宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 それは他人事ではなかった。名前を持っているのに呼ばれないことの寂しさを、透子は知っている。人としてではなく、家のための存在として扱われる苦しさを知っている。

 だから分かってしまう。あの花嫁たちは連れ去られたのではない。忘れられたのだ。

 誰にも呼ばれなくなった名前だけが取り残され、その痛みが長い年月をかけて呪いへ変わってしまったのだと。

 透子は鏡から目を離さないまま、息を吸った。

「簪です。でも、それだけではありません」

 宵が視線を向ける。
 透子は鏡の奥を見つめたまま続けた。

「花嫁たちの名前です。誰にも呼ばれなくなった名前が、あの簪に絡みついています」
「名前?」
「名前を返せば、ほどけるかもしれません」
「どうやって?」
「分かりません。でも……聞こえます」

 耳の奥に、声が響く。
 たくさんの名。消された名。忘れられた名。
 無意識に一歩前に出ていた透子の腕を、宵が掴む。

「行くな」
「行きます」
「危ない」
「旦那様がいます」

 宵の目が苦しげに揺れる。

「それはずるい」

 透子はささやかに笑った。

「旦那様に教わりました」

 宵は一瞬、泣きそうな顔をした。そして、透子の手を強く握った。

「絶対に離さない」
「はい」
「君の名は渡さない」

 透子は鏡へ向き直る。
 黒い糸が透子の足元に絡む。

 冷たい。寂しい。痛い。
 けれどもう、飲み込まれない。

「聞こえます。あなたたちの名前が」

 鏡の中の花嫁たちが揺れる。
 透子は一つずつ、聞こえた名を口にした。
 そのどれもが知らない名だ。中には古いものも、涙のような名もある。呼ぶたびに、花嫁の影がひとつずつ光へ変わる。

 父は呆然と見ていた。
 宵は透子の手を握ったまま、片手で印を切る。

「南雲の名において命じる。縛られた名を返せ」

 鏡が軋み、黒い糸が怒り狂ったように暴れる。
 その中から、最後にひとつの声が聞こえた。

 ――篠乃。

 宵の目が見開かれている。

「母上の名……」

 篠乃の名もまた、簪に縛られていた。
 夫に愛されたかったまま。妻として見てほしかったまま。その寂しさが、呪いの核の一部になっていた。