「篠乃様」
名を呼ぶ。鏡の奥で、美しい女の影が揺れた。
それは――篠乃の若い頃の姿だろうか。声を押し殺して泣いている。愛されたかったと、ひたすらに泣いている。
その光景を見て、透子の胸が痛んだ次の瞬間。
黒い糸が透子の首へ絡みついた。
「透子!」
宵が叫び、手を伸ばしてくる。
けれど、鏡の中の花嫁たちが一斉に透子を見た。
――あなたも、こちら側。
――愛されない花嫁。
――名を返してくれるなら、あなたの名もちょうだい。
透子の足元が崩れる。畳が消え、黒い水面のようなものが広がった。
宵の手が透子の手を掴む。痛いほど強く。
「離さない!」
宵の声が裂ける。透子も必死に握り返した。
「旦那様!」
「透子!」
けれど、糸の数が多すぎた。
宵の左腕に黒が広がる。
透子を引き戻そうとするその顔は、初めて見るほど必死だった。
怖がっている。透子を失うことを。そのことが、こんな状況なのに胸に焼きついた。
「旦那様」
透子は叫んだ。
「私は、私の名前を渡しません!」
宵の目が揺れる。
「だから、必ず呼んでください!」
次の瞬間、黒い糸が二人の手を裂いた。
宵の指が離れる。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬で透子の身体は鏡の中へ引きずり込まれた。
「透子!」
宵の声が最後に聞こえた。
名前を呼ぶ声。怒りと恐怖と、どうしようもない愛しさを含んだ声。
透子はそれを胸に抱いたまま、黒い水の底へ落ちていった。
──── *
闇の中で、鈴が鳴っていた。
ちりん、ちりん。
透子は目を開ける。
そこは、知らない場所だった。
古い儀礼殿のようにも見える。高い天井。破れた御簾。床一面に敷かれた白い布。白無垢や赤い打掛、古びた婚礼具が壁際に並び、そのすべてに黒い糸が絡みついていた。
その中央に、金色の簪が浮かんでいた。簪の周りには、無数の名前が揺れている。
透子は立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。黒い糸が足首を縛っている。
――花嫁。
声がする。
――名前をちょうだい。
――そうすれば、もう誰にも置いていかれない。
透子は唇を噛む。
「渡しません」
声は震えていた。けれど、言えた。
「私の名前は、私のものです」
闇が揺れる。花嫁衣装たちが、ゆっくり透子へ向く。
顔はない。けれど泣いている。怒っている。寂しがっている。
透子はその痛みを感じる。
分かってしまうのだ。名前を奪われた痛みも、家のために差し出された痛みも、愛されないまま、役割だけを与えられた痛みも。
そのどれもが透子の痛みに似ていた。
けれど、同じではない。
透子はもう知っている。
自分の名を呼ぶ声を。自分を花嫁という役割だけではなく、透子として呼んでくれる声を。
「――旦那様」
返事はない。けれど、胸の奥にはまだ残っている。
透子、と呼んだ声。
離さない、と言った手。
必ず、来てくれる。
そう信じた瞬間、涙が滲んだ。
怖くないわけではない。けれどもう、透子は一人ではないから。
「私は、南雲宵様の花嫁です。──でも、それだけではありません」
黒い糸が揺れる。
「私は、透子です」
名を告げた瞬間、簪が強く光った。
闇の奥から、誰かの声がした。
――ならば、その名を縛りましょう。
途轍もなく冷たい人の声が響いた。
それは花嫁たちの怨念ではない。それを操る者の声だ。
透子は息を呑む。
背後に、黒い影が立っていた。
顔は見えない。けれど、朝廷の礼装を纏っている。
その手には、古い婚姻札。そして、透子の名を書き込もうとする筆。
影が笑う。
――南雲の花嫁の名が手に入れば、婚姻縛りは完成する。
黒い糸が腕を縛り、筆が札に触れる。
その瞬間、透子は宵の言葉を思い出した。
――君の名前は、あれに渡すな。
――僕が呼ぶから。
透子は目を閉じた。
そして、心の中で強く叫ぶ。
(――旦那様。私を、呼んで)
遠くで、何かが割れる音がした。
