宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「どうしてですか」

 問いかけると、宵はしばらく答えなかった。
 長い沈黙のあとで落ちてきた声は、自分自身へ言い聞かせるように静かだった。

「君が壊れるから」
「私は壊れません」

 透子は迷わず答える。すると宵は、自嘲するように小さく笑った。それは笑顔というより、吐息のようなものだった。

「母上もそう言っていた」

 透子は息を呑む。

「愛しているだけだって。何も怖くないって。父上と一緒なら大丈夫だって」

 宵の視線は遠くへ向いていた。
 今見ているのは、この部屋ではなく幼い頃の記憶なのだろう。

「でも違った」

 その声には長い年月抱え続けてきた痛みが滲んでいた。

「母上は壊れた。そして僕は、それを見ていることしかできなかった」

 透子は何も言えない。宵の胸の奥にある傷の深さが、その声音だけで伝わってきたからだ。

「南雲の血は、人を幸せにしない」

 その言葉は呪いのようだった。誰かにかけられたものではなく、宵自身が何年も抱え続けてきたものだ。

「私は、お義母様ではありません」

 透子がそう告げると、宵は目を閉じる。

「分かっている。分かっているのに、怖いんだ」

 静かな声だった。けれど透子には、その一言の方がどんな叫びよりも痛く聞こえた。

「君が僕を見てくれるたびに嬉しいと思ってしまうし、呼ばれるたびにもっと呼んでほしいと思ってしまう。君が笑いかけてくれるたびに、そのまま隣にいてほしいと思ってしまう」

 宵は苦しそうに顔を歪める。

「そんな自分が怖い」
「…………」

 ようやく分かったものがある。
 宵が恐れていたのは愛されることではない。愛してしまうことだったのだ。

「離婚しよう、透子」

 ふわりと落とされた言葉に、透子は息を呑んだ。
 宵は視線を合わせないまま続ける。

「君をここへ置いておけない」
「嫌です」

 首を横に振る透子を見て、宵は苦しそうに眉を寄せる。

「透子」
「私の気持ちは私のものです」

 涙を拭いながら、透子はまっすぐ彼を見る。

「旦那様が怖いからといって、勝手になかったことにしないでください」

 宵の瞳が揺れる。けれど最後まで頷くことはなかった。
 長い沈黙のあとで落ちてきたのは、弱々しい謝罪だった。

「……ごめん。僕には、無理だ」

 そう言い残して、宵は静かに部屋を出ていく。

 閉じた扉を見つめながら、透子はその場から動くことができなかった。
 追いかけたい気持ちはあった。それでも今の宵に必要なのは、追われることではない気がした。

 だから透子は立ち尽くしたまま、胸の奥へ広がる痛みを抱きしめるように目を伏せる。

 好きだと伝えたはずなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろうと思いながら。