宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 北棟の執務室で、宵は一人座っていた。
 机の上には事件に関する記録と、榊が持ち込んだ古い文書が広げられている。黒い糸の残滓を封じた紙片、婚姻縛りに関する記録、そして篠乃の簪について記された台帳。

 部屋には墨と薬草の匂いが濃く満ち、窓の外の灰色の光が、宵の横顔をいっそう白く見せていた。

 透子が入っても宵は驚かなかった。ただ、書類から顔を上げて、いつものように眠たげな目を細める。

「おはよう、花嫁さん」

 その呼び方に、透子の胸がちくりと痛む。苦しい時には透子と呼ぶのに、遠ざけたい時には花嫁さんへ戻る。その距離が、今は辛かった。

「透子です」

 静かに言うと、宵の指が止まった。

「私の名前は、透子です」
「……透子」
「はい」

 名前を呼ばれる。それだけのことで胸が震える。けれど、今日は泣かなかった。泣いたら、宵はまた困った顔をするだろうから。

「離婚の話なら」

 宵が口を開きかけた瞬間、透子は首を振った。

「最後まで聞いて」
「嫌です」

 宵は疲れたように笑った。

「君は頑固だね」
「旦那様ほどではありません」
「本当に、言うようになった」

 その声音には懐かしむような響きがあった。けれど、すぐに冷たい静けさが戻る。

「君は実家に戻す」
「戻りません」
「透子」
「絶対に戻りません」

 透子はまっすぐに宵を見た。

「私は、物ではありません。南雲家へ運ばれてきて、また如月家へ戻される荷物ではありません」

 宵の表情が分かりやすく揺れた。

「……そんなつもりじゃない」
「分かっています。旦那様が私を怖がっていることも、守ろうとしてくださっていることも、分かっています。でも、私の行き先を旦那様だけで決めないでください」

 宵は何も言わなかった。
 透子は机の上に置かれた文書へ目を落とす。そこには、婚姻縛りについての記述があった。
 花嫁の本名を簪に結び、嫁ぎ先へ従属させる。名を縛られた花嫁は、家の意志に逆らえない。そう書かれている文書の端には、透子の生家――如月家の名もあった。

「これが、事件の核なのですね」

 透子が尋ねると、宵はそっと目を伏せた。

「たぶんね」
「私の実家も関係しているのでしょうか」
「可能性はあるけど」
「なら、行きます」
「透子」
「私の家です。私を差し出した家で、私の名前を呼ばなかった家です。そこがこの事件に関わっているのなら、私にも知る権利があります」