宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「私を守ると仰るのなら」

 透子は胸の奥で震えるものを押さえながら言葉を続ける。

「旦那様も、少しくらい私に守られてください」

 長い沈黙ののちに、宵は小さく笑う。けれどその笑みは美しいだけで、少しも嬉しそうではない。

「守る?」

 その声音には自嘲が滲んでいた。

「君が、僕を?」
「はい」

 透子が頷くと、宵は目を伏せた。まるで笑うしかない話を聞かされたみたいに。

「無理だよ」
「無理かどうかは」
「無理なんだよ」

 吐き出された声は掠れていた。けれど透子が何か言おうとした瞬間、堰を切ったように続く。

「無理なんだよ!」

 その場の空気が震えた。
 透子は思わず肩を揺らす。宵自身も驚いたように息を止めていた。
 こんなふうに感情を露わにする人ではない。だからこそ、その声には長い年月押し込めてきた痛みが滲んでいた。

「君は何も知らない」

 苦しげに吐き出される言葉を、透子はただ聞く。

「僕が何を引き受けてきたかも、南雲の血がどういうものかも、愛されることがどれだけ怖いかも知らない」

 怒っているように見える。けれど本当にそこにあるのは怒りではなかった。恐怖だった。

「君は平気な顔で近づいてくる」

 宵は笑った。その笑みは痛々しいほど歪だった。

「放っておけないとか、一人にしたくないとか、そんな顔で僕を見る。……そういうのが、一番怖いんだよ」

 透子は返す言葉を失った。その言葉の奥にあるものが見えてしまったからだ。

「君が僕を見るほど、僕は君を手放せなくなる」

 苦しそうに息を吐きながら、宵は続ける。

「君が僕に笑いかけるたびに、僕は君の名前を呼びたくなる」

 それは恋を語る言葉ではなかった。けれど、好きだと告げられるよりもずっと切実に、彼の本心が滲んでいた。

「そんなの駄目だ。僕は君を母上みたいにしたくない」
「私は違います」
「そう言うだろうね」

 宵は目を伏せ、息を零すように笑った。その顔は不思議なほど穏やかで、それがかえって切なかった。

「でも僕には同じに見える。愛は人を壊すんだ」

 その言葉は誰かを責めるものではない。長い間自分へ掛け続けてきた呪いのようだ。
 透子は胸の奥が苦しくてたまらなかった。でもそれでも、伝えたいことがあるのだ。

「旦那様。私はまだ、好きだとは言っていません」

 宵の瞳が波打つように揺れる。

「でも、もしそう思う日が来たとしても、それは旦那様を壊したいからではありません」

 傷ついた顔をしている宵を見つめながら、透子はそっと息を吸った。怖くないわけではない。それでも今だけは目を逸らしたくなかった。

「私は、旦那様に生きていてほしいのです」

 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
 宵は何も言わずに、ただ透子を見つめている。まるで信じられないものを見たような眼差しで。あるいは、ずっと欲しかったものを差し出されて戸惑う人のように。

 やがて彼は顔を歪めた。笑いそうにも、泣きそうにも、怒っているようにも見えたけれど、そのどれでもない気がした。

「……やめて。お願いだから」

 それだけを残して、宵は立ち上がる。
 誰も引き止められなかった。

 閉じた戸を見つめながら、透子はただ立ち尽くしていた。
 追いかけたいと思う。名前を呼びたいとも思う。けれど今の宵は、追われることさえ苦しいのだろう。

 だから透子は動けなかった。消えていった背中を見つめながら、胸の奥へ残った痛みだけを静かに抱きしめていた。