その夜、軍府から榊が訪れた。
持ち込まれたのは、宵の父に関する古い記録だった。
宵の父の名は、南雲暁臣。南雲家の前当主である彼は、十年前に亡くなっている。朝廷の婚姻儀礼の整理と廃止に関わった記録が残っているという。
北棟の調査室で、榊は書類を机に並べた。
「暁臣様は、旧式の婚姻縛りを廃止しようとしていたようです」
宵は無表情で書類を見ている。
「父上が?」
「はい。政略結婚に伴う呪術的拘束を問題視していた記録がありました。特に、花嫁の名を縛る儀式について」
「名を、縛る……」
榊が頷く。
「花嫁の本名を簪や櫛に結びつけ、嫁ぎ先へ従属させる儀式です。今は表向き廃止されていますが、一部の家では形を変えて残っていた可能性があります」
透子は自分の名を思った。
呼ばれなかった名前。ようやく宵が呼んでくれた名前。それを奪われることを想像すると、たまらなく悲しい気持ちになった。
「失踪した花嫁たちは、何者かに名を縛られ、連れ去られた可能性があります。……ただ問題は、誰がそれを行っているかです」
宵は黙ったまま、書類の一枚を手に取った。
そこには、暁臣の署名がある。それを見つめる宵の周りに、鈍い黒が滲んでいく。
父への感情や怒り、憎しみではない。もっと複雑で、寂しいものだ。
「暁臣様は、篠乃様の簪を回収後、保管庫に納めたと記録されています。しかしその後、保管庫から簪が消えています」
「誰が持ち出した?」
「不明です。ただ、その直後に暁臣様は亡くなられています」
宵は書類を置いた。
「つまり、父上の死と簪の消失が繋がっているかもしれないということか。……そして今、簪を使った花嫁失踪事件が起きている」
「おそらく」
透子は息を詰めた。
過去の政略結婚、愛されなかった篠乃、婚姻縛りを廃止しようとした暁臣。そして消えた簪と、狙われる花嫁たち。すべては、南雲家の過去と繋がっているのだろうか。
宵は淡々としていたが、透子には見えた。彼の孤独が、冷えた鉄のように硬くなっていくのを。
「南雲少将。今夜は軍府で改めてこの件を調査いたしますので、どうかお身体をお休めください」
榊の言葉は遠慮がちではあったものの、その声音にははっきりとした懸念が滲んでいた。
宵が受けた穢れは決して軽いものではなかった。それは顔色を見れば、誰の目にも明らかだったはずだ。
けれど当の本人だけは、その事実を認める気がないらしい。資料へ落としていた視線を上げることもなく、宵は当然のように口を開いた。
「僕も行く」
予想していた返答だった。それでも透子は眉を寄せる。隣では八重まで息を呑んでいた。
「旦那様」
制止する声は自然と強くなる。あれほど苦しそうな姿を見たばかりなのだ。穢れを引き受け、熱に浮かされながら、それでも透子の名前を呼んでいた姿が脳裏をよぎる。
だからこそ、何事もなかったように振る舞う今の姿が腹立たしくさえあった。
持ち込まれたのは、宵の父に関する古い記録だった。
宵の父の名は、南雲暁臣。南雲家の前当主である彼は、十年前に亡くなっている。朝廷の婚姻儀礼の整理と廃止に関わった記録が残っているという。
北棟の調査室で、榊は書類を机に並べた。
「暁臣様は、旧式の婚姻縛りを廃止しようとしていたようです」
宵は無表情で書類を見ている。
「父上が?」
「はい。政略結婚に伴う呪術的拘束を問題視していた記録がありました。特に、花嫁の名を縛る儀式について」
「名を、縛る……」
榊が頷く。
「花嫁の本名を簪や櫛に結びつけ、嫁ぎ先へ従属させる儀式です。今は表向き廃止されていますが、一部の家では形を変えて残っていた可能性があります」
透子は自分の名を思った。
呼ばれなかった名前。ようやく宵が呼んでくれた名前。それを奪われることを想像すると、たまらなく悲しい気持ちになった。
「失踪した花嫁たちは、何者かに名を縛られ、連れ去られた可能性があります。……ただ問題は、誰がそれを行っているかです」
宵は黙ったまま、書類の一枚を手に取った。
そこには、暁臣の署名がある。それを見つめる宵の周りに、鈍い黒が滲んでいく。
父への感情や怒り、憎しみではない。もっと複雑で、寂しいものだ。
「暁臣様は、篠乃様の簪を回収後、保管庫に納めたと記録されています。しかしその後、保管庫から簪が消えています」
「誰が持ち出した?」
「不明です。ただ、その直後に暁臣様は亡くなられています」
宵は書類を置いた。
「つまり、父上の死と簪の消失が繋がっているかもしれないということか。……そして今、簪を使った花嫁失踪事件が起きている」
「おそらく」
透子は息を詰めた。
過去の政略結婚、愛されなかった篠乃、婚姻縛りを廃止しようとした暁臣。そして消えた簪と、狙われる花嫁たち。すべては、南雲家の過去と繋がっているのだろうか。
宵は淡々としていたが、透子には見えた。彼の孤独が、冷えた鉄のように硬くなっていくのを。
「南雲少将。今夜は軍府で改めてこの件を調査いたしますので、どうかお身体をお休めください」
榊の言葉は遠慮がちではあったものの、その声音にははっきりとした懸念が滲んでいた。
宵が受けた穢れは決して軽いものではなかった。それは顔色を見れば、誰の目にも明らかだったはずだ。
けれど当の本人だけは、その事実を認める気がないらしい。資料へ落としていた視線を上げることもなく、宵は当然のように口を開いた。
「僕も行く」
予想していた返答だった。それでも透子は眉を寄せる。隣では八重まで息を呑んでいた。
「旦那様」
制止する声は自然と強くなる。あれほど苦しそうな姿を見たばかりなのだ。穢れを引き受け、熱に浮かされながら、それでも透子の名前を呼んでいた姿が脳裏をよぎる。
だからこそ、何事もなかったように振る舞う今の姿が腹立たしくさえあった。


