宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「私、分かってしまいました」

 透子がそう口にした瞬間、宵の表情が揺らいだ。それはほんの一瞬のことだったけれど、透子にははっきり分かった。彼はもう気づいているのだ。自分がこれから何を言おうとしているのかを。

「やめてほしい」

 返ってきた声には、いつもの余裕も皮肉もなかった。
 人を寄せつけないために纏っているはずの冷たささえ失われていて、その響きには、どうかそれだけは口にしないでほしいという切実な願いだけが滲んでいる。

「旦那様」
「お願いだから、言わないで」

 宵は目を伏せたまま首を左右に振った。その姿があまりにも痛々しくて、透子の胸は苦しくなる。

 けれど、ここで言葉を飲み込むことだけはできなかった。
 名前を呼ばれた時に感じた嬉しさも、不器用な優しさに触れるたび胸の奥が温かくなったことも、ひとりで痛みを抱えながら笑う横顔を見るたび締めつけられるような思いをしたことも、すべて見ないふりをしてきただけで、本当はずっと答えを知っていたのだと思う。

「私は、旦那様が好きです」

 ようやく辿り着いた言葉だった。胸は苦しいほど鳴っているのに、不思議なことに迷いはなかった。

 宵の表情が止まる。その顔からゆっくりと血の気が失われていくのを見ながら、透子は涙の滲む視界のまま言葉を続けた。

「好きなのです」

 それは、初めて手を差し伸べられた時からかもしれない。あるいは、自分の名前を呼んでくれた時からだったのかもしれない。
 はっきりとした始まりは分からない。けれど気づけば、彼は透子の心の中にいた。

「でも、それは旦那様を縛りたいからではありませんし、苦しめたいからでもありません。ただ、生きていてほしいのです」

 頬を伝った涙が、静かに零れ落ちる。

「ひとりで痛い場所へ行かないでください。苦しい時には苦しいと言ってください。そして、どうしても辛い夜には私の名前を呼んでください」

 震える声のまま、それでも透子は微笑んだ。

「それが、私の好きです」

 部屋の中に沈黙が落ちた。
 障子の向こうで風が鳴っている。けれど二人の間には、それさえ遠く感じられるほどの静けさが広がっていた。

 宵は触れていた透子の手をゆっくりと離した。その仕草はまるで、大切だと知ってしまったものから無理やり距離を取ろうとしている人のようだった。

「……駄目なんだ」

 掠れた声が落ちる。
 透子は首を傾げた。

「旦那様」
「駄目なんだよ、透子」

 宵は苦しそうに目を伏せる。