残される女だけが泣き暮らす。それでも乞うというのか。そばにいてほしいと、名を呼んでほしいと。どうせ先に消えるというのに」

 静寂が落ちた。その言葉は、刃物より正確に宵の傷へ届いていた。

 南雲家の男は長く生きられない。それは穢れを引き受ける使命を持つ一族だからだ。

 宵の父――暁臣もそうだった。だから宵は愛を恐れ、誰かを好きになることを恐れたのだ。手を伸ばした先で、自分が先に消えるかもしれないから。

 男はその傷を、わざと抉っている。

(――――旦那さま)

 透子が恐る恐ると宵を見ると、彼は静かに目を伏せていた。

「……そうかもしれないね」

 認めるような響きに、男の口元がゆっくり歪む。
 宵の軍刀を持つ手が少し下がる。雨に濡れた刀身が、鈍く光を返した。