──── *
その夜、透子は寝付けなかった。
眠ろうと目を閉じても、意識ばかりが冴えていた。
風が吹いて、庭木が揺れる。どこか遠くで誰かの足音がして、また消える。それらは如月家でも聞いたことのある音のはずなのに、不思議と何ひとつ耳に馴染まない。
今日からここで生きていくのだと思った途端に、心細さを感じていた。
屋敷の奥から漂う孤独の色は、夜になっていっそう濃くなっているようだった。まるで、誰かが声を殺して泣いているようなのだ。
つい気になって、透子は寝台から身を起こす。
北棟には近づくなと宵は言っていた。夜に屋敷を歩き回るなとも。
これからいけないことをしようとしていることは、分かっている。けれど、あの泣き声のような孤独を残したまま眠れそうにはなかった。
屋敷の奥から漂う気配は、不思議なくらい宵が纏うものによく似ている。
あの人はよく笑う。けれど、その笑みは少しも温かくない。
透子はしばらく迷った末に羽織を手に取った。部屋の外に出るのではなく、少しだけ廊下の空気を吸うだけだと自分に言い聞かせながら、襖に手を掛けた、その時。
「――だから言っただろう。処理前の穢れを持ち込むなって」
宵の声だった。その声は冬の空気に晒された時のような冷たさを持っていた。思わず背筋を伸ばしてしまうほどの温度のなさに、透子は足を止めた。
廊下の角の向こうに、宵と軍服姿の男がいた。男は暗がりでも分かるほど顔を青くさせながら、深く頭を下げている。
「申し訳ありません、南雲少将」
「謝罪はいらない。僕は謝られるのが嫌いなんだ。許さなきゃいけない気分になるから」
「ですが」
「言い訳もいらない。聞く価値があるほど、君は有能じゃないでしょ」
男の肩がびくりと震える。
宵は微笑んでいた。優しく、美しく、ぞっとするほど冷たい微笑だった。
「次に同じことをしたら、君の所属ごと陰陽寮から外す。帝都の外れで、普通の軍人として頑張るといいよ。向いてるかは知らないけど」
「南雲少将、どうか、それだけは」
「それ以上近づかないで。馬鹿が移る」
春風のように穏やかな声だ。だからこそ、廊下の空気が一瞬で凍りつく。
「結果を出せない人間の必死さって、見苦しいね」
男は青ざめたまま、何度も頭を下げて去っていった。
その夜、透子は寝付けなかった。
眠ろうと目を閉じても、意識ばかりが冴えていた。
風が吹いて、庭木が揺れる。どこか遠くで誰かの足音がして、また消える。それらは如月家でも聞いたことのある音のはずなのに、不思議と何ひとつ耳に馴染まない。
今日からここで生きていくのだと思った途端に、心細さを感じていた。
屋敷の奥から漂う孤独の色は、夜になっていっそう濃くなっているようだった。まるで、誰かが声を殺して泣いているようなのだ。
つい気になって、透子は寝台から身を起こす。
北棟には近づくなと宵は言っていた。夜に屋敷を歩き回るなとも。
これからいけないことをしようとしていることは、分かっている。けれど、あの泣き声のような孤独を残したまま眠れそうにはなかった。
屋敷の奥から漂う気配は、不思議なくらい宵が纏うものによく似ている。
あの人はよく笑う。けれど、その笑みは少しも温かくない。
透子はしばらく迷った末に羽織を手に取った。部屋の外に出るのではなく、少しだけ廊下の空気を吸うだけだと自分に言い聞かせながら、襖に手を掛けた、その時。
「――だから言っただろう。処理前の穢れを持ち込むなって」
宵の声だった。その声は冬の空気に晒された時のような冷たさを持っていた。思わず背筋を伸ばしてしまうほどの温度のなさに、透子は足を止めた。
廊下の角の向こうに、宵と軍服姿の男がいた。男は暗がりでも分かるほど顔を青くさせながら、深く頭を下げている。
「申し訳ありません、南雲少将」
「謝罪はいらない。僕は謝られるのが嫌いなんだ。許さなきゃいけない気分になるから」
「ですが」
「言い訳もいらない。聞く価値があるほど、君は有能じゃないでしょ」
男の肩がびくりと震える。
宵は微笑んでいた。優しく、美しく、ぞっとするほど冷たい微笑だった。
「次に同じことをしたら、君の所属ごと陰陽寮から外す。帝都の外れで、普通の軍人として頑張るといいよ。向いてるかは知らないけど」
「南雲少将、どうか、それだけは」
「それ以上近づかないで。馬鹿が移る」
春風のように穏やかな声だ。だからこそ、廊下の空気が一瞬で凍りつく。
「結果を出せない人間の必死さって、見苦しいね」
男は青ざめたまま、何度も頭を下げて去っていった。


