宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 奥の扉が軋む間もなく砕け、そこから雨の匂いが流れ込んできた。冷たい空気が漂い、水溜りを踏む靴音が鳴り響く。

 その向こうに立っていたのは、宵だった。
 黒い軍服は雨に濡れ、髪は乱れ、呼吸は荒い。左腕は肩口近くまで黒く染まり、白い顔には焦りが隠しきれていなかった。いつもの余裕など、どこにもない。
 ただ、その目だけが、まっすぐ透子を見ていた。

「──ああ、いた」

 吐息のような声だった。その声を聞いた瞬間、透子の中の何かが爆ぜた。

「透子」

 一歩、宵が近づく。

「透子」

 もう一歩。

「……透子」

 三度目は、確かめるような声だった。

「よく待ったね」

 その一言で、透子の目から涙がこぼれた。

「旦那、様」

 宵は頷くと、祭壇の奥に立つ男へ視線を向けた。その顔には、ぞっとするほど綺麗な笑みが浮かんでいる。

「知らない顔だな。僕の花嫁を連れ去った馬鹿は君?」
「やはり来たか。南雲宵」
「質問の答えになってないよ」

 黒い影が、薄く笑う。

「なるほど、あの男によく似ている」
「あの男ってどの男?」
「お主の父――南雲暁臣のことだ」

 宵は冷ややかに目を細め、刀を握り直した。

「……ふうん。ということは、お前は父上に敗れ、亡霊と化したっていう──朝廷の人間か」

 濡れた軍靴が白い床を踏むたび、黒い雨粒が石床へ落ちていく。透子を見つけた安堵と、その透子が黒い糸に縛られている光景への怒りが絡まり合っているはずなのに、彼の足取りは不思議なほど静かだった。

「汚らしい場所だね。一体誰の許可を得て、こんな辺鄙な場所に僕の花嫁を連れ込んだの?」

 宵の穏やかな声に、男は鼻で笑う。

「花嫁は家のものだ。家のために差し出され、家のために名を捨てる。それが正しい」
「黙れ」

 宵の声が低く落ちた。

「それ以上喋ると、不愉快」

 黒い糸が、透子の喉へさらに食い込む。
 透子が苦しげに顔を歪めた瞬間、宵の表情が消えた。
 左腕の穢れが、怒りに呼応するように黒く滲む。

「汚い手で触るな。透子が汚れる」
「女の名を家に納めることこそ秩序であり、古くから続く朝廷のあるべき姿だ」
「女の名前を奪わないと秩序ひとつ保てないんだ」

 宵は刀を構えたまま、一歩ずつ近づいていく。

「貧しい考え方だね」
「南雲宵、穢れを引き受けるだけの器が朝廷の理に逆らうか」
「理?」

 宵は心底軽蔑したように目を細めた。

「人の名前を盗んで縛ることを、理って呼ぶんだ。随分と可哀想な頭をしてる」

 黒い影が筆を振る。床を這っていた糸が、一斉に宵へ襲いかかった。宵は片手で印を結び、白い札を足元へ散らす。札は花のように開き、糸の動きを縛った。