宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 透子は自室へ戻っていた。
 肩で息をしながら、しばらく動くことができなかった。額には汗が滲み、畳の上には黒い糸が散らばっている。けれどそれらはもう動く気配もなく、ただ夜の底に置き去りにされた影のように沈黙していた。
 何も起きなかったかのような静けさが、部屋へ戻ってくる。
 その時、廊下の向こうから激しい足音が響いた。
 襖が勢いよく開く。

「――透子!」

 宵だった。軍服姿のまま、髪を乱し、息を切らし、顔色を失っている。透子の姿を見つけた瞬間、その表情からは張りつめていたものがほどけた。

「無事?」
「はい」

 宵は何も言わずに、ただ透子を見つめている。それから安堵したように息を吐いた。

「……よかった」

 宵はそれだけを言うと、なおも透子から目を離さなかった。確かめてもなお信じきれないように、あるいは目を逸らした瞬間に失ってしまうことを恐れるように、その視線は痛いほど真っ直ぐだった。
 宵は透子の肩を掴み、顔を覗き込む。

「どこか、痛むところは」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「……よかった」

 その声を最後に、宵はまるで糸が切れたように透子の肩へ額を落とした。
 透子は動けなかった。
 宵が、震えている。

「旦那、様?」
「怖かった」

 消え入りそうな声だった。

「君がいなくなるかと思った」

 その言葉は、透子の心の奥深くへ落ちていった。
 宵はすぐに我に返ったのか、体を離そうとする。けれど透子は、彼の袖を掴んだ。

「旦那様」
「離して」
「嫌です」
「透子」
「離したら、旦那様はまたひとりでどこかに行ってしまいます」

 宵の顔がくしゃりと歪む。

「行くよ」
「どうしてですか」
「君を守るため」
「私は、旦那様がいなくなる方が怖いです」

 そう口にした途端、宵が息を呑んだ。透子の胸も苦しいほど脈打っていた。

 本当は、こんなことを言うつもりではなかった。けれど彼が自分を遠ざけようとするたびに、胸の奥で積もっていたものがあったのだ。

 痛そうな顔をしてほしくない。ひとりで苦しまないでほしい。どうか生きていてほしい。その願いは、気づかないうちに言葉になるほど大きくなっていたらしい。
 だからもう、止めることができなかった。