宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 そして、その瞬間だった。
 部屋の奥から、透き通るような鈴の音が響いた。
 ちりん、と。
 耳には美しく聞こえるはずの音色なのに、透子の背筋を冷たいものが駆け上がる。
 胸の奥で本能が警鐘を鳴らしたのと、宵の腕が透子の身体を引き寄せたのは、ほとんど同時だった。

「下がって」

 床の間に飾られていた古い鏡が、黒く染まっていく。鏡面に、白無垢の花嫁たちが映った。
 一人ではない。二人、三人――そして、もっと多く。
 顔のない花嫁たちが、鏡の奥で泣いている。

 ――名を返して。
 ――私を選んで。
 ――愛して。

 父の顔が青ざめていく。

「封じ鏡……? なぜここに」

 宵が父を鋭い眼光で睨みつける。

「まだ隠してたのか」
「違う、これは」

 言い終わる前に、鏡から黒い糸が噴き出し、透子へ向かって伸びていった。
 宵が札を投げると、糸は裂けたが、すぐに増えてしまった。
 父が呪を唱えようとした瞬間、糸が父の腕に絡みついた。

「父上!」

 透子が叫ぶと、宵は舌打ちし、父を庇うように前へ出た。
 鏡の中から、女の声が響く。

 ――暁臣様の封じを解いたのは、あなたではないの?
 ――花嫁を差し出したのは、あなたではないの?

 透子には分かった。
 呪いは父の罪悪感にも反応している。花嫁たちの怨念は、婚姻で誰かを縛った者、差し出した者、見なかった者を責めている。

「透子。見える?」
「はい」
「中心にあるものはなに?」

 透子は鏡の奥を見つめた。
 黒い糸は生き物のように蠢きながら鏡面の内側を覆い、その向こうでは幾重にも重なった花嫁たちの影が苦しげに揺れている。

 その中心にあるのは金色の簪だった。けれど透子には、それだけには見えなかった。
 簪には無数の名前が絡みついている。本来なら誰かに呼ばれ、その人自身を示すはずだった名前たちが、まるで助けを求めるように折り重なっているのだ。

 嫁ぎ先の家へ入った日から、花嫁たちは少しずつ名前を失っていったのだろう。誰かの娘として生きることを終え、今度は誰かの妻として扱われるようになり、そのうち本当の名前を呼ばれる機会さえなくなってしまった。

 そうして役割だけが残り、その人自身を示すはずだった名前だけが置き去りにされたのだ。