宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その夜、透子は眠ることができなかった。
 宵は軍府へ向かったきり、まだ戻らない。榊が同行しているとはいえ、誰の制止も聞かずに出ていった背中を思い出すたび、胸の奥には冷たいものが沈んでいく。

 障子の向こうでは、夜風が庭木を揺らしていた。枝葉が擦れ合うかすかな音はいつもと変わらないはずなのに、今夜に限っては、屋敷そのものが息を潜めているように感じられる。

 ――君には関係ない。
 そう告げた宵の声が、まだ耳の奥に残っていた。
 自分を守ると言いながら、肝心なところでは遠ざけようとする。南雲家の花嫁だと呼ぶくせに、南雲家の傷には触れさせまいとする。その矛盾が悔しくて、悲しくて、それ以上に、自分がその一言で深く傷ついてしまったことが苦しかった。
 透子は寝台へ腰を下ろし、膝の上でそっと指を握りしめる。

「……好き、なのでしょうか」

 声にしてしまえば、胸の奥に隠していたものが形を持ってしまう気がした。けれど、口にした瞬間に痛んだその場所こそが、もう答えを知っているようでもあった。

 名前を呼ばれると嬉しい。姿が見えないと落ち着かない。痛そうな顔をしていると、自分の胸まで苦しくなる。誰かを案じる気持ちと、誰かを想う気持ちの境目がどこにあるのか、透子にはまだ分からない。それでも、分からないと言い続けるには、もうあまりにも遠くまで来てしまった気がしていた。

 その時だった。
 ちりん、と。どこかで鈴が鳴った。
 透子は顔を上げる。部屋の灯りが、風もないのにふっと揺れた。障子の向こうに、細い影が滑る。
 濡れた髪のような黒い糸が、音もなく畳の上へ伸びてきていた。一本、二本、三本と、闇から滲み出すように現れたそれらは、透子の足元へ集まり、逃げ道を塞ぐようにゆるやかな円を描いていく。
 けれど、前のように身体へ絡みついてくることはなかった。

 ただ静かに、透子を囲んでいる。
 その様子を見つめているうちに、視界がゆっくりと滲みはじめた。部屋の輪郭がほどけ、灯りが遠のき、音が水の底へ沈んでいくように曖昧になる。

 気づけば、透子は知らない場所に立っていた。
 そこは、どこまでも白い空間だった。
 床も柱も天井も白く、すべてが淡く霞んだその場所には静謐さが満ちている。それは長い年月をかけて積もった諦めと孤独が、白い布の下へ隠されているような、息苦しいほど冷たいものだった。

 そこには、数えきれないほどの花嫁たちが立っていた。
 白無垢を纏い、整然と並びながら、誰ひとりとして顔を持たない。ただ白い衣だけが、風もないのにかすかに揺れている。その姿を見た瞬間、透子の胸に痛みが走った。

 どうしてなのかは分からない。けれど、その人たちが長いあいだ泣いていたことだけは分かった。
 やがて、幾重にも重なった女たちの声が、白い空間の奥から静かに響いた。

 ――花嫁。
 ――妻。
 ――嫁。

 透子は息を呑む。
 そこには名前がなかった。
 誰も、名前で呼ばれていない。残されているのは役割だけで、その人自身を示す言葉はどこにもなかった。まるで最初から名など持たなかったかのように。まるで、誰かの家へ渡されるためだけに生まれたかのように。