宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その日、南雲家の屋敷は、雨の匂いに沈んでいた。
 まだ降り出してはいない。けれど空は厚い灰色に覆われ、庭の白砂も、黒々とした松の影も、どこか息を潜めているように見えた。夜のあいだに何度も目を覚ました透子は、障子の向こうに滲む薄暗さを見つめながら、胸の奥に残り続けている言葉を、何度も思い返していた。

 ――離婚しよう。

 宵の声は、今も耳の奥に残っている。
 冷たかったわけではない。むしろ、あまりにも痛そうだった。透子を突き放すために選んだ言葉なのに、その言葉で誰より深く傷ついていたのは、きっと宵自身だった。

 君を守るには、僕から離すしかない。そう言った時の、壊れそうな顔を思い出すたび、透子の胸は苦しくなる。

 透子は宵に告げてしまったのだ。
 好きです、と。

 言わなければよかったとは思わない。けれど、その言葉が宵を追い詰めたことも、痛いほど分かっていた。宵にとって愛は、温かいものではない。母を壊し、自分を縛り、そしていつか自分も誰かを壊してしまうかもしれないもの。逃げても逃げても追ってくる、呪いに近いものなのだろう。

 それでも透子は、もう自分の気持ちをなかったことにはできなかった。

 宵を好きだと思ってしまったのだ。
 それは彼を縛るためでも、壊すためでもない。ただ、生きていてほしい、ひとりで痛みの奥へ沈まないでほしい、苦しい時には苦しいと言ってほしい、遠くへ行ってしまわないでほしい――願っているのは、それだけのことだった。
 それなのに、どうしてこんなにも難しいのだろう。

「透子様」

 襖の向こうから、八重の声がした。

「お目覚めでいらっしゃいますか」
「はい」

 返事をすると、八重が静かに部屋へ入ってくる。いつものように穏やかな顔だったが、その目元には疲れが残っていた。
 透子は自分でも驚くほど早く尋ねていた。

「旦那様は」

 八重はそっと目を伏せる。

「北棟においでです」
「眠っておられないのですね」
「……はい」

 やはり、と透子は思った。
 宵は眠らない。痛い時ほど、苦しい時ほど、仕事の中へ逃げる。誰にも触れられない場所へ、自分を閉じ込めてしまう。

「お会いになりますか」

 八重の問いに、透子は迷った。
 会いたい。けれど、宵はきっとまた遠ざけるだろう。離婚だと言い、実家へ戻すと言い、透子の気持ちごと終わらせようとする。
 それでも、逃げたくはなかった。

「会います」

 透子は立ち上がった。

「離婚するとおっしゃるなら、ちゃんと私の目を見て言っていただきます」

 八重は一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、ほんの少しだけ微笑む。

「透子様は、お強くなられましたね」
「強くはありません」

 透子は首を横に振る。

「怖いです。でも、何も言わないまま終わらせる方が、もっと怖いのです」

 八重は深く頭を下げた。

「では、ご案内いたします」