宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「――透子ッ!」

 宵の叫び声が、割れた鏡の前で虚しく響く。
 畳の上には砕けた鏡片と、焼け焦げた札、そして黒い糸の残滓が散っていた。

 透子が立っていた場所には、彼女の温度も、袖が擦れる気配も、震える呼吸も残っていない。ただ、つい先ほどまで確かにそこにいたのだと告げるように、空気だけがわずかに乱れていた。

 いるはずの人がいない。その事実が、これほど恐ろしいものだとは思わなかった。

 透子、と呼べば、困ったように返事をしてくれるものだと思っていた。怖がりながらも、最後には宵の隣へ一歩近づいてきて、気づけばそこにいてくれる人だと思っていた。そう思い込めるほど、いつの間にか彼女の存在は、宵の中で当たり前のものになっていたのだ。

 その当たり前が、今、目の前で奪われた。
 宵は割れた鏡の前へ膝をつき、砕けた硝子片へ手を伸ばした。鋭い縁が指先を裂き、赤い血が滲む。

 ――透子がいない。その事実だけが、胸の奥を冷たく裂いていく。

「南雲少将!」

 背後で榊の声が響いた。
 軍府の術者たちが座敷へ駆け込み、透子の父は畳の上で顔色を失ったまま動けずにいる。誰もが何かを言おうとして、けれど宵の背中を見た瞬間、言葉を呑み込んだ。

 宵は振り返らなかった。
 ただ、畳に残った黒い糸を拾い上げる。冷たく、湿ったその糸が指先に触れた瞬間、無数の花嫁の泣き声が、爪の下へ入り込むように流れ込んできた。

 ――愛されたかった。
 ――名を返して。
 ――私を呼んで。

 その奥に、かすかな気配が残っている。
 怖がっている。けれど、折れてはいない。
 透子だ。

「探知して。今すぐ」
「はい」

 榊が札を広げる間、宵は黒い糸を握りしめたまま、静かに透子の名を呼んだ。

「透子」

 返事はない。それでも、もう一度呼ぶ。

「透子」

 何度でも呼ぶ。彼女の名を、こんな呪いに渡さないために。

 透子は、南雲家の花嫁である前に透子だ。如月家から差し出された娘でも、婚姻のための道具でも、名を縛られるための器でもない。ようやく自分の名前を自分のものとして抱きしめようとしている人だ。

(――それを奪わせるくらいなら、穢れなどいくらでも引き受けてやる)

「少将、反応が出ました。帝都北西、旧朝廷儀礼殿です」

 榊が顔を上げる。

「十年前、婚姻縛りの廃止に伴い封鎖された場所です。現在は軍府管理下ですが、封印が一部破られています。失踪した花嫁たちの気配も、同じ場所に集められています」
「透子は」
「中心部に反応があります。生存反応あり」

 それだけ聞けば十分だった。
 宵は立ち上がった。その瞬間、左腕へ鋭い痛みが走る。黒い穢れが肩口近くまで広がり、皮膚の下を何かが這い回るような感覚に、一瞬だけ視界が揺れた。

「その状態では――」
「黙って」

 静かな声だった。なのに、座敷の空気が凍る。

「透子がいる」

 それだけだった。止まる理由など、ひとつもなかった。
 背後で、透子の父が震える声を出した。

「南雲少将……私も」

 宵はそこで初めて振り返った。
 その視線を受けた途端、父親の顔からさらに血の気が引く。宵は微笑んでいた。いつものように綺麗で、穏やかで、それでいて一片の温度もない笑みだった。

「あなたはここで、十年前に隠した記録を全部出して」
「しかし」
「また見なかったことにする?」

 宵は首を傾げる。

「透子を差し出した時みたいに」

 父親は言葉を失った。

「今度また隠したら、僕はあなたを許さない。透子はもう、あなたの都合で動く子じゃない。あの子の名を取り戻すために役に立つなら、今すぐ全部吐いて」
「……奥の蔵に、暁臣様から預かった記録があります」
「最初からそうして」

 宵はそれ以上、父を見なかった。
 歩き出そうとした時、廊下の向こうに八重が立っていた。彼女は何も言わず、黒い外套を差し出してくる。

「旦那様」
「八重さん、今説教されたら困る」
「いたしません」

 八重の声は静かだった。

「どうか、透子様をお連れ戻しくださいませ」

 宵は外套を受け取った。その手が、自分でも分かるほど震えている。

「……連れ戻すよ。絶対に」