宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 旧朝廷儀礼殿へ着いた頃には、雨が降り始めていた。
 細く冷たい雨が、帝都の北西にある祭祀区画を静かに濡らしている。かつて朝廷の婚姻儀礼や家同士の誓約が執り行われたという古い儀礼殿は、今では人の寄りつかぬ場所となり、閉ざされた石門も、朽ちた飾り紐も、雨に打たれて灰色に沈んでいた。

 けれど、その奥に残っているのは、ただ古びた建物の気配ではなかった。
 辺りには甘ったるい香りが漂い、血に似た湿り気が雨に混じって空気を濡らしている。そして、長い年月、誰にも呼ばれなかった名前たちの泣き声も聞こえた。

 ――返して。
 ――私を呼んで。
 ――私は誰。

 石門へ絡みついた黒い糸が、濡れた髪のように揺れている。本来なら幾重にも貼られているはずの封鎖札は、黒く焼け焦げ、ほとんど意味を成していなかった。

「南雲少将、内部の術式反応はかなり強いです」

 榊の声には緊張が滲んでいる。

「失踪した花嫁たちの気配もあります。ただ、中心部に別の反応がある。過去の記録に残る婚姻局の術式と酷似しています」
「そんな古いものを使う悪趣味な奴がいたんだ。是非とも顔を拝みたいね」

 宵はそう言いながら、静かに腰の軍刀へ手をかけた。
 その瞬間、榊が息を呑む。軍府の術者たちも、雨音の中で騒めき出した。

 宵が刀を帯びていることは、誰もが知っていた。けれど、その刀が人前で抜かれたところを見た者はひとりも存在しない。

 なぜなら、穢れ討伐でも、反乱鎮圧でも、軍務でも、宵は術だけで全てを終わらせてきたからだ。

 刀は持っているだけ。いや、使う必要がなかった。
 だからこそ、静かに鞘へ添えられたその指を見た榊は、思わず喉を鳴らしていた。

 今の宵は、いつもの宵ではない。
 透子が奪われた。その一点が、彼にとって、刀を抜く理由になっている。

「少将」

 榊の声に、宵は前を見据えたまま答えた。

「透子がいる」

 鞘走る音で、辺りの空気が凍りつく。白銀の刃が雨を受け、冷たく光った。

 宵は片手に軍刀を持ち、もう片方の手で印を結ぶ。
 濡れた黒髪が額へ落ち、白い頬を雨が伝う。軍服は水を含んで黒さを増し、穢れに侵された左腕だけが、闇を纏ったように異様な色をしていた。それでも彼は、一歩も迷わず立っている。
 壊れかけているのに、壊れることを許さない人のように。

「南雲の名において命じる」

 低い声が、雨の中へ落ちた。

「開け」

 白い札が燃え上がるのと、刀が閃くのは同時だった。
 黒い糸が、悲鳴のような音を立てて裂ける。石門が軋みながら開き、奥から冷たい風が流れ込んできた。

「君たちはここで待っていて」
「しかし――」
「僕が良いと言うまで入るな。引きずられる」

 宵は冷たい微笑を浮かべながら、門を潜った。

 儀礼殿の中は、白い布で覆われていた。
 天井からは古びた飾り紐が垂れ、壁際には簪や櫛、扇に紅入れ、誓約札といった婚礼具が並んでいる。そのどれにも黒い糸が絡みつき、祝福のために用意されたはずのものすべてが、今は誰かの執着と恨みを吸っているように見えた。

 ちりん、と鈴の音が鳴る。泣き声のような音だった。
 壁際の白無垢がふわりと動く。誰も袖を通していないはずの衣が人の形を取り、顔のない花嫁が宵へ向かって手を伸ばした。

 ――愛を知らぬ男。
 ――花嫁を壊す男。
 ――お前も同じ。

 宵は足を止めなかった。
 刀が静かに弧を描き、白無垢の影を裂く。崩れた衣は黒い糸へ戻り、床に落ちる前に灰となって消えた。

「うるさいな。知ってるよ、そんなこと」

 宵は片手で印を結びながら、淡々と奥へ進む。
 自分がまともではないことも、愛し方を知らないことも、誰かに近づかれるたび逃げたくなることも、誰より宵自身が知っていた。

 透子が好きだと言った瞬間、胸の奥に生まれた喜びが恐ろしかった。もっと名前を呼んでほしいと思い、もっと隣にいてほしいと思い、その欲を一度知ってしまえば止められない気がした。

 母のように愛で縛り、父のように愛を返せず傷つけるのではないかと思った。だから離そうとしたのに――離した瞬間に奪われてしまった。

 守るために遠ざけるなどと言いながら、いちばん危険な場所へ、透子をひとりで行かせてしまったのだ。

 宵は奥歯を噛みしめる。

「透子」

 名を呼んでも、返事はない。それでも宵は呼ぶ。

「聞こえてるなら、返事はしなくていい。ただ、待ってて」

 その言葉が自分の口から落ちた瞬間、胸の奥が痛んだ。
 ――待っていてほしい。透子にそう言われた朝、なぜあんなにも動揺したのか、今なら分かる。待っていると言われることは、帰る場所を与えられることだったのだ。
 そして宵は、いつの間にか透子を、自分の帰る場所にしていた。
 認めたくなかっただけで。