「……分からないのです」
若葉が風に揺れ、どこかで鳥が短く鳴く。その穏やかな気配とは裏腹に、透子の胸の内は落ち着かなかった。
「またそれ?」
宵は呆れたように笑ったが、透子は首を振る。
「本当に分からないのです。旦那様のことをもっと知りたいと思いますし、そばにいたいとも思います。苦しそうにしている時には一人でいてほしくありませんし、痛い時には少しでも楽になってほしいと思います」
そこまで口にしてから、透子は言葉を失った。
自分の気持ちは確かにそこにある。けれど、それが何という名前なのかまでは分からなかった。
「でも、それが好きということなのかと聞かれると……」
声が途切れる。
――好き。その言葉だけは、なぜか簡単に口にできなかった。
一度でも認めてしまえば、もう今までと同じ場所へは戻れない気がする。何かが決定的に変わってしまう予感だけがあって、透子はその先へ進めずにいた。
しばらく黙っていた宵は、重ねていた手をそっと離した。
指先から温度が遠ざかる。それだけのことなのに、泣きたくなってしまった。
「だったら分からないままでいて」
穏やかな声だった。しかし透子には、その穏やかさがかえって遠く感じられた。
「分かったら終わりだから」
「終わり、ですか」
「離婚」
さらりと言われたその言葉に、透子は思わず顔を上げる。
宵は笑っていた。いつもと変わらない綺麗な笑みだったが、その奥には隠しきれない疲れのようなものが滲んでいた。
「言ったでしょ。僕のことを好きになったら離婚だって」
「どうして、そこまで仰るのですか」
問いかけると、宵はすぐには答えなかった。
風が吹き、木々の葉がさやさやと鳴る。その音を聞いているうちに、ようやく彼は小さく息を吐く。
「君を壊したくないから」
「私は壊れません」
「そうかな」
宵は苦く笑う。
「母上も最初はそうだった」
その言葉には、長い時間抱え続けた後悔が滲んでいた。
透子は何も返せなくなる。
篠乃の姿が脳裏をよぎったからではない。宵自身が今もその記憶から逃げられずにいることが分かってしまったからだった。
やがて宵は話を打ち切るように踵を返す。その背中を見ているうちに、透子はどうしても黙っていられなくなった。
「旦那様」
呼び止めると、足音だけが止まる。
「私は義母上様ではありません」
宵は振り返らない。
「旦那様も義父上様ではありません」
夕暮れの光が長い影を落としている。その影の向こうにいる宵は、なぜだかとても遠く見えた。
「同じにはならないと思います」
「……そう言えるうちは、まだ知らないだけだよ」
宵はそのまま歩き出した。
届きそうで届かない背中だった。少し近づいたと思えば離れていき、ようやく手が届くと思った瞬間には、また遠くへ行ってしまう。
それでも透子は足を止めない。追いかけることをやめてしまったら、本当に見失ってしまう気がしたからだ。
若葉が風に揺れ、どこかで鳥が短く鳴く。その穏やかな気配とは裏腹に、透子の胸の内は落ち着かなかった。
「またそれ?」
宵は呆れたように笑ったが、透子は首を振る。
「本当に分からないのです。旦那様のことをもっと知りたいと思いますし、そばにいたいとも思います。苦しそうにしている時には一人でいてほしくありませんし、痛い時には少しでも楽になってほしいと思います」
そこまで口にしてから、透子は言葉を失った。
自分の気持ちは確かにそこにある。けれど、それが何という名前なのかまでは分からなかった。
「でも、それが好きということなのかと聞かれると……」
声が途切れる。
――好き。その言葉だけは、なぜか簡単に口にできなかった。
一度でも認めてしまえば、もう今までと同じ場所へは戻れない気がする。何かが決定的に変わってしまう予感だけがあって、透子はその先へ進めずにいた。
しばらく黙っていた宵は、重ねていた手をそっと離した。
指先から温度が遠ざかる。それだけのことなのに、泣きたくなってしまった。
「だったら分からないままでいて」
穏やかな声だった。しかし透子には、その穏やかさがかえって遠く感じられた。
「分かったら終わりだから」
「終わり、ですか」
「離婚」
さらりと言われたその言葉に、透子は思わず顔を上げる。
宵は笑っていた。いつもと変わらない綺麗な笑みだったが、その奥には隠しきれない疲れのようなものが滲んでいた。
「言ったでしょ。僕のことを好きになったら離婚だって」
「どうして、そこまで仰るのですか」
問いかけると、宵はすぐには答えなかった。
風が吹き、木々の葉がさやさやと鳴る。その音を聞いているうちに、ようやく彼は小さく息を吐く。
「君を壊したくないから」
「私は壊れません」
「そうかな」
宵は苦く笑う。
「母上も最初はそうだった」
その言葉には、長い時間抱え続けた後悔が滲んでいた。
透子は何も返せなくなる。
篠乃の姿が脳裏をよぎったからではない。宵自身が今もその記憶から逃げられずにいることが分かってしまったからだった。
やがて宵は話を打ち切るように踵を返す。その背中を見ているうちに、透子はどうしても黙っていられなくなった。
「旦那様」
呼び止めると、足音だけが止まる。
「私は義母上様ではありません」
宵は振り返らない。
「旦那様も義父上様ではありません」
夕暮れの光が長い影を落としている。その影の向こうにいる宵は、なぜだかとても遠く見えた。
「同じにはならないと思います」
「……そう言えるうちは、まだ知らないだけだよ」
宵はそのまま歩き出した。
届きそうで届かない背中だった。少し近づいたと思えば離れていき、ようやく手が届くと思った瞬間には、また遠くへ行ってしまう。
それでも透子は足を止めない。追いかけることをやめてしまったら、本当に見失ってしまう気がしたからだ。


