宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

──── *

 透子は旧儀礼殿の中心にある祭壇の上で、黒い糸に縛られていた。足首も、手首も、喉元も、すべてが冷たい糸に絡みつかれていたが、それは身体を縛っているというより、透子という名そのものへ食い込んでいるようだった。

 目の前には、金色の簪が浮かんでいる。その周囲には、無数の名前が揺れていた。
 消された名。嫁ぎ先の家名に塗り潰された名。誰にも呼ばれなくなった名。それらは声にならない声で泣き続けている。

 ――私は誰。
 ――私の名前を返して。
 ――愛されたかった。

 その痛みは、透子の心の奥深くへ流れ込んできた。彼女たちは透子に似ている。名前を呼ばれず、家のために差し出され、愛されないまま役割だけを与えられた人たち。

 けれど同じではない。透子はもう、自分の名を呼ぶ声を知っている。宵の声を知っている。
 だから、飲み込まれてはいけない。

「私は、透子です。如月家の娘で、南雲家の花嫁です。でも、それだけではありません」

 黒い糸がざわめく。

「私は、透子です」

 もう一度、名を告げる。その名を、自分自身へ刻むように。
 すると、祭壇の奥に立っていた黒い影が、ゆっくりと笑った。それは礼装を纏った男だった。顔は半ば影に溶けていたが、古い冠と袍、そして手にした婚姻札だけは、いやに鮮明だった。

「名を持つから苦しむのです」

 男は言う。

「名を家に預け、役割に従えば、迷うことなどない。花嫁は花嫁として、妻は妻として、家のためにあればいい。婚姻とは家と家を繋ぐ契約であり、そこに女個人の心など必要ありません」

 かつてなら、透子はその言葉に何も返せなかったかもしれない。家のため、役割のため。そう言われれば、いつも黙ってきた。
 けれど、今は違う。

「必要です」

 透子は顔を上げる。

「花嫁にも名前があります。心があります。寂しさも、怒りも、好きだと思う気持ちも、その人だけのものです」

 黒い影が筆を持ち上げる。白い札には、まだ何も書かれていなかった。

「ならば、その名を書きましょう。あなたの名を縛れば、南雲家も朝廷も、この古い儀式の前に屈する」

 黒い糸が透子の喉をきゅうっと締めた。
 男の筆が札に触れ、一画目が書かれる。

 ――透。その瞬間、透子の中から何かが引き抜かれそうになった。

 苦しい。名前を奪われるとは、こんなにも恐ろしいものなのか。
 自分の輪郭が薄くなる。自分が何者だったのか、遠くなる。父に呼ばれなかった日、母に見られなかった日、彩子の隣で透明だった日、晴臣に「君なら平気だろう」と言われた日。それらが黒い水のように押し寄せてくる。

(――――私は、誰?)

 そう思いかけた時だった。

 凄まじい轟音が響いた。かと思えば、次の瞬間には巨大な硝子を叩き割るような音が鳴る。白い布が吹き飛び、古い飾り紐が弾け、黒い糸が悲鳴のように震えた。