名を呼ぶ。鏡の奥で、美しい女の影が揺れた。
それは――篠乃の若い頃の姿だろうか。声を押し殺して泣いている。愛されたかったと、ひたすらに泣いている。
その光景を見て、透子の胸が痛んだ次の瞬間。
黒い糸が透子の首へ絡みついた。
「透子!」
宵が叫び、手を伸ばしてくる。
けれど、鏡の中の花嫁たちが一斉に透子を見た。
――あなたも、こちら側。
――愛されない花嫁。
――名を返してくれるなら、あなたの名もちょうだい。
透子の足元が崩れる。畳が消え、黒い水面のようなものが広がった。
宵の手が透子の手を掴む。痛いほど強く。
「離さない!」
宵の声が裂ける。透子も必死に握り返した。
「旦那様!」
「透子!」
けれど、糸の数が多すぎた。
宵の左腕に黒が広がる。
透子を引き戻そうとするその顔は、初めて見るほど必死だった。
怖がっている。透子を失うことを。そのことが、こんな状況なのに胸に焼きついた。
「旦那様」
透子は叫んだ。
「私は、私の名前を渡しません!」
宵の目が揺れる。
「だから、必ず呼んでください!」
次の瞬間、黒い糸が二人の手を裂いた。
宵の指が離れる。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬で透子の身体は鏡の中へ引きずり込まれた。
「透子!」
宵の声が最後に聞こえた。
名前を呼ぶ声。怒りと恐怖と、どうしようもない愛しさを含んだ声。
透子はそれを胸に抱いたまま、黒い水の底へ落ちていった。
──── *
闇の中で、鈴が鳴っていた。
ちりん、ちりん。
透子は目を開ける。
そこは、知らない場所だった。
古い儀礼殿のようにも見える。高い天井。破れた御簾。床一面に敷かれた白い布。白無垢や赤い打掛、古びた婚礼具が壁際に並び、そのすべてに黒い糸が絡みついていた。
その中央に、金色の簪が浮かんでいた。簪の周りには、無数の名前が揺れている。
透子は立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。黒い糸が足首を縛っている。
――花嫁。
声がする。
――名前をちょうだい。
――そうすれば、もう誰にも置いていかれない。
透子は唇を噛む。
「渡しません」
声は震えていた。けれど、言えた。
「私の名前は、私のものです」
闇が揺れる。花嫁衣装たちが、ゆっくり透子へ向く。
顔はない。けれど泣いている。怒っている。寂しがっている。
透子はその痛みを感じる。
分かってしまうのだ。名前を奪われた痛みも、家のために差し出された痛みも、愛されないまま、役割だけを与えられた痛みも。
そのどれもが透子の痛みに似ていた。
けれど、同じではない。
透子はもう知っている。
自分の名を呼ぶ声を。自分を花嫁という役割だけではなく、透子として呼んでくれる声を。
「――旦那様」
返事はない。けれど、胸の奥にはまだ残っている。
透子、と呼んだ声。
離さない、と言った手。
必ず、来てくれる。
そう信じた瞬間、涙が滲んだ。
怖くないわけではない。けれどもう、透子は一人ではないから。
「私は、南雲宵様の花嫁です。──でも、それだけではありません」
黒い糸が揺れる。
「私は、透子です」
名を告げた瞬間、簪が強く光った。
闇の奥から、誰かの声がした。
――ならば、その名を縛りましょう。
途轍もなく冷たい人の声が響いた。
それは花嫁たちの怨念ではない。それを操る者の声だ。
透子は息を呑む。
背後に、黒い影が立っていた。
顔は見えない。けれど、朝廷の礼装を纏っている。
その手には、古い婚姻札。そして、透子の名を書き込もうとする筆。
影が笑う。
――南雲の花嫁の名が手に入れば、婚姻縛りは完成する。
黒い糸が腕を縛り、筆が札に触れる。
その瞬間、透子は宵の言葉を思い出した。
――君の名前は、あれに渡すな。
――僕が呼ぶから。
透子は目を閉じた。
そして、心の中で強く叫ぶ。
(――旦那様。私を、呼んで)
遠くで、何かが割れる音がした。


