宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「駄目です」

 透子がきっぱりと言うと、宵はようやく顔を上げた。その目には困ったような色も、説得しようという気配もない。ただ距離を置こうとする時だけ見せる、静かな壁があった。

「花嫁さん」

 名前ではなかった。昨夜はあれほど必死に呼んでくれたのに。
 透子、と。あの声が耳に残っているからだろうか。花嫁さんという呼び方が、思いのほか胸に痛かった。けれど今は、その痛みに立ち止まっている場合ではない。

「これは南雲家の問題だ」

 淡々と告げられた言葉に、透子は首を横へ振る。

「だからこそ、お身体を休めてください」
「休んでいる場合じゃない」
「旦那様」

 呼びかけると、宵はわずかに目を伏せたあとで静かに言った。

「透子」

 今度は名前だった。それだけで胸の奥が揺れる。
 けれど続いて落ちてきた言葉は、思っていたよりもずっと冷たかった。

「これは僕が片づける」

 その声には決意があった。けれど同時に、誰にも踏み込ませない拒絶もあった。
 自分だけで終わらせる。自分だけで引き受ける。そう言っているように聞こえた。

 透子は唇を引き結ぶ。
 この人はいつもそうだ。苦しい時ほど笑い、傷ついている時ほど平気な顔をする。そして誰にも頼らないまま、自分ひとりで終わらせようとする。

「また、おひとりで抱え込むのですか」

 宵の眼差しが冷ややかなものに変わる。怒っているというよりも、触れてほしくない場所へ手を伸ばされた人のような顔だった。

「君には関係ない」

 低く落ちた声に、胸の奥が強く痛む。
 関係ない。その一言は、思っていたよりずっと鋭かった。今までだって似たような言葉を向けられたことはあるが、今は違った。必死に自分の名前を呼んでくれた人から、関係ないと言われることがこんなにも苦しいなんて思わなかった。

 それでも透子は目を逸らさなかった。ここで引いてしまえば、この人はまたひとりになってしまう気がした。

「関係あります」
「ないよ」
「あります」

 静かな押し問答だった。けれど透子は退かなかった。

「私は南雲家の花嫁です」

 声が少し震えていることに自分でも気づいていた。
 それでも続ける。

「旦那様が私をそう呼ぶのなら、関係ないとは言えません」

 部屋が静まり返る。榊も八重も何も言わない。ただ二人だけが向かい合っていた。